第90話「死んだと決めつけるな」
触れられることは、そこにいる証明になります。
けれど、待つ側にとっては、触れられない時間もまた消せない現実です。
転移から三日目の朝、ミュラの脚は腫れていた。昨夜より熱を持ち、包帯の外側へ薄く血が滲んでいる。レイルは【探熱】を掌だけで起動しようとしたが、未知の高濃度魔力が術式へまとわりつき、普段より大きな熱像を返した。
二日目は、ほとんど移動できなかった。
レイルはミュラの熱が下がるのを待ちながら水を集め、ミュラは短い現地語で食べられる根と毒のある苔を教えた。互いの名前以外に通じる言葉は、まだ十にも届いていない。
「周辺魔力を拾いすぎるな、ニア、数値補正はできるか」
『外部濾過器、損傷。誤差範囲、算出不能』
「なら触診するしかないか。ミュラ、傷を見る。嫌なら止めるが――」
覚えたばかりの「嫌」と「止める」を、身振りを交えて伝える。発音が違ったらしく、ミュラは一度眉を寄せたが、包帯を自分で外して脚を差し出した。
傷の周囲へ灰色の粉がついていた。ミュラが昨日、自分で塗っていたものだ。人間圏の止血粉とは成分が違い、細かな結晶が熱を逃がしている。
(知らない薬を洗い流せば悪化するかもしれない。だが、汚れを残せば感染する)
レイルが迷っていると、ニアの環状光が急に大きく広がった。
『周辺魔力濃度、高。投影経路ヲ迂回シマス』
「待て。何をする気だ――」
『触診補助ヲ実行』
光が人の輪郭を作った。最初に現れたのは小さな手だった。次に腕、肩、猫耳のついた頭部。ところどころ輪郭が欠け、脚は膝から下が透けている。それでも、幼い少女の姿をしたニアがレイルの隣へ膝をついた。
ニアは自分の手を見つめ、それからミュラの包帯へ触れた。指先が布を押した。
ミュラの目が大きく開く。ニア自身も、動きを止めた。
『圧力反応ヲ確認』
「触れられるのか」
『限定的デスガ。周辺魔力ヲ投影密度ヘ変換中』
ミュラは恐る恐るニアの手へ自分の指を重ねた。完全な体温はない。それでも、薄い膜を押すような感触が存在するらしい。ミュラは驚いた後、ニアの猫耳を指し、小さく笑った。ニアは胸を張ろうとして、輪郭を揺らした。
『ワタシハ、猫デハアリマセン』
「そこは最初に言うんだな」
次の瞬間、レイルの胸元から魔力が抜けた。膝が勝手に折れ、視界の端が暗くなる。腕輪から伸びた見えない経路が、レイルの魔力核へ直接食い込んでいた。
「ニア、やめろ!」
『周辺魔力不足。実体維持ニ必要デス』
「必要でも”勝手に吸うなよ”!」
『流量調整弁ガ破損シテイマス』
「口は動いているだろ。先に言えって!」
ニアの姿が光へ崩れた。ミュラは倒れかけたレイルの肩を支え、何度も「レイル、痛い?」と尋ねた。
「痛くはない。少し魔力を抜かれただけだ」
(少しじゃない。朝から全力の風弾を二発撃ったくらい持っていかれたぞ)
強がりは通じなくても、顔色は隠せない。ミュラはレイルを座らせ、自分の水を差し出した。昨日返すと言っていた水だった。レイルは一口だけ飲み、ニアへ暫定規則を告げた。
「今後、俺から魔力を取る時は”事前申告”。上限を数値で示す。戦闘中、睡眠中、意識低下時は禁止。俺が腕を二度叩いたら即時停止。周辺魔力で足りる時は、そちらを優先しろ」
『記録シマス』
「返事だけじゃなく、復唱せよ」
『吸引前ニ申告。上限設定。戦闘、睡眠、意識低下時ハ禁止。二回打撃デ停止。周辺魔力ヲ優先』
「違反した場合は?」
ニアは少し考えた。
『猫型投影ヲ一日禁止』
「それは俺への罰になっていないか?」
『使用者ガ最モ不利益ヲ感ジル条件デス』
「お前なぁ......」
ミュラは内容を理解していない。それでも二人の言い争いが終わったと判断したのか、レイルの袖を引いた。
彼女の案内で、岩場の裂け目へ向かう。地面から温い空気が流れ、灰色の苔が帯状に生えていた。ミュラは耳を地面へ近づけ、指先で岩を二度叩く。次に、少し離れた場所を小刀で掘り始めた。土の中から、拳ほどの地根芋が出てきた。
「食べられるのか?」
「食べる。熱、下。待つ」
ミュラは地面の割れ目へ芋を置き、平たい石で蓋をした。地脈熱で蒸すらしい。王核大陸には魔力濃度が高く危険なだけでなく、地中の熱や水脈を生活へ使う技術がある。レイルは学院で習った大陸史を思い出した。
【魔境大陸の住民は火を恐れず、生肉を食し、定住農耕を持たない】
目の前のミュラは、熱の強い場所へ芋を置かず、手を近づけて温度を確かめている。蒸し上がるまでの間に、傷の布を地脈熱で乾かし、汚れた道具と食事用の石を分けた。
(記録した側が、”生活を理解できなかっただけ”じゃないのか?)
