暑さ、病院、畑仕事1
7月、夏の暑さに踊らされる。生活を狂わされる。突然大雨が降って、生活を脅かされる。折角根づいた野菜の苗が流されることもあった。反対に、水やりを怠って干からびてしまうことも。
注文が最も多いあの一人掛けのソファは大きいから居間で編まれたら材料などで半分以上埋まる。ソファながら座ると背もたれは頭よりあるから寄りかかれるし、行儀の悪い私は横に座ってひじ掛けに頭と膝を乗せればちょうどすっぽり。
台座というか、枠に一日、編むのに一日、完璧な状態にするのに一日。要するに、それを作るのには三日かかる。道具は作業場に置いたままだから必要なものを必要なときに取りに行き、はかどらない。
焦る姉を初めて見た。暑中見舞いが謝罪文。それを見た電気工事の社長さんが概算を送ってくれ、姉はエアコンをつけることを決意した。来年のことを踏まえてのことだろう。
来年の夏、まだ私は生きていられるのだろうか。暑いと文句を言えているだろうか。私も含め生きている意味がないように、存在理由もないのに生きている人がほとんどだろう。親にとって子どもが大切、親がいないと子どもが生きられないからくらいの理由で生きている人が大半のはず。もちろん一人でそれなりに生を謳歌する人もいる。
だからね、私は生きたいとは願わないことにする。生かされたなら、それなりに生きるつもり。ここに戻って来たときは姉やキミヒコさんに手を借りて動いていたのだから、そうしなくていいだけお互いに楽だ。
そんなことがあってすっかり殺人事件のことは忘れていたのに、ふらりと刑事さんが事件のことを話しにわざわざ来てくれた。姉の元許嫁の幸塚さんは姉ではない人と結婚をして夫婦で輸入の仕事をして一山当てたらしい。彼を殺したのはその奥さんだった。やっぱりと姉も思っただろう。
「奥さんが自供しましたよ。足が悪くなった夫の介護が辛かったと。昨年、仕事の途中で交通事故に遭ったそうです。夫がずっとソファに座っていることが気に入らなかった。旦那さんから『これを作った人と結婚したかった』と言われたことをずっと根に持っていたようです」
若い刑事さんにお願いしたのか姉は元許嫁が殺された籐のソファの写真を見ていた。他にも部屋の写真が幾つか。こんな捜査資料をほぼ他人の私にまで見せていいのだろうか。
「あっ、この花瓶の台、本当は枕のつもりで彼にあげたんです。私が最初に作ったもので。どうして台にしちゃったかな。そんなに安定しないはずだけど」
姉にとってはもう過去のこと。実際に彼はもう生きていないわけだし。私はこれから死ぬから、言いたいことは伝えよう。姉に看取ってもらいたいとは思わない。迷惑はかけるだろう。葬式は簡素でいい。そんなことを思いながら知らない人が奥さんに殺された部屋の写真を盗み見ていた。
人は強いけれど、愛は脆いものだと思っていた。逆だ。人間は弱い。ガンで死ぬ。愛は人間じゃなくても存在する。そして、人を殺すくらい濁る場合もあるし、或いは一方通行で迷惑な場合もあるし、二人できちんと育めばいつまでも存在する。多分。
彼の庭で見つかった骨は結局人ではなく動物のものらしかった。ともあれ、解決してよかった。
きっと殺された旦那さんも奥さんに言ったことは本心ではないかもしれない。もしかしたら自分を嫌いになってほしかったのかもしれない。
私も恋人に病気のことを伝えたとき、彼がそれでも私への愛を貫いたら困るなと正直思った。こちらは死ぬのに、愛は邪魔だ。彼が頓着しない人でよかった。家や技を継ぐことを決意している人は判断を誤らないように頭も思考も作られているのだろう。愛なんてよくわからないもので人生を棒に振ってはいけないが、愛のために生きている人も少なくない。帰り際に手土産をくれた刑事さんを姉と共に見送った。
他人が注文したものだから私はできあがったソファにあまり座らないようにしているが、姉は必ず座る。制作者として座り心地が気になるのだろう。一度座ったくらいで形が崩れたりほつれたら困る。
「うーん」
と唸って座り心地が悪ければ手直しすることもある。私は発送直前のビニールにくるまれたソファに座ってみた。足が悪くなくてもずっと座っていたいと思う。
誰と暮らしても不満はある。家族でも、愛している人でも、人間じゃなくても。
私は縁側でうたた寝をしていたキミヒコさんが半透明になっていて、よく見えずに踏んでしまったりした。大人になって転ぶと結構痛い。痣ができても今の私の回復力では死ぬまでに消えないかもしれない。キミヒコさんに苛ついて自分に憤る。
家人がそんなことをしているのに、姉が好きな猫はふてぶてしくうちの廊下に上がって、音を立ててもすぐに動ける体制のまま眠っていやがる。
