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未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――  作者: 勇者ヨシ君
第7章「地図の外の子どもたち」

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第88話「知らない星と壊れた環」

 地図にない場所へ落ちた時、最初に必要なのは勇気ではありません。

 自分が何を知らないのかを、怖くても数え始めることです。


 レイルが最初に見たものは、夜空に浮かぶ、知らない星だった。夜空を横切る淡い紫色の光帯。その両脇に、青白い月と赤銅色の小さな月が浮かんでいる。王立結着学院おうりつけっちゃくがくいんの天文学資料にも、エルデ村から見上げた夜空にも、こんな並びは存在しなかった。それだけで、ここがいつもいる場所ではないとわかる。


 背中へ食い込んだ黒い砂利の痛みが、意識より遅れて戻ってきた。息を吸うと胸が(きし)み、口の中には鉄に似た味が広がった。レイルは反射的に起き上がろうとしたが、右手が空をつかんだところで動きを止めた。


 (ダメだ――焦って立つな。落下後は首、背骨、手足の順だ)


 指が動く。肘も曲がる。両脚には痺れがあるが、骨が折れたような感触はない。学院地下で白い環が開き、セレネが何かを叫び、リィナがこちらへ手を伸ばした――そこから先だけが、焼けた紙のように抜け落ちている。


「おい、ニア」


 返事はなかった。胸元の【万式魔導環(オムニア)】へ触れる。普段なら黒銀色の猫が不機嫌そうに尾を振るはずだった。今は環の表面を、欠けた光が一周しきれずに明滅している。


「ニア。起動確認。聞こえるなら返事をしてくれ――?」


 数秒後、光の粒が腕輪の上へ集まった。猫にも少女にもならない、小さな環だけが震える。


『……使用者、生存ヲ確認』


 掠れた声だった。それでも、レイルは肺に溜めていた息をようやく吐いた。


「現在の位置情報はどこだ?」

『不明デス』

「学院との距離」

『測定不能デス』

「転送方向と到着座標」

『記録欠損。固定座標ガ存在シマセン』

「リィナ、セレネ、アルド、フィアは?」


 小さな環が沈黙した。答えを探しているのではない。答えがない時の沈黙だった。


『不明デス』


 (全員不明。死者は確認されていない。”不明を死亡へ書き換えるな”)


 そう言い聞かせても、リィナの手が届かなかった瞬間だけが何度も脳裏へ戻った。立って探しに行きたい。名前を叫びながら走れば、誰かが返事をする気がした。だが、ここには返事より先に届くものがいる。


 砂の上に細い筋が走った。風ではない。地表のすぐ下を、何かが滑っている。


 レイルは横たわったまま、手の届く範囲を探った。裂けた学院外套、腰袋、水筒、折り畳み小刀、火打ち具、包帯、細縄、白墨、薄い記録板。大型鞄も予備杖も食料箱もない。保存食は固い携帯パンが一枚。水筒の中身は半分より少ない。


 そして【七環導杖(セプテム・ロッド)】は、二歩離れた場所へ転がっていた。


 拾い上げた瞬間、杖頭の七環部から火花が散った。風圧経路も光経路も沈黙している。魔力を流すと、内部で出口を失った圧力が手首へ戻ってきた。


「魔法杖としては使用不能。芯材は生きている。物理強度は――」

『試験ヲ推奨シマセン』

「地面を軽く突くだけだ」

『使用者ノ“軽ク”ハ信用度ガ低下シテイマス』


 こんな時でも反論が返ってくる。それだけで、胸の奥の冷たさが少しほどけるのを感じる。そう考えていると、砂の筋が跳ねた。


 平たい頭と半透明の腹膜を持つ蜥蜴(とかげ)が、黒砂を滑るように飛び出す。人間圏(にんげんけん)の生物誌に記載された砂走蜥蜴(サンド・ランナー)に似ているが、目が四つあり、尾の先へ熱を逃がす赤い器官がついている。


 学院の大陸史(たいりくし)では、海の向こうにある【魔境大陸(まきょうたいりく)】について、こう教えられていた。


 魔王種(まおうしゅ)と魔物が支配する未開の地。街道は存在せず、人間の共同体は長く存続できない。高濃度の魔力に適応した魔物が獲物を奪い合い、知性ある者も力ある王へ服従する。


 だが、目の前の蜥蜴は服従も支配も関係なく、明らかに空腹だった。


 レイルは壊れた杖を短く持ち、頭部と手首を守った。蜥蜴の噛みつきを杖の側面で受け、正面から押し返さず、朝練で叩き込まれた足運びで斜めへ逃がす。二撃目は低かった。右足を引き、転びかけた身体を左手で砂へついて支える。


 (魔法を使えば倒せる。だが、一匹しかいない証明がない状況では......)


