幕間「矯正対象、移送開始」
正しい場所へ運ぶ。
正しい役割へ分ける。
正しい答えへ戻す。
それだけを聞けば、親切な仕組みに思えるかもしれません。
ただし、その”正しさ”を本人へ一度も聞かない仕組みは、救助の名で行う矯正です。
人間圏の歴史書と古い地図には、その大陸について決まって同じ名が記されている。
【魔境大陸】。
人ならざる魔物が群れ、理性を持たぬ魔王が土地を奪い合い、一度足を踏み入れれば二度と帰れない場所――人間圏では、長い間そう教えられてきた。
だが、その呼び名は、帰還した者の少ない側が遠くから貼り付けた、ひどく一方的な差別的な名前にすぎない。
海の向こうには、複数の魔王種国家があり、異なる種族が暮らす境界都市があり、精霊と契約を結ぶ森があり、国を持たない者たちの隊商路がある。
人間圏で魔物と一括りにされる者たちにも、家がある。
食卓がある。
守るべき子供がおり、従う王を選ぶ者も、王を持たずに生きる者もいた。
この大陸で【王】とは、ただ国を治める者を意味しない。
己だけの理を抱き、その理によって世界の一部へ影響を与える【王核】の保持者――魔王種を意味する。
ゆえに、土地の者たちはこの場所を【魔境】とは呼ばない。
【王核大陸ゼルハーン】。
それが、この大陸の本当の名だった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その夜。
ゼルハーンの空へ、白い傷が走った。
東西へ長く伸びた亀裂が五本に分かれ、さらに途中で進路を変える。稲妻に似ていたが、音は遅れて来なかった。代わりに、大地の奥から高い金属音が五度響いた。
古い白環転送塔の外縁で、虎人の見た目をした”ラガン・ティグリス”は片刃の長刀を抜いた。
黄褐色の耳が立つ。裂けた左耳だけが、僅かに遅れて震えた。
「また子どもを捨てる気か――」
誰に向けた言葉でもなかった。
白い塔は答えない。
石材の半分は崩れ、環状の上部構造も落ちている。それでも地下に残った転送核だけは、何年経っても死に切らなかった。夜ごと微かな振動を発し、忘れた頃に、どこかから”正しい場所を失った者”を吐き出す。
ラガンは腰の地図筒から、一枚の古びた紙を取り出した。
人間圏共通語で、家族らしい名前が三つ。
その下には、拙い地図。
最後の線だけが、途中で途切れている。
数年前、この塔の近くへ人間の子どもが落ちた。
ラガンはすぐには近づかなかった。人間側の偵察かもしれない。白環が送り込んだ餌かもしれない。危険を見極めてから保護すると決め、一晩だけ監視した。
翌朝、子どもはいなくなっていた。
残っていたのは、途中までの地図と、地面を抉った回収獣の爪痕だけだった。
あの時の一晩は、今も終わっていない。
ラガン自身も、かつて敗者として谷へ置き去りにされた。
成人試練で脚を折り、立てなくなった者を群れへ戻さない。弱い個体を抱えれば、次の冬に全員が飢える。それが虎獣人の古い掟だった。
谷底で二日目の夜を迎えた時、まだ王冠を持たなかったオーク種のガズル・ヴァルグが通りかかった。
大柄な猪頭の男は、こちらの事情も忠誠も聞かなかった。火へ鍋を掛け、肉を煮て、木椀を一つ差し出した。
「腹が減っているかブヒ」
ラガンは頷いた。
「なら食え。食い終わってから、残るか帰るか決めろブ」
帰れるとは言わなかった。
助けてやるとも言わなかった。
ただ、敗北の後にも選択を残した。
ラガンは古い地図を筒へ戻すと、転送塔の崩れた階段を下りた。五本の白い亀裂のうち、一つが北東へ折れ、境界集落の方角へ伸びている。
「助けるとは決めていない。生きているか確認する」
