キミヒコさん1
晴れていればひなたぼっこ。雨であれば縁側から庭を眺める。キミヒコさんの横顔はどこか葉っぱっぽい。鼻が小さくて低い。
姉がキミヒコさんを好きなのは精霊だからでも顔のつくりでもないのだろう。自分に優しい人を愛するだけのこと。私はうまくそれができなかった。愛してほしいと与えもせずに欲しがってばかりいた。
女の性格はねじ曲がりやすいのだ。好かれる、体で返す、金品に惑わされる。同僚の彼氏がかっこいいとかハイスペックなだけで敗北感。そんなのどうでもいいのにと今なら思う。その人を好きな気持ちを大事にできなかった。
死ぬ手前でようやくそれを悟る。
縁側を行くと姉の作業場だ。キャビネットを作っていた。型を作って、中の引き出しを作る。箪笥ほどきっちりしていないが、隙間があれば埃がたまる。籐は水に強いから脱衣所に置く人も多い。
「小春もやる?」
姉が聞く。
「手伝いならやってもいいけど、今は握力もないし」
作っている途中で死んじゃったら縁起が悪そう。注文してくれた客にも申し訳ない。
私は姉が作業をしている姿が嫌いじゃない。今日はあぐらをかきながら右足は伸ばして、そのままの姿勢で安定している。体幹がしっかりしているのだろう。揺れない。ブレないのは体だけではない。
「お昼は麺がいいな」
姉がぽつりと言う。
「うどん? そば?」
私は聞いた。
「もっとこってり」
「わがまま」
わがままというよりも姉は自分に正直なのだろう。嘘偽りないことが正しいとも限らない。
「パスタじゃないな」
編む手を止めずに考えながら話せる姉は器用だ。私は目の数を数えながらでは無理だ。もしもするなら、もっと大雑把な仕事がいい。それでいて人のためになるような。私のほうがわがまま。
「ひき肉あるからジャージャー麺は?」
冷蔵庫の中、お財布の中、私はそういうのを無意識に記憶してしまう。
「いいね」
「ピリ辛?」
「小春の体調に合わせて」
姉はいつだって私の体を優先する。
キミヒコさんはまだ縁側にいた。私たちの会話を聞いていたのだろうか。どちらかが話すとかぶせ気味に相手が話すから、私たち姉妹だけで話しているとどんどん声が大きくなる。それを、目を細めて聞いていたに違いない。キミヒコさんの嬉しいことは姉が楽しそうなことだから。
「お姉ちゃんがお昼はジャージャー麺がいいって。私、作ろうか?」
「ああ、うん。お願いするでござる」
キミヒコさんの仕事はわからない。能力も。時折、森を見つめる。木は倒れる。そして、新しい木も芽吹く。弱った木と助けられない木を見極めていると姉は言ったけど、そんな簡単なことじゃない。もっとちゃんとしたルールが森やキミヒコさんにはあるように思う。人が立ち入ってはいけない領域だ。森は私たちが飲む水を雨から育んでくれる。
私が作ったジャージャー麺はぬるくて、それでも姉は、
「うまっ」
と笑った。キミヒコさんの気持ちもわかる。その笑顔が糧になるほど私は単純じゃなくて、ジャージャー麺とトマトのカプレーゼを交互に食べた。
稀に姉宛に手紙が届く。修理の依頼だったり感謝の言葉だったり。手紙だからって達筆とは限らない。むしろうますぎて読めない。ここで私は秘書力を発揮する。なんとなく読めるところから文面を推理するのだ。『ありがたう』ってなんで古語なのだろう。
いつの間にかキミヒコさんを受け入れていることは、それとは別問題。不思議なことはたくさんある。
この間まで動けなかった私がごはんの用意をして、それを食べている。姉を見る、キミヒコさんと話すおかげなのか、私の病気は停滞してくれている。もちろん薬の効果もあるのだろう。ただ、もう壁を伝わずに歩けるし、なんだったら重い洗濯物を持ってサンダルをつっかけて外に干したりもできる。嘘みたいだ。
お昼の片づけだけしてキミヒコさんは出かけていった。作務衣に革靴。草履よりは山に適しているだろうか。
姉がしつこいので、手伝うというよりも雑務をする。姉が切った籐を片づけたり、
「あれ取って、これ取って」
と指示された通りに動く。指示されないと動けない。姉とは違うのだ。自分で仕事を受け、納品日を定め、そのために健康でいる。私はどれひとつできない。ニッパーを手渡すことはできる。
「受領メール、自動返信にしようか? とりあえず『ご注文ありがとうございます。納品日につきましては追って連絡します』って返せるように」
毎度、注文に気づくたびに姉が手を止める時間が勿体ない。
「できるの?」
「うん」