 右掌へ【風弾(エア・ショット)】の始動だけを起こしかけ、すぐ消した。蜥蜴は追撃せず、一定の距離を越えると砂へ潜った。縄張りから離れた相手を追わないらしい。


「討伐より離脱を優先する。ニア、移動記録を取れ」

『記録機能、部分稼働。開始地点ヲ仮座標ゼロトシマス』


 火を焚けば暖かい。しかし、煙も光も、自分がここにいると知らせてしまう。レイルは風下の岩陰を探し、地面へ浅い窪みを掘った。外套を砂除けにし、杖を入口へ斜めに渡す。水は一口だけ。携帯パンは三分の一を噛み、残りを布へ包んだ。空腹より、静けさの方がきつかった。


 学院の寮なら、隣室からアルドが何かを倒す音がした。セレネは夜でも計算石を鳴らし、フィアは記録紙を揃え、リィナは「明日も朝練だから」と先に寝ろと怒った。


 (帰る。いや、言い切るだけじゃ駄目だ。”今日は生きる。明日、探す”)


 レイルは薄い記録板へ四人の名前を書いた。


 リィナ・アルセイル。

 セレネ・グランツ。

 アルド・クロイツ。

 フィア・レコード。


 その下へ、現在の事実を加える。


【生存:未確認】

【死亡:未確認】

【捜索:継続】


 書き終えた時、遠い岩山の稜線(りょうせん)で、何かが一度だけ光った。白い光ではない。赤と緑が交互に瞬く、人工的な合図だった。


 学院の資料は、この大陸に街道も定住地もないと教えていた。


 しかし、星の下には、明らかに誰かが決めた間隔で並ぶ石柱があった。風化した表面には、一部が開いた灰色の環が刻まれている。


 (”道があるぞ”)


 それは希望であると同時に、レイルの知識が最初から間違っている証拠でもあった。百聞は一見にしかず――前世の言葉を思い出していた。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 同じ夜。湿った草原へ落ちたリィナは、片膝をついたまま剣を抜いていた。


 腕の中には、額から血を流したフィアがいる。周囲には巨大な茸と、青い燐光(りんこう)を放つ水溜まり。見える範囲にレイルたちはいなかった。


「人数を確認して」


 フィアは痛みに顔を歪めながら、腰の記録札を探った。


「現在私たち二名。未確認、レイル、セレネ、アルド。ニアを独立同行者として含める場合、未確認四名です」

「未確認じゃない。探すの!」

「訂正します。捜索対象、四名」


 リィナはようやく息を吐き、フィアを背負い直した。


 (レイル。”勝手に一人で全部決めたら”、今度こそ本気で怒るからね)


 返事のない名前を胸の内で呼び、青い菌糸林(きんしりん)へ一歩を踏み出した。


【今回の登場人物】


・レイル・アルヴァート

 知らない星空の下で仲間の死亡を決めつけず、壊れた杖と一食分の保存食から生存手順を組み直した少年。


・ニア

 投影すら崩れた状態から声だけを取り戻し、役に立たない回答も隠さず伝えた相棒。


・リィナ・アルセイル

 負傷したフィアを背負い、レイルへの怒りを歩き続ける力へ変えた幼なじみ。


・フィア・レコード

 不明を空白のまま残し、捜索対象という言葉で仲間の生存可能性を守った記録係。


【今回の能力・設定メモ】


・【七環導杖(セプテム・ロッド)】は破損しており、現在、魔法杖として使用できません。

・人間圏で【魔境大陸】と呼ばれる土地には、学院資料と異なり人工的な道標(みちしるべ)が存在します。


【次回】


 言葉の通じない少女と、半分以下の水筒を挟んだ交渉が始まります。


 未知の星の下へ残した小さな記録札のように、レビュー、ブックマーク、フォローでレイルたちの帰り道をつないでいただけると嬉しいです。

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