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未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――  作者: 勇者ヨシ君
第7章「地図の外の子どもたち」

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第89話「☆△□○、水」

 同じ物を指していても、同じ意味を話しているとは限りません。

 だから最初の会話は、言葉より先に相手の手を見るところから始まります。


 夜明けと呼んでよいのか分からない光が、黒い岩山の向こうから滲み始めた。


 二つの月が薄れ、赤茶色の空に紫の雲が流れている。レイルは仮宿営地を片づけ、埋めた穴を平らに戻した。自分の匂いや食べかすが、小型魔物を呼ぶ可能性があると考えたからだ。


「昨夜の光を調べる。ただし、直線では進まない。道標(みちしるべ)の間隔と、砂膜蜥蜴サンド・メンブレン・リザードの縄張りを避けていくぞ」

『経路計算、精度二十二%』

「参考にはする。従うとは言っていないがな」

『過去ノ使用者発言ト一致シマス』


 灰色の環が刻まれた石柱は、谷へ沿って続いていた。街道と呼べるほど平らではないが、人か荷車が通った跡がある。岩の一部は意図的に削られ、雨水を逃がす溝まで掘られていた。


 人間圏(にんげんけん)の地理書には、王核大陸(おうかくたいりく)の道路事情を記した章そのものがなかった。海岸へ上陸した遠征隊(えんせいたい)の多くが内陸へ到達できず、帰還者たちの記録も「魔獣の巣」「黒い谷」「魔王の領域」という、あいまいな言葉ばかりだったからだ。


 (見えた物を全部、敵のものだと思って記録したのか。それとも、敵しか見せてもらえなかったのか......いずれにせよ俺は今、それの真実を知ることができる)


 石柱の根元に、小さな布片が引っかかっていた。灰褐色の布へ、角のような刺繍がある。血は乾いていたが、足を引きずった跡が谷の奥へ続いている。


 レイルは杖で地面を探りながら慎重に進み、岩陰でその人物を見つけた。


 その人物は――小柄な少女だった。黒紫色の短い髪。額の両側には指ほどの小さな角があり、何度も補修されたボロボロの旅装(りょそう)の腰へ地図と罠糸(ワイヤートラップ)を下げている。右脚には裂傷(れっしょう)があり、そこに自分で巻いた布が赤く染まっていた。けがはしているものの、少女は意識を失っておらず、レイルが三歩まで近づいた瞬間、小刀が抜かれた。


「☆△□○、♪♦~!?」


 音は聞こえた。しかし、単語の境目すら分からない。人間圏共通語にんげんけんきょうつうごでも成環古語(せいかんこご)でもなく、学院で触れた灰環交易語(かいかんこうえきご)の資料とも一致しない。ニアの環状光が、少女の声を細い線へ分割する。


【音声分割候補:三語】

【既知語候補:水/飲む】

【末尾候補:質問/警告】

【翻訳精度:二十八%】


『水ヲ求メテイル可能性アリ。断定不能デス』

「水が欲しいのか、水を飲むなと言っているのか、とらえ方次第で逆になるな」

『断定不能デス』


 少女の視線は、レイルの腰の水筒へ向いている。喉が乾いているように見えるが、罠かもしれない。そもそも、目の前の相手が水を必要とする生態かどうかも確定していない。


 (”警戒しすぎて死なせたら、安全確認じゃないな”)


 レイルは水筒を地面へ置き、自分の指へ一滴だけ垂らした。少女から見えるように舐め、次に水筒を彼女の側へゆっくり押す。


 少女はこちらを凝視したまま、小刀を下ろさない。代わりに、自分の指で水筒の口へ触れ、匂いを嗅いだ。舌先へ一滴だけ乗せ、しばらく待つ。ようやく小さく頷き、二口飲んだところで水筒を返してきた。


「全部飲んでいいぞ」

「◇☆、返す。水、返す」


 既知語だけが奇妙に聞き取れた。少女は水筒とレイルを交互に指し、胸元を軽く叩いた。


「ミュラ」

「それ、名前か?」

「ミュラ!」


 レイルも自分の胸へ触れる。


「レイル」


 少女――ミュラは一度だけ復唱し、少し顔をしかめた。


「レ……イル。長い」

「三音だぞ、長いって――」

王核諸語(おうかくしょご)ノ一部デハ二音節以上ヲ長名ト扱ウ可能性』

「初対面で名前の長さを評価されたのか」


 ミュラはレイルの不満を理解していないはずなのに、少しだけ口元を緩めた。


 傷を診ようとすると、再び小刀が上がる。レイルは包帯を見せ、自分の腕へ巻く仕草をした。ミュラは首を横へ振り、地面へ指で二本の線を描いた。一方は谷へ、一方は岩山へ続く。


「道を選べと言っている、のか?」


 ミュラは岩山側へ黒い石を置き、両腕を広げて何か大きなものを示した。次に、その石を白墨で囲み、指でつぶす。


【意味候補:大きな敵/白い回収個体/岩山側は危険】

【翻訳精度:三十一%】


 レイルは谷側を指した。


「こっちへ行く。傷を処置するが、嫌なら止める」


 ミュラは「嫌」という語を理解していない。レイルは自分の包帯を彼女へ渡し、手を離した。使うかどうかは任せる。


 しばらくして、ミュラは自分で古い布を外した。傷は深いが、骨には届いていない。レイルは触れる前に手を見せ、ミュラが頷いた時だけ煮沸できていない布を避け、持参した清潔な包帯へ交換した。作業中、空腹で腹が鳴った。