刑事さんの手土産は硬い煎餅だった。それをバリボリ食べて姉は仕事に戻り、私はキミヒコさんと畑を耕した。キミヒコさんはずっと黙っていた。きっと殺された人の言葉が気にかかっているのだろう。人間同士であれば婚姻届けを役所に出す。そうすると戸籍が変わる。姉とキミヒコさんは口約束だけ。
「キミヒコさん、結婚記念日は覚えてる?」
私は聞いた。
「ええと…」
キミヒコさんは考え事をすると手を止めてしまう。
「そういうこと覚えてない夫はだめですよ」
「暦など、人間の決めたこと」
「でも、便利でしょ?」
もうすぐ大暑。めちゃくちゃ暑いってことだ。祖母は暦に則って農作物を植えていたような気がする。優しいおばあちゃんの声がもうぼんやり。あんなに一緒にいたのに、時間の経過と記憶は残酷だ。そっちに行ったら、また家族で暮らせるのだろうかと空を見上げる。姉も亡くなったらキミヒコさんをみんなで待とう。しかし、精霊と人は死後まで違うのかもしれない。
私は草取りや開墾が楽しいのに姉が駆けてきて、
「小春、明日病院なんだからゆっくりしていなさい」
と連れ戻された。
仕方なく、エアコンの効いた部屋からキミヒコさんを眺めた。見ていないと働かない人もいるが彼は違う。私が治ったら、また見えなくなってしまうのだろうか。
死ぬなら今がいい。涼しいだけで天国。キミヒコさんは私の裸を見ても動じない。子どものときから見ているのだろう。私が死んでもキミヒコさんは寂しくないと思う。姉が泣くから困るだけ。キミヒコさんを見ていると彼のことを好きになりそうになる。この気持ち自体は悪いものではない。しかし、人間であっても精霊だろうが姉の夫にまで色目は使わない。それはいけないことだ。患っていてもその分別だけはある。
それに二人はきちんと愛し合っている。誰かのために誰かがいて、一生に一人のその人に出会うために生きているって考える人もいるのだろう。二人はまさにそれ。キミヒコさんは精霊なのに人型にまでなって、姉も周囲の目などお構いなしに夫を愛している。それを間近で見ているし、もうすぐ死ぬ病気のおかげで暴走せずにすむ。
姉は仕事でヘトヘトで、キミヒコさんも熱中症のようになってしまっては我が家のあれこれが機能しなくなる。私では家の使っている部分の掃除しかできない。
キミヒコさんは縁側に戻って、一休みしてまた農作業。この人、きちんと自分のことがわかっている。無茶をしない人がいい。
蝉がうるさい。そして、キミヒコさんを見ていると私の心臓もうるさい。夏はそんなに好きじゃない。だから死ぬなら秋がいい。
ゴロゴロしているせいか、やたらと健康だ。このじりじりする感じがいいのだろう。肌の表面に汗がほんのり。私は病気だからいろいろと鈍くなっているのかもしれない。
「小春ちゃん、夕飯なにがいい?」
キミヒコさんが天井を見上げながら聞く。家族だからって、無防備に縁側でゴロゴロしてはいけない。私が近づいた分、キミヒコさんは遠ざかる。腕枕ではなく、てのひら枕。それがとても心地いい。すっぽりと後頭部が包まれている。
「もう死ぬならダイエットとかいいや。肉、肉鍋」
私は答えた。
「こんなに暑いのに?」
姉の足音が聞こえて、キミヒコさんと同時に体育座りに移行した。
「ガンなんだからきのこがいいんでしょ?」
姉は情報がちょっと古い。そして地獄耳。
「迷信だよ」
私は言った。
「迷信でも信じたほうがいいじゃない」
と姉が言って夕飯はキノコ鍋になった。辛くて酸っぱい不思議な味だった。キムチとも違う。
涼しい部屋で熱い鍋をかき込むのと、暑いままの部屋でアイスを食べるのではどちらが体にいいのだろう。痩せすぎた体重に驚いて、退院してから体重計に乗っていない。
「うまっ」
姉は汗を垂らしながらバクバク食べた。手拭いを肩から掛けてたまに汗を拭った。
キミヒコさんが熊笹茶を淹れてくれる。竹の葉もお茶にする。自然のものは自然の味がする。私はそれらが好きだ。
小心者の私には姉とキミヒコさんのように前例がないだろう恋はできない。どうしても頭で考えてしまうのだろう。好きなら好きでいいのに、戸籍がどうとか責任が、お墓が、と結論が出ないことに頭を悩ませる。
姉はすごいな。そう思いながら一人でお風呂に入った。蚊が飛んでいる羽音がする。湯気で羽が湿るだろう。そこまでして血を吸いたいのか。血は食事ではないらしい。ただ卵をたくさん産むためだけに死を覚悟して自分の体よりはるかデカいものに近づくこいつらの思考を疑う。私は安全に生きたかった。
死ぬと決まったからって、最後に寝る相手を選定したりしないのだ。結構真面目と筋肉が落ちた体を手で洗った。たくさん食べたから胃が膨らんでいる。風呂場の鏡で自分の体と対峙するたび、こんなだったっけ? と見紛う。細いけれど、やつれて色っぽくない。やはりそれなりにハリがないとエロくないものだ。胸も尻もきゅっとひと回り小さく萎んだ気がする。