塔の影で待機していた斥候が、尾を強く振った。
「灰環盟約へ知らせますか。全派へ一斉送信すれば、捜索人数は増えます」
「保護派へだけ送れ。封印派は後だ。利用派には絶対に先を越させるな」
「相手が危険な固有律持ちでも? 白環がわざわざ矯正対象へした者です」
「危険なら俺が止める。だが、危険かどうかを本人へ会う前に決めるな」
「保護した結果、集落へ被害が出るかもしれません」
「その時は俺が責任を取る。疑った結果、また子どもを一晩置けば、前と同じになる」
斥候は、ラガンの地図筒へ一度だけ目を向けた。それ以上は聞かなかった。
ラガンは長刀を背へ戻す。
「敗北しただけなら、まだ選べる。選ばせる前に、鎖も値札も付けるな」
白い亀裂が、もう一度空を裂いた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
人間圏西端の旧勇者転送塔では、勇者候補ユノ・アステルが床へ寝転がっていた。
「はぁ、だっる……もう文字が古すぎ。これ書いた人、読む相手のこと一ミリも考えてないでしょ」
藍色の髪が、埃だらけの石床へ広がっている。
隣ではカイン・ヴェルドが壁面の石板を写していた。喉の古傷は声を返さない。携帯石板へ白墨を走らせ、ユノの顔の前へ差し出す。
【寝るなら外】
「寝てない。床と同じ目線で見たら隠し文字が見えるかもしれないっていう、異世界式の高度な調査。こういう古代遺跡って、だいたい一番見つけにくい場所へ大事なこと書くじゃん」
カインは一度石板を引き、ユノの髪へ付いた灰を指で示してから書き足した。
【埃も調査?】
「それは事故。あと、勝手に取らないで。私、今すごい真面目な顔してたのに」
カインは石板へ小さく追記した。
【見えない】
「顔が床向いてたからって意味? 地味に腹立つなあ」
ユノは渋々起き上がった。
二人が探していたのは、過去に召喚された勇者たちの帰還記録だった。塔の最深部には、帰還ゲートの規格を示す術式板が残っている。だが、読めた範囲では、どの門も単独転送を前提としていた。
【帰還ゲート規格:一名】
【同行者追加:不受理】
【現地契約:切断】
【召喚目的未完了時:帰還申請保留】
「一人分だけ戻すって、性格悪すぎない?」
ユノは膝を抱え、表示を睨んだ。
「勇者だけ返して、こっちでできた家族とか仲間は置いてけってことでしょ。選ばせるふりして、答え一個しかないじゃん、帰ったらこれ考えたやつ、SNSでさらしあげる。絶対」
カインは返事を書かなかった。
その代わり、壁の端に埋もれていた細い文様を指でなぞる。環状の文字列が、学院地下で採取された白環記録と同じ順序で並んでいた。
ユノの目つきが変わった。
「待って。そこ、もう一回照らして」
カインが灯光石を近づける。
【集団移送時、対象を役割別に分離】
【依存関係を切断】
【個別矯正後、中央領域へ再統合】
【異邦対象の帰還希望を矯正阻害要因として処理】
ユノは最後まで読むと、舌打ちした。
「これ、転送事故の記録じゃない。最初からバラバラにする手順だ!」
同時に、床下から細い振動が伝わった。
環状文字が一つずつ白く灯る。学院地下で観測された反応と同じ周期だった。
カインの白墨が短く走る。
【学院へ戻る】
ユノは、あと一枚めくれば読めるはずだった帰還記録を見た。
自分が元の世界へ戻れるかもしれない。
何年も探してきた手掛かりだった。
閉じたくなかった。
「はぁ、だる……やっと私の番かもしれないのに。こういう時に限って、誰かの方が急ぎなんだよね」
カインは石板を見せた。
【選んだ?】