 ミュラが顔を上げる。レイルは無言で携帯パンを取り出し、残りを二つへ割った。大きい方をミュラへ渡すと、彼女は受け取らず、二片の重さを目で比べた。


「小さい方が俺の分だ。問題ない」


 意味は通じない。ミュラは両方を取り、ほぼ同じ大きさに割り直した。自分の分を胸元へ置き、レイルが食べ始めるまで手をつけない。


 (これは、俺の毒見を待っているだけだ。まだ、信用されたわけじゃない)


 それでも、”同じ物を同じ速度で噛む”うちに、二人の間の張り詰め方は少し変わった。


 谷を進むと、赤い樹液を垂らす低木があった。喉はまだ渇いている。ミュラは樹液へ近づかず、鼻を押さえた。その時、レイルの視界へ白い文字が浮かんだ。


()()()()()()()


 ニアの表示ではない。術式核(じゅつしきかく)も魔力の流れも見えず、文字だけが空中へ確定している。


「発信者を照合しろ、ニア」

『該当記録ナシ。白環文法ト一部一致。発信源、追跡不能(トレースエラー)


 ミュラはこの文字が見えていないらしく、レイルの視線を追って首を傾げた。


 (飲めと言われて飲むのは、警戒以前の問題だろう......)


 レイルは樹液を布へ一滴落とし、色の変化を見た。次に石へ垂らす。泡立ちはない。最後に舌先へごく少量つけ、十分待った。甘い。直後に舌が僅かに痺れた。


 ミュラが慌ててレイルの手を叩き、赤樹液を吐き出させる。彼女は両手を頬へ当て、眠る仕草をした。


「これを、大量に飲むと眠るのか」


 ミュラは何度も頷いた。白い文字は嘘ではなかった。水分は得られる。しかし説明が足りなさすぎる。レイルは記録板へ書いた。


【正体不明の助言】

【結果:少量なら有用】

【欠落情報:適量/副作用/発信目的】

【信頼度:保留】


『採点対象ニ追加シマス』

「神託だったとしても、”説明責任は消えない”」


 ミュラは内容を理解していないまま、記録板を覗き込んだ。書かれた人間圏文字を指でなぞり、自分の地図札を一枚取り出す。


 そこには、点と切れ目のある円、角度の違う短線が刻まれていた。文字というより、道の分岐を重ねた記号に見える。


「これが、お前の文字か?」


 ミュラは首を振り、地面を指した。次に耳をつける仕草をする。道の音を記録する札らしい。


 夜、レイルは岩陰へ小さな宿営地を作った。ミュラは少し離れて座ったが、眠る時にはレイルが置いた外套の端へ足だけを乗せた。


 レイルは破れた報告用紙の裏へ、最初の単語帳を作る。


【ミュラ=名前】

【水=飲料/返す対象】

【返す=所有を戻す】

【痛い=未確認】

【危険=岩山側の大きなもの?】

【眠る=赤樹液の副作用】


 百語分の欄を作り始めたところで、ミュラが紙を奪った。


「☆△、多い。十。十!」

「十語だけ?」


 ミュラは十本の指を見せた後、眠るように両手を頬へ当てた。


『推定:十語デ終了。睡眠ヲ優先』

「まだ六語しかない」

『六語デ十分デス』

「十分ではないだろ、何もわからんぞ」


 ミュラはレイルの記録板を胸へ抱え込み、返さないまま横になった。


 (言葉は通じないのに、寝ろという意思だけは正確すぎるな)


 レイルが外套を掛けてあげると、ミュラは一度だけ目を開けた。


「レイル。水、返す」


 たぶん、明日返すという意味だった。それでも”名前を呼ばれたこと”が、妙に胸へ残った。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 同じ頃、崩れた塔の周囲を、アルド・クロイツは三度目に通過していた。


「同じ塔に見えるが、似た構造が複数ある可能性もある」


 彼は真顔でそう判断し、最初と同じ方向へ歩き出した。


 塔の上階では、見知らぬ金髪の女が、倒れかける天井を魔法で支えながら呟いた。


「次に同じ少年が通ったら、方向感覚の検証対象として捕獲しましょう」


【今回の登場人物】


・レイル・アルヴァート

 言葉の通じない相手へ自分の水と食料を先に試し、神託らしき助言まで採点対象にした慎重すぎる遭難者。


・ミュラ・ノクテ

 水も食料も一方的に受け取らず、十語以上の勉強を始めたレイルから記録板を没収した小角族(しょうかくぞく)の少女。


・ニア

 二十八%の翻訳精度を万能翻訳のように扱わず、分からないことを分からないまま警告した相棒。


・アルド・クロイツ

 同じ塔を三度通りながら、似た塔が複数ある可能性を真剣に検討した完遂型の方向音痴。


【今回の能力・設定メモ】


・王核大陸語は、初期には記号列として表現されます。

・ニアの【言語照合ランゲージ・クロスチェック】は候補を提示するだけで、意思や契約を確定しません。


【次回】


 ニアが初めて誰かへ触れ、その代価をレイルの魔力で勝手に支払います。


 半分の水筒を二人で返し合ったように、レビュー、ブックマーク、フォローで物語へ少しずつ力を分けていただけると嬉しいです。

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