第92話「井戸を喰うもの」
村を守るのは、城壁や剣だけではありません。
毎朝同じ井戸から水を汲めることも、立派な防衛です。
転移から八日目。
ミュラが「村」と呼んだ場所は、学院の教科書にある村の形をしていなかった。
木柵も、中央広場も、同じ高さの家並みもない。岩谷の壁へ大小の穴が掘られ、地上には低い石造りの家、高所には翼を持つ者が降りられる足場、日光の届かない側には布で覆われた通路がある。
谷の入口には門の代わりに三本の柱が立っていた。どの柱にも閉じきらない灰色の環が刻まれ、入る道と出る道が別々に示されている。
人間圏の遠征記録なら、これを「異形種の巣」と書いたかもしれない。
しかし、柱の下には泥を落とす灰石粉が置かれ、壁には水場、火気、負傷者用の印が並び、子どもらしい小さな手形まで残っていた。
(巣じゃない。ちゃんとした”生活の入口”だ)
ミュラは村へ駆け込もうとしたが、右脚の痛みでよろけた。レイルが支えると、彼女は一瞬だけ抵抗し、それから腕へ体重を預けた。
「村の名前は?」
「ルク。水窪。ルク、村」
ニアが音声を分割する。
【固有名候補:ルク】
【意味候補:水が溜まる窪地/耳を澄ます場所】
【翻訳精度:四十四%】
入口へ近づく前に、警戒音が鳴った。鐘ではない。地面の下から、低い振動が三度続く。村の壁穴から、小角族の男、鱗のある老女、四本腕の若者が姿を見せた。武器を構えているが、いきなり襲ってはこない。
「◇☆、ミュラ! △□○、人間!?」
ミュラが早口で答える。
「ミュラ、怪我。レイル、水、食べる、返す。白、危険。道、貸した」
知っている語だけでも、助けられたことを説明しているのは分かった。だが「人間」という語が出た瞬間、住民の視線が硬くなる。小角族の男がレイルの杖と学院外套を指した。
「人間。狩る? 札、ない。剣、ない?」
【第一候補:人間の狩人か。登録札がない。武器を置け】
【第二候補:人間を狩ったのか。札がない。武器はどこだ】
【翻訳精度:四十七%】
『意味逆転ノ可能性アリ』
レイルは杖を地面へ置き、小刀も鞘ごと前へ出した。さらに人間圏のDランク証を見せる。
四腕の若者が証を受け取り、四つの手で表裏を同時に確認した。彼は文字を読めないらしく、魔力印だけを見て首を傾げる。ミュラが説明を重ねる。
「向こう、道札。こっち、違う。レイル、子ども。狩り、下手。水、もっと下手」
「最後の説明は必要か? なんかバカにされてるよな多分」
意味を理解した住民の何人かが、僅かに笑った。緊張が完全に消えたわけではないが、武器の先が下がる。
鱗の老女がミュラの脚を診て、レイルの包帯を外した。灰粉の塗り方と傷口を確認し、短く頷く。彼女はレイルへ何か言い、包帯を指した。
【第一候補:処置は悪くない】
【第二候補:処置をするな】
【翻訳精度:五十一%】
「また逆になるのか、一体どっちなんだ......」
ミュラが人間圏共通語で補った。
「悪くない。遅い。結び、多い」
「解けないよりはいい」
「解く人、困る」
エルシアにも似たようなことを言われた覚えがある。
村の中へ通されるかと思ったが、住民は井戸の方を気にしていた。共同井戸の周囲には水桶が並び、底から鈍い振動が響いている。水面は低く、昨日から急に減ったらしい。
ミュラが地面へ耳をつけた。負傷した脚を庇いながら、井戸の周囲を一周する。
「下、いる。水、食べる。大きい」
それを聞いた瞬間、レイルは水脈喰いを思い出した。半透明の節を持つ地中魔獣で、水脈へ口器を差し込み、水と魔力を吸う。学院の魔物図鑑では「井戸を枯らす害獣。発見次第討伐」とだけ記されていた。
村の四腕の若者が、大きな杭と槌を持ち出す。井戸底へ杭を打ち込み、魔獣ごと地盤を砕くつもりらしい。レイルは地面の亀裂を見て止めた。
「待ってくれ。井戸壁も古い。ここで強い衝撃を入れれば、水脈ごと崩れてしまうぞ」
当然、言葉は通じない。レイルは井戸、杭、崩れる壁を地面へ描いた。次に別の水路を描き、魔獣をそちらへ誘導する矢印をつける。
四腕の若者は腕を組み、二つの手で「遅い」、残る二つで「危険」を示した。
「討伐した方が早い。でも、井戸が死ぬ」
ミュラが現地語で説明する。住民たちは短く話し合い、鱗の老女がレイルへ一本の灰色の紐を渡した。
期限を示す結びらしい。太陽が谷の中央へ届くまで。それで失敗すれば杭を使う。
(......信頼されたんじゃない。”試す時間を買っただけ”だな)
レイルはそれで十分だと思った。ニアが犬型へ変わる。黒銀色の小さな犬は半実体ではなく光の輪郭だけだったが、地面へ鼻を近づけ、振動と魔力の流れを追った。
『地中移動体、井戸北側。深度推定四・二。移動速度、低下中』
ミュラは足裏へ微弱な地質魔力を流し、目を閉じた。
「北、固い。東、空洞。南、水、細い。西、古い道」
「西の古い水路へ誘導する。東の空洞は崩落する可能性がある」
レイルは村人に借りた石を、地面へ間隔を変えて並べた。水脈喰いは水だけでなく、一定周期の地脈振動へ寄る。井戸から離れた西側へ、より強く、より湿った振動を作ればよい。
