鶴亀先生と夏の終わり3
その頃、私でも歩いて行ける距離のところに脱サラしたおじさんが始めたパン屋ができた。彼のほうがお調子者で好きだ。
天気の話題、初めての田舎生活での戸惑いなど会話のチョイスが長すぎずちょうどいい。お店で流れているふざけた音楽も好き。
「はい、これおまけね」
とたいてい一番安いドーナツをくれた。それなのに一ヶ月もしないうちに潰れてしまって、空き家のリフォーム代にきっと退職金を使い込んでしまってこれからの生活のためにまたどこかで働いているのだろう。そういう人間臭い人は嫌いじゃないが、それこそ身内になりたくない。私の恋愛探知機はガンになってから鈍くなっているようでよかった。
姉がその店の蒸しパンを恋しがるのでキミヒコさんと作った。普通のパンと違い発酵の時間が必要ない。甘めのたまご蒸しパンにした。
「竹炭入れなかったの?」
姉に言われるまで気づかなかった。こういうところが商売につなげられないのだ。
「パン屋なんて無理だもん」
確かお店を出すなら食品衛生責任者の講習を受けなければならない。
「あのおじさんに卸せばウインウインだったかもね」
姉には経営の才がある。
私は子どものときから早起きが苦手だ。夜更かしもしない。得意なことなどないと思っていた。大人になると不思議なもので、そこそこいろんなことができるようになる。時代のおかげで検索をすれば一発。更に今は精霊が見える。それもキミヒコさんだけだが、彼は家族だからなんとかその姿を映して世に晒そうなどとは思わない。
パン屋のおじさんとの関わりで、人と知り合うことの難しさをまた痛感。優しくしてくれたのにお返しできたのだろうか。夜逃げのようにいなくなってしまったから。悩んで閉店したのだろうが、ただの客の私にお金のことなど相談などするはずない。
恋愛ってどうやって始まるのだろう。餌を巻いてそれにホイホイ寄ってくるような男は嫌で、木の精霊でも嫌で、私の生体に興味のある医者も嫌で。私はこの先誰かを好きになったりするのだろうか。愛したら、その分愛してくれる人がいい。
台風で家が土砂にまみれる映像を見ると遠い場所でも辛い。ここはキミヒコさんがいるから大丈夫なのだろう。守ってくれる人がいい。私だけでなく、私の大切な人だったり物を。
9月に入ると急に秋の気配。大玉トマトは失敗して雨のせいでほとんど割れてしまったから、それを片づけていたら土に擬態した茶色いバッタと出くわした。しゃがんだ私の顔に体当たりしてくる。自分の体の何倍も高く遠くに飛べるなんてすごいな。
今更、空を飛びたいとは思わない。願わくば、普通のつまらない人生をきちんと送りたい。私は平均寿命の半分も生きられないのだろうか。薬が変わったことにまたキミヒコさんが気づく。鶴亀がうちに訪れたとき、私は怖かったが姉は吉報を心待ちにしていたのかもしれない。そうじゃない上に、私は彼の愛が単純に気持ち悪い。
実家に戻ったせいもあって昔の音楽をよく聞いている。誰かから借りたままの小説を開き、あの子はなんで子どものときからこんな腐ってゆく大人の話が面白かったのだろうと人嫌いに拍車をかける。友達と仲がいいのなんて人生のほんの一瞬で、あとは縁が切れてしまう。どうして姉の友達は暑中見舞いをくれるのだろう。姉は返さないのに。年賀状を送るのかもしれない。互いにちょっとずつ近況を書きあっているのだろう。そうやって続いてゆく。私はきっとどこかで見落としたのだ。大切にしたい人を見誤った。そして誰とも親しくしていない。
死んじゃうなら友達はもう作らない。いろんな箇所のガンが小さくなりつつあるようで鶴亀は目を丸くするというよりはただただ驚いていたが、余命の撤回はしてくれない。つまり、死ぬことに変わりはないのだと思っていた。