ユノは帰還記録へ革紐を巻いた。持ち出さず、元の棚へ戻す。
「選んだよ。マジウザいけど、学院へ戻る」
カインはすぐに荷物を背負った。
ユノが扉へ向かいかけ、振り返る。
「その記録、誰にも取られないようにして」
カインは塔の封鎖具を確認し、石板へ書いた。
【戻って読む】
「うん。絶対に」
その言葉だけは、愚痴を混ぜなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
灰環盟約の移動食堂では、夜更けにも大鍋が煮えていた。
吸血種のノエラ・ヴェインはその小柄な身体を高い椅子へ沈め、銀杯の縁へ指を滑らせた。杯の中身は血ではない。許可のない血を口へできない彼女のために、赤い果実と薬草を煮た代用品が注がれている。
味は、ひどく酸っぱい。
「五人。いや、一つの群れを、三つ以上へ裂いたか」
空中へ浮かぶ血色の契約線が、途中で何度も枝分かれしていた。
厨房では、ガズル・ヴァルグが大鍋へ肉と水を追加している。
「何をしておる、ガズル。妾は転送線を数えておるのだぞ。なぜ鍋へ肉を足す」
「落ちてくるんだろ。五人なら、五人分いる」
「敵かもしれぬぞ。人間圏の密偵、白環の餌、固有律の暴走者。どれもあり得る」
「腹を減らした敵なら、まず食わせる。腹が減ってる時の返事は、だいたい本音じゃない」
「食わせてから、改めて敵かどうか聞く気か」
「そうだ。空腹の相手に勝っても、自慢にならんブヒ」
「おぬしは政治を食卓へ持ち込みすぎじゃ」
「食卓へ来ない政治は、腹の減り方を知らん」
「……たまに、妙に正しいことを言うから困るのう、おぬしは」
ガズルは味見をし、首を傾げ、塩を一つまみ足した。鍋はすでに二十人分ある。さらに人参を三本放り込む。
「人数は五人じゃ」
「散らされたなら、拾う側も食うゼ」
「道理ではあるが、鍋の量で政治判断をするでない」
ノエラは指先を切り、浮かぶ灰色の環へ一滴だけ血を落とした。
【白環移送を確認】
【対象は人間圏の未成年者】
【固有律保持者を含む可能性】
【本人受諾:未確認】
【保護・封印・利用、各派へ審議要請】
三つの返答が、ほぼ同時に返った。
【保護派:受諾確認を優先】
【封印派:危険評価まで拘束】
【利用派:人間国家より先に確保】
「ほれ見よ。まだ落ちてもおらぬ子どもへ、もう値札と鎖を用意しておる」
「お前は?」
「本人へ聞く。聞いた後で、危険なら妾が縛ろう」
「それでいい」
「簡単に言うな。妾が嫌われる役になるではないか」
「嫌われたら飯を食わせる、そうすりゃ解決だ」
「おぬしの解決方法は一つしかないのか」
「飢えてる奴には効くブヒ」
ノエラは酸っぱい代用血を飲み、顔をしかめた。
「では、鍋を焦がすな。白環より先に迎えを出そうぞ」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
王核大陸南部の闘技坑で、四つの拳が同時に開いた。
ガルヴァドの上腕二本には熱と雷。
下腕二本には風圧と硬質化。
四つの術式が、詠唱の区切りもなく形成される。
正面に立つ大型魔獣が咆哮した。ガルヴァドは一歩も退かず、四方向から術式を撃ち込む。熱線が甲殻を焼き、雷が筋肉を止め、風圧が巨体を浮かせ、硬質弾が開いた傷へ突き刺さった。
反動で右上腕の魔力経路が裂ける。
ガルヴァドは眉一つ動かさない。裂けた肉を押さえる代わりに、左下腕で次の術式を形成する。傷口では黒赤い繊維が蠢き、すでに再生を始めていた。
部下が闘技坑へ駆け込む。
「白環から固有律保持者が落ちます。人間圏の未成年者、複数」
「生きていれば回収しろ」
「灰環盟約も動いています」
