第89話「☆△□○、水」
同じ物を指していても、同じ意味を話しているとは限りません。
だから最初の会話は、言葉より先に相手の手を見るところから始まります。
夜明けと呼んでよいのか分からない光が、黒い岩山の向こうから滲み始めた。
二つの月が薄れ、赤茶色の空に紫の雲が流れている。レイルは仮宿営地を片づけ、埋めた穴を平らに戻した。自分の匂いや食べかすが、小型魔物を呼ぶ可能性があると考えたからだ。
「昨夜の光を調べる。ただし、直線では進まない。道標の間隔と、砂膜蜥蜴の縄張りを避けていくぞ」
『経路計算、精度二十二%』
「参考にはする。従うとは言っていないがな」
『過去ノ使用者発言ト一致シマス』
灰色の環が刻まれた石柱は、谷へ沿って続いていた。街道と呼べるほど平らではないが、人か荷車が通った跡がある。岩の一部は意図的に削られ、雨水を逃がす溝まで掘られていた。
人間圏の地理書には、王核大陸の道路事情を記した章そのものがなかった。海岸へ上陸した遠征隊の多くが内陸へ到達できず、帰還者たちの記録も「魔獣の巣」「黒い谷」「魔王の領域」という、あいまいな言葉ばかりだったからだ。
(見えた物を全部、敵のものだと思って記録したのか。それとも、敵しか見せてもらえなかったのか......いずれにせよ俺は今、それの真実を知ることができる)
石柱の根元に、小さな布片が引っかかっていた。灰褐色の布へ、角のような刺繍がある。血は乾いていたが、足を引きずった跡が谷の奥へ続いている。
レイルは杖で地面を探りながら慎重に進み、岩陰でその人物を見つけた。
その人物は――小柄な少女だった。黒紫色の短い髪。額の両側には指ほどの小さな角があり、何度も補修されたボロボロの旅装の腰へ地図と罠糸を下げている。右脚には裂傷があり、そこに自分で巻いた布が赤く染まっていた。けがはしているものの、少女は意識を失っておらず、レイルが三歩まで近づいた瞬間、小刀が抜かれた。
「☆△□○、♪♦~!?」
音は聞こえた。しかし、単語の境目すら分からない。人間圏共通語でも成環古語でもなく、学院で触れた灰環交易語の資料とも一致しない。ニアの環状光が、少女の声を細い線へ分割する。
【音声分割候補:三語】
【既知語候補:水/飲む】
【末尾候補:質問/警告】
【翻訳精度:二十八%】
『水ヲ求メテイル可能性アリ。断定不能デス』
「水が欲しいのか、水を飲むなと言っているのか、とらえ方次第で逆になるな」
『断定不能デス』
少女の視線は、レイルの腰の水筒へ向いている。喉が乾いているように見えるが、罠かもしれない。そもそも、目の前の相手が水を必要とする生態かどうかも確定していない。
(”警戒しすぎて死なせたら、安全確認じゃないな”)
レイルは水筒を地面へ置き、自分の指へ一滴だけ垂らした。少女から見えるように舐め、次に水筒を彼女の側へゆっくり押す。
少女はこちらを凝視したまま、小刀を下ろさない。代わりに、自分の指で水筒の口へ触れ、匂いを嗅いだ。舌先へ一滴だけ乗せ、しばらく待つ。ようやく小さく頷き、二口飲んだところで水筒を返してきた。
「全部飲んでいいぞ」
「◇☆、返す。水、返す」
既知語だけが奇妙に聞き取れた。少女は水筒とレイルを交互に指し、胸元を軽く叩いた。
「ミュラ」
「それ、名前か?」
「ミュラ!」
レイルも自分の胸へ触れる。
「レイル」
少女――ミュラは一度だけ復唱し、少し顔をしかめた。
「レ……イル。長い」
「三音だぞ、長いって――」
『王核諸語ノ一部デハ二音節以上ヲ長名ト扱ウ可能性』
「初対面で名前の長さを評価されたのか」
ミュラはレイルの不満を理解していないはずなのに、少しだけ口元を緩めた。
傷を診ようとすると、再び小刀が上がる。レイルは包帯を見せ、自分の腕へ巻く仕草をした。ミュラは首を横へ振り、地面へ指で二本の線を描いた。一方は谷へ、一方は岩山へ続く。
「道を選べと言っている、のか?」
ミュラは岩山側へ黒い石を置き、両腕を広げて何か大きなものを示した。次に、その石を白墨で囲み、指でつぶす。
【意味候補:大きな敵/白い回収個体/岩山側は危険】
【翻訳精度:三十一%】
レイルは谷側を指した。
「こっちへ行く。傷を処置するが、嫌なら止める」
ミュラは「嫌」という語を理解していない。レイルは自分の包帯を彼女へ渡し、手を離した。使うかどうかは任せる。
しばらくして、ミュラは自分で古い布を外した。傷は深いが、骨には届いていない。レイルは触れる前に手を見せ、ミュラが頷いた時だけ煮沸できていない布を避け、持参した清潔な包帯へ交換した。作業中、空腹で腹が鳴った。
ミュラが顔を上げる。レイルは無言で携帯パンを取り出し、残りを二つへ割った。大きい方をミュラへ渡すと、彼女は受け取らず、二片の重さを目で比べた。
「小さい方が俺の分だ。問題ない」
意味は通じない。ミュラは両方を取り、ほぼ同じ大きさに割り直した。自分の分を胸元へ置き、レイルが食べ始めるまで手をつけない。
(これは、俺の毒見を待っているだけだ。まだ、信用されたわけじゃない)
それでも、”同じ物を同じ速度で噛む”うちに、二人の間の張り詰め方は少し変わった。
谷を進むと、赤い樹液を垂らす低木があった。喉はまだ渇いている。ミュラは樹液へ近づかず、鼻を押さえた。その時、レイルの視界へ白い文字が浮かんだ。
【赤い樹液を飲め】
ニアの表示ではない。術式核も魔力の流れも見えず、文字だけが空中へ確定している。
「発信者を照合しろ、ニア」
『該当記録ナシ。白環文法ト一部一致。発信源、追跡不能』
ミュラはこの文字が見えていないらしく、レイルの視線を追って首を傾げた。
(飲めと言われて飲むのは、警戒以前の問題だろう......)