【硬土】で地面の一部を締め、【微振】に近い基礎地質操作を掌から送る。正式な攻撃魔法ではなく、小さな揺れを繰り返すだけの呪文だ。
ミュラが指を上げる。
「来る。ゆっくり。止まる……また来る」
村人たちが水桶を打ち、同じ周期の音を西へ移していく。四腕の若者は四つの桶を別々の間隔で鳴らし、水脈喰いが好む振動を作った。
人間なら二人以上で行う作業を、一人の身体で並列している。
(四本腕だから戦闘向き、という説明だけだと荒っぽいな。生活の同時作業にこそ強いわけだ)
井戸底の水面が大きく揺れた。半透明の節が一度だけ現れ、再び地中へ潜る。振動はゆっくり西へ移り、古い水路の方角へ消えていった。
『対象、井戸水脈カラ離脱』
村人たちはすぐに歓声を上げなかった。井戸壁の亀裂、水位、水の濁りを確認し、鱗の老女が最初の一杯を汲む。灰砂で濾し、中性結晶を沈め、煮沸用の鍋へ移した。
レイルも【清水】を使おうとしたが、老女に手を止められた。
彼女は水面へ浮く細かな光を指し、小さな卵の形を描く。
「魔力胞子か、寄生卵……【清水】では分離できない?」
老女が頷く。学院では、【清水】は泥や大きな不純物を除く生活魔法と習った。だが「清水」という名前だけで、未知の水を安全へ完成させるわけではない。村の共同炊事場で、最初の椀がレイルへ渡された。
灰麦を煮た薄い粥に、硬豆と酸味の強い赤果が入っている。豪華ではない。それでも、誰かが暮らす場所の温かい食事だった。
レイルは椀を受け取る前に、対価を尋ねようとした。銅貨を見せても、住民は首を横へ振る。ミュラが説明する。
「最初、客。食べる。次、働く。返す」
「最初の一杯は遭難者へ渡す。二杯目から仕事で返す?」
「そう。ずっと無料、だめ。最初から払え、もっとだめ」
灰環の考え方らしい。一方的に保護し続けて拘束しない。一方的に対価を要求して、助ける前に倒れさせない。
レイルは粥を一口飲んだ。赤果の酸味で顔が歪み、ミュラが笑う。
「けらけら。レイル、おいしくない」
「言い切るな。慣れていないだけだ」
「顔、嘘だめ」
ミュラは自分の椀から硬豆を一つ取り、レイルの椀へ入れた。
「これ、甘い」
食べると、本当に僅かな甘みがあった。村の子どもたちが遠巻きにこちらを見ている。角のある子、犬耳の子、鱗の頬を持つ子。その中に、人間とほとんど変わらない顔の少年もいた。
学院の歴史書は、この大陸へ人間の村は存在しないと書いていた。
正確には、人間だけの村が長く続かなかったのかもしれない。
ここでは種族ではなく、水場を守り、仕事を返し、出口を塞がない者が同じ村へ暮らしている。
(人間史に書かれた王核大陸は、”人間が中心に立てなかった土地の記録”だ)
だが、理解したつもりになるには早い。たった一つの村を見ただけだ。
それでも、教科書の空白へ最初の一行を書き直すには十分だった。
【ルク水窪村】
【住民:複数種】
【共同井戸:あり】
【共同炊事:あり】
【客人保護:最初の一椀】
【対価:二椀目から仕事】
【人間への警戒:あり】
【即時敵対:なし】
ミュラが記録板を覗き込み、最後の行を指した。
「レイル、人間。今、敵じゃない」
「今、という条件つきか」
「道、変わる。人も変わる」
ミュラはそう言って、レイルの袖を握った。小さな村で借りた一夜の寝床は、大型種用の部屋を板で区切った場所だった。入口が二つあり、内側からも外側からも開けられる。閉じ込めないための構造だった。
レイルは、その後も二日目は食事の返しに水路修理、三日目までミュラの足の怪我を見てもらいながら過ごした。村での滞在中に十単語ほど言語を学ぶ時間もできた。日々の食事と包帯の礼をしているうち、あっという間に村での時間は過ぎていったのだった。
村を旅立つとき、村人からここではないところで「倒れ続ける塔」についての情報を聞いたが、まさかそれが自分と関係のあるものだとは、このときのレイルはまったく気づくことができなかった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
井戸を枯らす魔獣を倒さず水路へ誘導し、教科書の【魔境大陸】へ共同井戸と温かい粥を書き足した少年。
・ミュラ・ノクテ
村人へ救助経緯を伝え、狩りも水探しも下手な人間としてレイルを紹介しながら、最後には袖を握った案内役。
・ニア
犬型で地中魔獣を追跡し、未知の水を【清水】だけで安全と判断しない村の手順を記録した相棒。
・ルク水窪村の住民たち
異邦人を無条件に信用せず、それでも最初の一椀と試すための時間を渡した複数種の共同体。
【今回の能力・設定メモ】
・人間圏のランク証は、王核大陸の村では身元資料にしかならず、法的な依頼権を保証しません。
・灰環圏の一部では、遭難者へ最初の食事を渡し、継続分は仕事で返す慣習があります。
【次回】
同じ大陸の別の塔で、九十九%まで完成した魔法使いと、同じ道を三度歩いた騎士が出会います。
井戸の水位を少しずつ戻した振動のように、レビュー、ブックマーク、フォローが物語を次の村へ運ぶ力になります。