芋は甘みが薄く、土の香りが強かった。ミュラは塩漬け葉の欠片を取り出し、三人分にちぎる。ニアは食べられないが、食卓の端へ少女型の上半身だけを投影した。
『温度、六十二度。香気成分ヲ記録』
「食べられないのに参加するのか」
『会話ト行動ハ記録対象デス』
ミュラは自分の芋を半分食べた後、残りをレイルの膝へ置いた。
「ミュラの分だ」
「レイル、少ない。食べる」
「俺はさっき食べた」
「嘘」
短い一語だった。発音だけでなく、レイルの顔を見て覚えたらしい。
(この子、生活語より先に”俺の嘘を覚えてないか”?)
仕方なく一口食べると、ミュラは満足そうに自分の分へ戻った。昨夜まで離れて座っていた距離が、今日は肩一つ分まで縮まっている。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
同じ日の午後。王立結着学院の応接室では、バルド・アルヴァートが両手を膝へ置いていた。
その手は、木材を削る仕事で節が太く、細かな傷が絶えない。隣のエナは、レイルが幼い頃から使っていた地図帳を胸へ抱えている。
ヘルマン教官は、書面を机へ置いたまま読み上げなかった。
「学院地下の白環端末が起動しました。レイル君を含む研究班の学生五名が、端末の転送に巻き込まれています。現在、学院内にも周辺地域にも姿はなく、転送先は特定できていません」
「遺体はあるのか?」
バルドの声は低かった。
「ありません」
「死んだ証拠は」
「ありません」
「なら、行方不明だ。”勝手に終わらせるな”」
学院側の誰も反論できなかった。エナは地図帳を開いた。村の井戸、旧坑道、街道、宿場。レイルが歩いた道には、必ず距離と危険と戻り方が書いてある。紙の端には、余白がなくなるまで予備の印が並んでいた。
「この子は、戻る道を何かに書きます。紙がなくても、石でも、木でも、たぶん服の裏でも。字を探してください。きれいな報告書じゃなくていいんです。”この子の、途中の字”を」
エルシアは壁際から進み出た。いつもの大きな帽子も、弟子を叩く杖も持っていない。右目の魔導単眼鏡には、白環端末の解析線が幾重にも走っている。
「アタシが捜索へ出るよ。大陸継路組合のAランク救難隊と、旧転送塔を洗う」
バルドが彼女を見る。
「見つかるのか」
「分からない」
「戻せるのか」
「今は約束できない」
エルシアは言葉を飾らなかった。
「でも、レイルを探す。死んだと決めるのは、見つけてからでも遅くない」
名前で呼んだことに、エナは気づいた。それが安心ではなく、事態の重さを示す呼び方だということも。エナは地図帳を差し出した。
「持っていってください。帰ってきたら、また書かせます。八か月分でも、八年分でも。あの子は途中からでも、続きを書けますから」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
王核大陸の夜、レイルは地根芋の皮を火へ捨てず、岩の隙間へ埋めた。
その隣で、ミュラが外套の端をつかんだまま眠っている。
(俺には、”帰る場所で、待っている人がいる”)
見えない距離の向こうで、仲間たちや両親が何をしているかは分からない。それでもレイルは、記録板の【捜索:継続】の横へ一つ書き足した。
【帰還希望:継続】
・レイル・アルヴァート
ニアの魔力吸引へ同意条件を設けながら、空腹を隠した嘘だけはミュラに即座に見抜かれた少年。
・ニア
王核大陸の周辺魔力で初めて半実体化し、ミュラへ触れた代わりに使用者から予定外の魔力を吸い上げた相棒。
・ミュラ・ノクテ
地脈熱で食事と布を温め、守られる側でありながらレイルの空腹と生活を支え始めた少女。
・バルド・アルヴァート
遺体も証拠もない状況で、息子を勝手に死者へ分類することを拒んだ父。
・エナ・アルヴァート
完成した報告書ではなく、息子が残す途中の筆跡を捜索の手掛かりとして託した母。
・エルシア・ヴァント
確実な救出を約束せず、それでも弟子を探すためAランク救難隊への同行を決めた師匠。
【今回の能力・設定メモ】
・ニアの【周環摂魔】は、王核大陸の高濃度魔力を借りた非常運転です。
・人間圏の大陸史には、王核大陸の生活技術が正しく理解されていない記録が含まれています。
【次回】
魔法杖を失ったレイルが、食べるために魔物を倒す戦いへ挑みます。
地脈熱でゆっくり蒸した地根芋のように、レビュー、ブックマーク、フォローで物語の続きを温めていただけると嬉しいです。




