第91話「杖なしの魔法使い」
獲物を倒すことと、食料を得ることは同じではありません。
強すぎる一撃は、ときどき今日の夕食まで壊してしまいます。
転移から六日目。レイルは、自分が空腹であることを認めた。
四日目と五日目は、ミュラの脚を休ませながら岩場を少しずつ進んだ。地根芋と朝露だけで凌いだが、採れる場所は日に日に減っている。携帯パンも昨夜、最後の一片を二人で分けた。
携帯パンは前日に尽き、地根芋は二人分を確保できるほど群生していない。水は朝露と【水滴】で僅かに補えたが、魔力を使って水分を集めるにも限界がある。
何より、ミュラの傷を治すには食べなければならない。
彼女は歩けると言い張り、壊れた杖を支えにして立ち上がった。だが右脚へ体重をかけるたび、緑灰色の目が細くなる。
「今日は遠くへ行かない。食料を確保して、傷を休ませる」
「遠く、行く。村、こっち」
ミュラは谷の先を指した。
「村?」
「小さい。水。人、いる。たぶん」
覚えた人間圏共通語と、ニアの不完全翻訳を混ぜた説明だった。最後の「たぶん」だけ妙に発音がよい。レイルが何度も使っていたせいかもしれない。
「距離は?」
ミュラは指を三本立て、太陽の位置を指した。
【第一候補:三時間】
【第二候補:日が三つ動く距離】
【翻訳精度:三十八%】
『徒歩三時間前後ト推定』
「その脚では倍かかる。途中で食べられるものを探す」
ミュラは不満そうに口を尖らせたが、レイルの袖をつかんだ。昨日までは外套の端だったのが、今日は直接袖になっている。
(警戒が薄れたのは嬉しい。でも、俺まで道を知っていると思われると困る)
谷の斜面には、砂膜蜥蜴の滑走痕が何本も重なっていた。夜に温度が下がると岩陰へ集まり、朝の地熱で身体を温めてから狩りへ出るらしい。ミュラは痕跡を見て、指で尾を示した。
「尾、食べる。膜、だめ。赤、だめ」
「可食部は尾肉。腹膜と赤い器官は除去する?」
「そう。赤、眠る。膜、苦い。腹、石」
石を食べるという意味なのか、腹の中に石があるという意味なのか、翻訳精度は四割を越えない。レイルは単語帳へ両方の候補を書いた。獲物は三匹いた。
小型二匹と、昨日遭遇した個体より一回り大きい成体。四つの目が別方向を見ており、正面へ立っても側面の動きを捉える。腹膜を砂へ広げると、地面との摩擦を減らし、風圧のような速度で滑ってくる。
「一匹だけ仕留める。残りは追い払うぞ」
ミュラは首を横へ振った。
「大きい、だめ。子、残る」
成体を倒すと幼体が生きられないという意味らしい。ミュラは小型のうち一匹を指し、尾の根元へ罠糸を結ぶ仕草をした。レイルは頷いた。
「殺す数まで考えるのか、なるほど」
人間圏の魔物討伐では、巣を見つければ再発防止のため全滅させる場合が多い。王核大陸では、魔獣も食料であり、地脈の一部であり、別の大型種を遠ざける縄張り主でもあるのだろう。
(資料の“魔物が魔物を食い合うだけの土地”という説明は、狩猟管理を理解できなかった記録かもしれない。もしかしなくてもきっと、農耕の文化だってありそうだ)
ミュラが罠糸を岩へ回し、滑走路を僅かに曲げる。レイルは低い位置へ【硬土】を形成し、砂の下へ拳ほどの盛り上がりを作った。現状、杖へ魔力を通すことはできない。
右掌へ風圧を集め、左掌では土の形を維持する。学院で習った【双路形成】ほど安定していないが、二つの基礎工程を別々に保つだけなら可能だった。その動作を行っていると、成体が最初に動いた。
「来る!」
ミュラの声と同時に、レイルは横へ踏み出す。壊れた杖で牙を受け、身体を押し返される前に右足裏から短い風圧を噴射した。
速く進むためではない。倒れない位置まで、半歩だけ退くための制動。
成体の腹膜が土の盛り上がりへ乗り、身体が浮いた。レイルは【風弾】を撃たず、杖の先で進路だけを外へ押す。成体は幼体を庇うように旋回し、そこでミュラの罠糸へ触れた。狙った小型個体だけが、尾を取られて転倒する。
「今だ!」
レイルは右掌へ形成していた【風弾】を、完成直前で止めた。
世界から最後の一工程が抜け落ちる。風圧は掌の前で形を保ったまま、放たれない。
【未完】の保持は一件。
レイルは転倒した個体へ飛びかからず、成体が救援へ向くのを待った。成体が罠糸を噛み切ろうと横腹を見せた瞬間、保持していた風弾を完成させる。
「未完記録、第一番――完成」
風圧は成体の頭ではなく、砂の横を撃った。砂煙が壁になり、成体と幼体の視界を分ける。
その間にミュラが小型個体の首へ罠糸を回した。レイルは小刀を受け取り、止めをさそうとしたが、躊躇してしまった。
訓練では魔物を倒したことがある。依頼でも、命を守るために刃を使った。だが、今日のこれは夕食のためだ。
(食べるなら、苦しませる時間を延ばすな、悩むな、俺!)