レイルは樹液を布へ一滴落とし、色の変化を見た。次に石へ垂らす。泡立ちはない。最後に舌先へごく少量つけ、十分待った。甘い。直後に舌が僅かに痺れた。
ミュラが慌ててレイルの手を叩き、赤樹液を吐き出させる。彼女は両手を頬へ当て、眠る仕草をした。
「これを、大量に飲むと眠るのか」
ミュラは何度も頷いた。白い文字は嘘ではなかった。水分は得られる。しかし説明が足りなさすぎる。レイルは記録板へ書いた。
【正体不明の助言】
【結果:少量なら有用】
【欠落情報:適量/副作用/発信目的】
【信頼度:保留】
『採点対象ニ追加シマス』
「神託だったとしても、”説明責任は消えない”」
ミュラは内容を理解していないまま、記録板を覗き込んだ。書かれた人間圏文字を指でなぞり、自分の地図札を一枚取り出す。
そこには、点と切れ目のある円、角度の違う短線が刻まれていた。文字というより、道の分岐を重ねた記号に見える。
「これが、お前の文字か?」
ミュラは首を振り、地面を指した。次に耳をつける仕草をする。道の音を記録する札らしい。
夜、レイルは岩陰へ小さな宿営地を作った。ミュラは少し離れて座ったが、眠る時にはレイルが置いた外套の端へ足だけを乗せた。
レイルは破れた報告用紙の裏へ、最初の単語帳を作る。
【ミュラ=名前】
【水=飲料/返す対象】
【返す=所有を戻す】
【痛い=未確認】
【危険=岩山側の大きなもの?】
【眠る=赤樹液の副作用】
百語分の欄を作り始めたところで、ミュラが紙を奪った。
「☆△、多い。十。十!」
「十語だけ?」
ミュラは十本の指を見せた後、眠るように両手を頬へ当てた。
『推定:十語デ終了。睡眠ヲ優先』
「まだ六語しかない」
『六語デ十分デス』
「十分ではないだろ、何もわからんぞ」
ミュラはレイルの記録板を胸へ抱え込み、返さないまま横になった。
(言葉は通じないのに、寝ろという意思だけは正確すぎるな)
レイルが外套を掛けてあげると、ミュラは一度だけ目を開けた。
「レイル。水、返す」
たぶん、明日返すという意味だった。それでも”名前を呼ばれたこと”が、妙に胸へ残った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
同じ頃、崩れた塔の周囲を、アルド・クロイツは三度目に通過していた。
「同じ塔に見えるが、似た構造が複数ある可能性もある」
彼は真顔でそう判断し、最初と同じ方向へ歩き出した。
塔の上階では、見知らぬ金髪の女が、倒れかける天井を魔法で支えながら呟いた。
「次に同じ少年が通ったら、方向感覚の検証対象として捕獲しましょう」
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
言葉の通じない相手へ自分の水と食料を先に試し、神託らしき助言まで採点対象にした慎重すぎる遭難者。
・ミュラ・ノクテ
水も食料も一方的に受け取らず、十語以上の勉強を始めたレイルから記録板を没収した小角族の少女。
・ニア
二十八%の翻訳精度を万能翻訳のように扱わず、分からないことを分からないまま警告した相棒。
・アルド・クロイツ
同じ塔を三度通りながら、似た塔が複数ある可能性を真剣に検討した完遂型の方向音痴。
【今回の能力・設定メモ】
・王核大陸語は、初期には記号列として表現されます。
・ニアの【言語照合】は候補を提示するだけで、意思や契約を確定しません。
【次回】
ニアが初めて誰かへ触れ、その代価をレイルの魔力で勝手に支払います。
半分の水筒を二人で返し合ったように、レビュー、ブックマーク、フォローで物語へ少しずつ力を分けていただけると嬉しいです。