「先に見つけた者が持てばいい」
ガルヴァドは四本の腕を広げた。
「四つの攻撃へ答えられぬなら、戦力ではない」
「子どもであっても?」
「壊れたなら再生すればいい。再生しない者は、最初から戦力ではない」
部下は頭を下げた。
遠い空で白い亀裂が四方へ分かれる。
ガルヴァドは、再生途中の腕で笑った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
翌朝。
王立結着学院の地下端末室へ、【特殊結着研究班】の五人が集められた。
昨日登録された研究班情報が、旧式端末へ誤送信されている。
それが、ヘルマン教官から説明された再点検の理由だった。
「点検だけなら、全員で来る必要はないのでは」
レイルは入口で立ち止まり、床へ貼られた退避線を確認した。
「登録された五名全員の照合が必要だ」
ヘルマンが答える。
「付属案内人格も対象です」
フィアが記録板を見る。
黒銀色のニアはレイルの肩へ乗り、地下の白い端末を睨んでいた。
『旧式環状文法ヲ確認。オムニア初期層ト類似シマス』
エルシアの足が一瞬止まった。
「初期層だけかい」
『深部構造、照合不能デス』
「師匠は知っているのか?」
レイルが振り返る。
「知ってる文法と、知らない命令が混じってる。だから先に止めるよ。質問は地上で聞きな」
「その言い方は、質問が増えるんだが」
「生きて戻れば全部聞ける」
エルシアは通常の軽口を返さなかった。
端末室の外には、ロッテとリオンが待機していた。技術協力員と物資協力員は正式構成員ではないため、照合線の内側へ入れない。
「異常値が出たら、これを引いて」
ロッテが非常切断索をレイルへ渡す。
「引けば主魔力線を物理的に落とせる。ただし白い環が出たら触らないで。前の事故と同じ文法でも、挙動まで前例どおりだと決めつけないで」
「必要な工具は一式です。三式ではありません」
リオンは小型工具箱を持ち上げた。
「学習したな」
「大師匠の無事へ投資する場合、量より退路を優先します」
「俺は大師匠ではない」
「その件については、帰還後に再審議しましょう」
「点検前に帰還後の話をするな」
「帰還を前提にするのは重要でしょう?」
リオンの答えに、レイルは反論できなかった。
五人は環状端末を囲む位置へ立つ。
リィナがレイルの左。
セレネが右。
アルドとフィアが正面。
昨日の研究机と同じ配置だった。
「近すぎないか。端末が分離式なら、同時に巻き込まれる距離だ」
レイルが言うと、リィナは床の白線ではなく、彼の袖を見た。
「退避時に袖をつかめる距離。前みたいに、レイルだけ先に触ろうとしたら止められる」
「術式誤差を同時観測できる距離です。離れれば安全とは限りません。むしろ、別々の数値しか取れなくなります」
セレネも位置を変えない。
「本人の意思は。二人が決めた配置へ、俺が置かれているように聞こえる」
「聞いてる。離れたい?」
「離れた方が安全かもしれない。だが……何か起きた時、声が届かない方が嫌だ」
「じゃあ、今はこのまま」
「術式上も、その判断を支持します」
「二人とも、俺の言葉を別々の理由で採用するな」
「同じ場所にいる理由が二つあるだけだよ」
リィナは少しだけ笑った。
フィアが記録を開始する。
「照合対象、五名。付属案内人格一。技術協力員と物資協力員は退避線外。本人受諾は、端末情報の確認と停止処理のみです」
「受領した」
アルドが端末中央へ手を置く。
「照合を開始する」
白い環が一つ、床から立ち上がった。
次に、五つ。
レイルたちの足元へ、別々の環が閉じる。
『警告。登録処理デハアリマセン』