教わった位置へ刃を入れた。小型個体の身体が一度だけ強く震え、やがて止まった。
成体と残った幼体は、砂煙の向こうへ逃げていく。そちらは追わない。
ミュラは獲物へ手を合わせるのではなく、開いた環の印を砂へ一つ描いた。道を閉じず、次の群れが入れるようにする狩人の印らしい。そして、解体は戦闘より難しかった。
尾の赤い器官を傷つければ、眠気を起こす液が肉へ回る。腹膜の裏には苦味の強い脂があり、内臓の一部には砂と小石が詰まっている。ミュラはレイルの小刀の角度を何度も直した。
「そこ、だめ。肉、なくなる」
「筋を切らないと皮が剥がれない」
「違う。こっち、引く。刃、少し」
「少しが分からない」
ミュラは小刀を奪い、見本を示した。片脚を痛めていても、手元は速い。尾皮、腱、食べられる肉、使える膜、埋める毒器官を順に分ける。レイルは記録板へ書き続けた。
「赤器官は地面へ埋める。水場から離す。膜は乾燥させれば縄の補修に使える。骨は――」
「今、食べる」
「記録しないと次に再現できない」
「食べないと次、ない」
正しい。レイルは地質魔法で低いかまどを作り、【種火】を灯した。人間圏なら魔法で一気に焼くところだが、尾肉は外側だけ焦げやすい。ミュラは薄い石板を熱し、その上へ細く切った肉を並べた。
【微風】で煙を岩陰から逃がし、【探熱】で中心温度を確認する。高威力ではない。けれど、焦がさず、生焼けにせず、火を消して匂いを残しすぎないためには、細かな制御が必要だった。
(師匠の下で訓練した成果が、まさかこんなところで生きるとは――。感謝だな)
焼けた肉は淡白で、後から少し甘い脂が出た。ミュラは最初の一切れをレイルへ差し出した。
「ミュラが教えたんだから、ミュラが食べろ」
「狩った、レイル。最初、レイル」
「罠を張ったのはミュラだ」
二人はしばらく押しつけ合い、最後には半分へ割った。ニアが少女型の顔だけを出す。
『温度、七十一度。安全域ト推定』
「推定なのか」
『未知生物デス』
「食べる前に言ってくれ」
ミュラは笑い、肉を頬張った。レイルも続く。塩はほとんどないため味気ない料理だ。それでも温かい肉が腹へ入るだけで、身体の芯から力が戻ってきた。
食後、ミュラは余った肉を灰色の葉へ包み、レイルの腰袋へ入れた。次に、自分の地図札を一枚、彼の記録板へ結びつける。
「何の印だ?」
「一緒。食べた。道、貸す」
(”道を貸す”。名前と同じで、全部は渡さない。でも、今歩く分は一緒に使う)
レイルはその意味を、翻訳表示へ頼らず理解できた気がした。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その頃、湿地ではリィナが、薄青い卵をじっと見ていた。
「食べられると思う」
フィアは卵と、木の上でこちらを警戒する双喉沼鳥を交互に確認した。
「巣内の卵です。親個体の所有、または繁殖対象である可能性が高いため、取得条件が成立していません」
「でも、お腹すいた」
「空腹は所有権を移動させません」
「レイルなら、食べられる条件を十個くらい考えるのになあ」
「十一個目で諦めると思います」
リィナは名残惜しそうに卵から離れた。その背中へ、木の根元から落ちた小さな無精卵が転がってきた。フィアは記録札へ追記した。
「自然落下。巣外。親個体が回収行動を示さないことを三十秒確認後、取得候補とします」
「三十秒?」
「二十九。二十八」
「数えるの早くしてくんない?!」
ぐうぅ―――――というリィナの腹の音が、遅いフィアのカウントダウン中、ずっと続いた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
魔物を倒すだけでなく、残す群れ、壊さない肉、火の終了まで考え、初めて王核大陸の獲物を口にした少年。
・ミュラ・ノクテ
罠、解体、調理を教え、最初の一切れを半分に割ることでレイルへ道を貸した地図師見習い。
・ニア
未知生物の肉を安全域と“推定”し、食後に言って使用者から抗議された半実体の相棒。
・リィナ・アルセイル
空腹でも巣の卵へ手を出さず、自然落下した一個を三十秒待つ羽目になった剣士。
・フィア・レコード
所有条件と親個体の行動を確認し、空腹に負けない取得手順を守った記録係。
【今回の能力・設定メモ】
・王核大陸では魔獣を無差別に全滅させず、食料、縄張り、生態の一部として狩猟数を調整する地域があります。
・レイルは【未完】一件保持の上限を維持しています。
【次回】
人間圏の資料には存在しない井戸と、小さな村の暮らしが見えてきます。
半分に割った尾肉のように、レビュー、ブックマーク、フォローを少しずつ分けていただければ、次の道まで大切に持っていきます。