お安い御用。姉は仕事中、ほとんど手を休めない。頭で考えることはあっても手は動かしたまま。下手したら、トイレにも立たない。こまめに行くときは生理だったりお腹痛いのかなと推測する。わかりやすい人なのだ。だからそういう日は大きなものは作らない。椅子はずっと手を伸ばしていなければならないから体勢が辛いのだろう。自分の体と相談してできる作業をする。枕を作ったり太い部分を成形したり手元でできる仕事だって仕事のひとつ。
そのせいなのか姉は二の腕が細い。お尻はでっぷり。胡坐が安定するわけだ。私がメールを返信してもいいが、それがいつまでできるのかもわからない。私がいなくなったことを姉に寂しがってほしくないから、役に立たないようにする。体は元気でも、それは実家の魔法かもしれない。人間、死ぬちょっと前は痛みも減るって言うし。
キャビネットは二段。物入れとしてお風呂場やキッチンで使われるのだろう。脚はWのような形で籐のみで作る。当然、釘も使わない。カゴを編んでから骨組みに合わせる。椅子と違って工程が幾つかあるので合間に休むことができる。
父は派手なものを好んだが、姉は銭湯や旅館から脱衣所のカゴの注文が入ると嬉しそう。人が使うものだからだ。そして前と同じ注文だと殊更嬉しいようだ。今は潰れてしまう旅館も少なくない。果物カゴくらいなら私も挑戦してみようか。
姉はラジオもテレビもつけない。というか、仕事場には何もない。スマホも母屋に置きっぱなし。集中しないと形が崩れると信じているのかもしれない。
お昼などで手を止めるときは洗濯ばさみで押さえるのだけれど、どうしたって緩む。それが嫌でちょっとやり直すのも面倒だから、いつもお昼はささっと食べられるものと決めている。
雨の音がする。切ないというよりは物悲しい。祖父と父は別の場所で作業をしていた。そりが合わない二人だった。私と姉もきっとそうなるだろう。でももうすぐ死んじゃうから一緒にいられる。あんまり一緒にいないようにしよう。姉を寂しくさせたいわけじゃないから。
「私の棺桶を作ってよ」
私はお願いした。
「棺桶は棺桶屋さんが作ったほうがいい。籐だとどうしても隙間が開くし」
と言いながら姉はせっせとカゴを編んだ。
今は死装束も多様化してるんだよ。そう言葉にできなかったのは姉の悲しみを増やしたくないからだ。こんなに手間暇かけているのに火葬してしまうのも申し訳ない。きっと一瞬で燃えてしまう。
人間には順応性があると言うが、私も大概だな。精霊を義兄だなんて、もうすぐ自分が死ぬことさえも割り切っている。死んだ後にでも心配してしまうのは血縁者の姉だけだ。よくしてくれた社長より、私の恋人作りに奔走してくれた友達なんて思い出すこともなくなった。
後悔がないことはいいことなのか、寂しいことなのか。こっちへ戻って来ても会いたい人もいない。それよりもキミヒコさんと植えた枝豆とトウモロコシが間に合うだろうか。折角植えたのだから食したい。トウモロコシは真っ白の品種にした。楽しみ。ナスも白だったり緑だったりいろんなものが出回るようになった。
キミヒコさんは夕方には戻ってきちんと夕飯を作ってくれた。夜には雨がやんで、雲が厚くて月を隠したまま。お風呂場で私はカエルさんと遭遇。桶に捕まえたものの窓を開けている間に飛び出してしまい、湯船にドボン。カエルにとっては火傷だろうか。桶に水を入れて休ませたくてもカエルさんはぴょこぴょこ逃げ回る。動きが不規則だから捕まえられない。
そうこうしているとキミヒコさんが来た。
「カエルはキミヒコさんの使い?」
キミヒコさんの手にはカエルから飛び込んだから。
「いや。でも『痛い』とは聞こえる」
「お風呂に入れてしまったの」
私は慌てて裸にタオルを巻いた。私の裸などキミヒコさんにはカエルの表面と同じにすぎない。緑じゃないけど。
「外に連れていくから心配しないで」
キミヒコさんの掌がひんやりしていることは知っている。
精霊の力とはどれほどのものなのだろう。カエルの火傷を治せるなら私の癌を消滅させられる? そもそも私は生きたいのだろうか。欲望もないまま。
夢に向かって生きている人など一握りにすぎない。正しい人ばかりが長生きできる世の中なら素敵だね。毎日考えてしまう。あと何回、洗髪できるだろう。こんなふうに泡たっぷりにして遊べるのだろう。
カエルが落ちたお風呂に浸かった。私にはぬるいくらいだ。
足まで細くなった気がする。ガンでなければ喜ぶところ。今は涙をお湯に紛らすだけ。
お風呂から出て庭に出た。
「私は、あとどれくらい生きられる?」
夜の暗闇に溶けそうなキミヒコさんの背に尋ねた。返答はなかった。代わりにカエルがヴェヴェっと鳴いた。