ニアの尾が太く膨らむ。
壁面へ白い文字が流れた。
【矯正対象群:確定】
【中心対象:レイル・アルヴァート】
【関連対象:四名】
【付属案内人格:一】
【依存関係分離】
【個別移送開始】
「全員、線から離れろ!」
ヘルマンの怒声と同時に、アルドが振り返った。
「任務を変更する。全員退避だ!」
【完遂】の光が足元へ走る。
五人の身体が出口へ動き始める。だが、白い環はそれぞれ異なる方向へ空間を引いた。アルドの足は出口を向いているのに、床との距離だけが伸びていく。
「経路が五つに分かれています!」
セレネは二つの術式を同時形成し、左右の環へ干渉した。
「一つを止めても、残りが進みます。これは転送では――」
言葉が途切れる。
壁面へ次の表示が出た。
【個別適性環境:照合】
【中央矯正領域:座標固定中】
「座標固定が最後の工程です」
フィアが叫ぶ。
「転送開始は完了済み。止められるのは到着地点だけです!」
レイルは白い環へ手を伸ばした。
「バカ弟子、触るな!」
エルシアが退避線を越える。
間に白い壁が落ちた。
レイルの指先が環へ触れた瞬間、魂の奥へ巨大な圧力が流れ込んだ。
始まっている。
五人を運ぶ力は、もう動いている。
最後に残っているのは、全員を白環が選んだ場所へ到着させること。
(ここで完成させたら、同じ檻へ運ばれる)
考えるより早く、右目へ閉じ切らない輪が浮かんだ。
座標固定の最後の一工程が、レイルの魂へ落ちる。
『転送座標ノ結着、未完化』
ニアの投影が激しく乱れた。
『転送継続。到着地点、確定不能』
「止まってないの!?」
リィナがレイルの手をつかむ。
「転送そのものは始まってる!」
「じゃあ、離さないで! 今度だけは、勝手に安全な方へ押し出さないで!」
「離さない! 俺も、今度は一人で残るつもりはない!」
リィナが差し出したのは手首ではなく、指だった。レイルも握り返し、ほどけないよう指を絡める。力が強すぎて痛い。それでも、どちらも緩めなかった。
その手の上へ、フィアが腕を伸ばす。だが白い環は、リィナとフィアを同じ方向へ引き、レイルだけを反対へ落とそうとした。
「レイル!」
リィナの指が滑る。
セレネが反対側からレイルの外套をつかんだ。
「座標条件を共有します。全員の魔力署名を一つへ――」
「駄目だ。中央へまとめられる!」
レイルは外套の留め具を自分で外した。
セレネの手に布だけが残る。
「何を――」
「同じ檻へまとめられるより、散った方が探せる! 白環が用意した一つの答えへ、全員で入る方が危険だ!」
「理屈は分かります。ですが、それを一人で決めないでください! 私たちは今、共同判断役でしょう!」
「時間がない。だから――ごめん!」
「謝って決定権を奪わないで、レイル!」
セレネの声が、初めて計算ではなく怒りで震えた。
謝罪と同時に、足元が消えた。
フィアはリィナの腕をつかみ、二人で同じ白い裂け目へ落ちる。
アルドは出口へ進み続けたまま、別方向の光へ飲まれた。
セレネは壊れた演算石を投げ、レイルの魔力署名を記録しようとした。石が触れる直前、空間が折れる。
『使用者接続ヲ維持』
ニアが腕輪へ戻る。
最後に見えたのは、白い壁を叩くロッテと、非常切断索を引くリオン、そして風圧で壁をこじ開けたエルシアだった。
「レイル――!」
重大な時にしか呼ばれない名前が、地下へ響いた。
レイルは返事をしようとした。
声が届く前に、学院の床も、仲間の手も、師匠の姿も消えた。
落下の途中で一度だけ、ニアの声が聞こえる。
『現在位置情報――不明デス』
次にレイルが見た空には、知っている星が一つもなかった。