それなのに真面目に薬を服用する。生きたいからじゃない。死にたくないからだ。
午前中からトラックが庭を陣取っている。玄関先で姉が困り顔。
「どうしたの?」
私は姉に尋ねた。
「急に修理の依頼みたい。普通、先に連絡があるんだけどね」
ここで断れば運送屋さんが板挟み。しぶしぶ姉はベッドを仕事場へ運ぶように運送屋さんに指示。こっそりキミヒコさんが手伝うから大きなベッドでも二人の配送員さんは軽々。籐だから軽いと思ってくれているだろう。
私は配送員を見送ったが、姉はずっと手紙を読んでいた。
仕事場で見てみるとベッドなのに絶妙な傾斜がかかっている。
「カウチ?」
「海の近くの別荘のプール脇に放置していたそうだから傷みが激しいのね」
姉が手で弾力を確認する。ラタンのものは100年近く持つと言われているけれど使い方によっては半減する。
ちらっと視界に入った手紙には、
『当方、こちらの上で死ぬことを望む』
と記されてあった。
よって、金も多めに払うから修理を急げということなのだろうだが、姉は休日がない人だから休日返上もできず、かと言って他人のわがままを聞くような人でもないのだけれど、さすがにスペースを取って邪魔なので先に手をつけるようだった。キングサイズほどあって、姉の話では父との共作らしい。つまり、10年以上前の代物。ボロボロのカウチからはほんのり潮風の匂いがした。
所有者は私よりはずっと年上のおじいさんだが、私と同じガンらしかった。そのこともあって姉は先に修理を開始した。あの血便に彼も驚いたのだろうか。そして余命を宣告されて、それならばと思い立ったのだろう。
私はどこで死にたいのだろうか。部屋よりも作業中がいい。竹を割っているときか、枕に竹炭を詰めているとき。こんな私でも唯一、他人の幸せを願っているときだから。
人間は自殺以外では絶対に死の瞬間を選べない。入浴中かもしれないし台所かもしれない。車を運転しているときかもしれない。人を巻き込むのは御免だ。
虫よけをしても蚊に刺される。私の血を飲んで大丈夫なのかしら。ガンですよ。薬も多用しています。
少し前、庭で作業をしていたときたぶん猪を見かけた。猪突猛進することなく、振り返って山に戻っていった。野生動物と目が合うと、どうしてあんなにも恐ろしいのだろう。人間だって外で暮らしている時代もあって、家の中が安全とも限らない。近所の岩田さんちのすぐに吠える犬も飼われている自覚があるのか目が違う。飼い犬に噛まれたらその家の人のせいになる。野生動物は誰のせいでもない。そこが怖いのではない。あっちが常に生きるか死ぬかの瀬戸際にいる。私もそうだけれど布団でぬくぬくしている。
姉と揃いで買った夏掛け布団の肌触りが好きだ。夜は寒いからその上に薄い毛布。でも、そろそろ夏仕様をやめたい。冬支度には早い。面倒臭いな。お気に入りの布団にくるまれて死ねたらいいが、きっと違う。病院以外で死ぬと厄介らしい。そうなると、やっぱり鶴亀にそばにいてもらうのがいいのだろうか。
二階の私の部屋は祖父が作った竹製のベッド。そこで死ぬのも悪くない。二階に行けるようになって、いそいそと自分のいらないものを処分したが早まったな。世界地図は見ないが読みたい漫画はあった。おばさんに近づいているのに女の子の気持ちが全部消えるわけじゃない。きゅんきゅんしたいけど、もう男の怖さも自分の狡さも知っているから今のほうが最強。
姉は依頼されたカウチを丹念に修理し、二日も要した。死にゆく人に甘いのではない。最期くらい本人の望むようにしてあげたいと思うのだろうか。だから私を連れ帰ってきたのだろう。ここが好きだよ。最期だから姉のそばにいたいわけじゃない。