【今回の登場人物】
・ラガン・ティグリス
救えなかった転移児と、自身が敗者として捨てられた過去を抱え、白環が再び落とす子どもを確認するため動き出した虎獣人。
・ガズル・ヴァルグ
敗北したラガンへ食事と次の選択を渡した過去を持ち、今回も敵味方を決める前に人数分以上の鍋を用意した猪頭の王。
・ユノ・アステル
目前まで迫った自分の帰還記録を棚へ戻し、学院で起きようとしている集団分離を止めるため引き返した帰還不能の勇者候補。
・カイン・ヴェルド
白環文法を発見し、短い石板でユノへ選択を返した後、迷わず学院への帰路を選んだ無声剣士。
・ノエラ・ヴェイン
五人を裂く転送線を感知し、保護、封印、利用の三派へ本人受諾のない移送を警告した吸血種の契約者。
・ガルヴァド
四腕と自己修復を戦力の基準とし、落ちてくる未成年者さえ四つの攻撃へ答えられるかで測ろうとする魔王種。
・レイル・アルヴァート
転送を止められない中で到着座標の完成だけを奪い、仲間を白環の中央矯正領域から外した代わりに、自身も地図の外へ落ちた術師。
・リィナ・アルセイル
最後までレイルの手を離すまいとし、分断の瞬間にはフィアと同じ転送裂け目へ引き込まれた剣士。
・セレネ・グランツ
五つの転送経路を同時に解析し、レイルの魔力署名を残そうとしたが、外套だけを手に別地点へ落ちた術式設計役。
・アルド・クロイツ
【完遂】で全員退避を始めたものの、空間そのものに出口までの距離を引き延ばされ、単独の転送路へ消えた実地指揮科生。
・フィア・レコード
転送開始と座標固定を工程として切り分け、リィナの腕をつかんだまま記録ごと未知の土地へ運ばれた目録担当。
・ニア
白環文法を警告し、座標固定の未完化後もレイルとの接続を優先して腕輪へ戻った黒銀猫型ナビゲータ。
・エルシア・ヴァント
旧式環状文法へ覚えがありながら全てを語り切れず、白い壁の向こうへ消える弟子を重大時の名で呼んだ師匠。
・ヘルマン教官
再点検を指揮し、異常発生直後に全員退避を命じたが、白環の空間分離へ阻まれた学院教官。
・ロッテ・ベルクマン
非常切断索と物理遮断手段を用意していたものの、正式対象外として退避線の外に残され、仲間が消える瞬間を目撃した魔導技師。
・リオン・ゴルディス
三倍の物量を持ち込む癖を抑えて必要な一式を揃え、転移発生時には切断索を引いて学院側の魔力線を落とした物資・契約協力員。
【今回の能力・設定メモ】
・強制転移の対象は【特殊結着研究班】の正式構成員五名と、レイルへ接続されたニアです。
・ロッテとリオンは協力員であり、白環端末の正式な【矯正対象群】へ含まれません。
・レイルは転送そのものを未完化していません。開始済みの転送に残っていた【到着座標の固定】一件だけを保持しました。
・白環が指定した中央矯正領域への到着は阻止しましたが、移送エネルギーは止まらず、五人は王核大陸の旧転送網へ分散しました。
・転送直後の分断は、レイルとニア、リィナとフィア、セレネ単独、アルド単独です。
・レイルの【未完】保持可能数は、引き続き一件です。
・灰環盟約では、保護派、封印派、利用派がそれぞれ別の目的で転移者の捜索を開始します。
【次回】
第7章「地図の外の子どもたち」。
完成した地図も、学院の設備も、仲間の返事もありません。
レイルはニアの壊れかけた環状光だけを連れ、知らない星空の下で一人起き上がります。
白い環が五人を裂いても、途中までの地図は誰かが拾い、続きを描けます。レビュー、ブックマーク、フォローで、第7章へ進む彼らの帰路を見守っていただければ嬉しいです。




