第8話 父さんにも限界はある ――完成しない椅子の正しい座り方――
父の椅子は、最後の脚が爪一枚分だけ入りません。
止まっているのは時間ではなく、完成へ届く最後の工程です。
けれど木工職人は、目の前の椅子が完成しないからといって、簡単には諦めません。
父の完成しない椅子は、仕事場の中央へ縄で固定された。
床へ打った四本の杭から縄を張り、座面が動かないよう締め上げる。問題の四本目の脚には赤い布を巻き、誰も触れないよう目印もつけた。周囲三歩には白い粉で円が描かれ、近づいてよいのはバルド、アウレリオ、そして現象を感じ取れるレイルだけと決められた。
それでも父は、椅子を完成させる方法を十二個用意していた。
「僕、昨日、試すなって言ったよね?」
「今日は神官がいるから、その約束は無効だ」
「大人は、子どもへ言った約束の抜け道を探していいの?」
「よくないわね」
エナが即答すると、バルドは口を閉じた。
仕事場には木の香りと膠を温める匂いが満ちている。壁には鋸、鉋、鑿が大きさ順に並び、削りかけの板や椅子の背板が棚へ積まれていた。バルドの濃茶色の作業着は袖口まで木粉に白く汚れ、広い肩が道具棚の前を塞いでいる。
向かいに立つアウレリオは、神官衣の上へ灰色の外套を羽織っていた。麦色の短髪には朝露が残り、右手には布で包んだ鑑定盤の金具を持っている。昨夜からほとんど眠っていないらしく、灰緑色の目の下へうっすら影があった。
「こちらでも、同じ時刻に変化が起きた」
アウレリオが包みを開く。中にあったのは、鑑定盤へつながっていた細い金具だった。先端が黒く焼け、環状の刻印が途中から裂けている。
「祭壇から外して保管していたが、朝、突然一度だけ光った。閉式の最後の命令を実行しようとしたらしい。だが鑑定盤も儀式円も解体済みで、対象者もいない。行き場を失った魔力が金具へ流れ、これだけを焼いた」
「つまり、鑑定は完成したんですか?」
「していない。完成するための最後の工程は返されたが、完成条件そのものが失われていた。結果は空振りだ」
「成功を返す力じゃない」とレイルは呟いた。
「そうだ。返すのは、最後へ進む権利だけらしい。道が崩れた後へ走る許可を返されても、目的地へは着けん」
バルドが焼けた金具をつまみ、木工職人の目で断面を確かめる。
「二度と使えないか」
「一部を取り替えれば修理できる。ただし中央神殿から取り寄せる部品があるのでな。決して安くはない」
「費用は払う」
「原因調査中だ。まだお前に支払えとも言っておらん」
「......だが、レイルの力で壊れた」
「私が中断方法として解体を選び、金具へ逃がす処置をしなかった責任もある」
「原因を分けるのか?」
「そうだ。何でもアルヴァート家へまとてしまえば、それは正確な記録にならん」
レイルは二人の会話を報告書へ書き込んだ。インクで汚れた指が動くたび、胸へ椅子の圧力が伝わってくる。
四本目の脚は、穴の奥へ入りたがっている。昨日の二打分の衝撃が消えず、固い塊となって押し返してくるようだった。
「昨日より圧力が強い」
「何もしていないのに?」とリィナが尋ねる。
「椅子そのものは、完成しようとしてる。木が動いてるわけじゃないけど、最後の位置へ行こうとする感じが続いてる」
「寝ている間も?」
「ずっと。夢の中で父さんが椅子を叩いてた」
「夢にまで父さんの仕事を持ち込むな」
「僕が持ち込みたくて、持ち込んだんじゃない!」
リィナは普段着の上へ、なぜか鍋の蓋を胸当てのように紐で下げていた。レイルが「椅子の脚が飛んだ場合」を心配した結果、台所から借りてきたものだ。
「その蓋は顔を守らない」とレイルが指摘する。
「レイルが昨日、胸か頭に当たったら危ないって言ったんでしょ」
「優先順位は頭、首、胸だ。蓋は一枚しかないから頭へ――」
「頭に載せたら前が見えない」
「取っ手を口でくわえれば」
「戦いにくいって!」
「椅子の観察をするだけだ。 戦闘能力は要らない」
「木剣でレイルを殴る時に要るから」
「今日の危険源を増やすなってえ!」
アウレリオは二人を横目で見た後、バルドの足元に並ぶ十二種類の道具へ視線を落とした。
「本当に、全部試すつもりか」
「原因を切り分けるためだ」
「木槌、大槌、当て木、膠、油、枘穴の清掃、加熱、冷却......最後の二つは何だ」
「脚を一本諦め、三本脚として作り直す案と、残り三本も外して脚のない座椅子にする案だ」
「完成条件を変えるつもりか」
「椅子として使えれば、納品はできる」
「依頼主は四本脚を注文している」とエナが言った。
「三本でも座れると言い張る」
「注文と違います」
「脚がないよりはいいだろ」
「良くありませんわ、アナタ」
夫婦の会話は静かだったが、結論は明白だった。
バルドは十二番目の木札を裏返した。
「まず、力を加えない方法から試す」
「完成させようとする行為そのものが圧力へ蓄積する可能性があります」とレイルが言う。
「だから一回ずつだ。何をしたか、お前が記録しろ」
「僕は反対だ」
「反対の理由を言え」
「昨日の打撃が消えていない。新しい力を加えれば、解除された時にまとめて返るかもしれない」
「鑑定の金具のように?」
「うん。椅子の脚なら、勢いよく入りすぎて木が割れる。固定が外れたら飛ぶかもしれない」
「では、飛ばないよう固定した。割れた場合の当て木も用意した」
「危険対策があれば、危険な実験をしていいわけじゃない」
「何もしなければ、仕組みは分からんだろ」
「だからって、父さんの仕事を壊す必要はない」
「すでに納品できん。今のまま置いても損害は同じだ」
「同じじゃない。壊れたら材料まで失う!」
父子は椅子を挟んで睨み合った。
バルドの焦げ茶色の目は厳しいが、息子を押し切ろうとしているのではない。職人として、原因の分からない不具合を放置できない顔だった。
「レイル。お前は今、怖いから何もするなと言っている」
「怖いよ。当たり前だろ」
「怖いことは悪くない。だが、危険を減らした上で一つ試すことまで止めれば、昨日と同じだ」
「昨日?」
「原稿を捨てる前に、考えるだけで三十分使った。最後は捨てるか、捨てないかの二つしかないのに、考えることで決めずに済ませていた」
「今回は椅子が飛ぶ可能性がある」
「だから固定した。人を外へ出す。道具は一つ。試行も一回。そこで止める」
「一回で何が分かるっていうの?」
「何も分からないかもしれん。それも実験だ」
レイルは反論を探した。事故が起きる可能性。固定が外れる可能性。胸へ流れ込む圧力が強まり、自分が耐えられなくなる可能性。
どれもゼロではない。
しかし、ゼロでないことを理由に、何も始めないのは前世の自分と同じだった。
「わかった......一回だけ」
「お前が決める話ではない」とバルドが言った。
「僕の力が止めてるのに?」
「実験する物は父さんの仕事だ。場所も父さんの仕事場だ。お前の意見は聞く。だが全部を決めさせん」
その言葉は突き放すのではなく、責任を分けるためのものだった。
最初の実験は、椅子の脚へ膠を一滴足すことになった。接合部を外せないため、細い竹管で隙間へ流し込む。膠が乾いて固定されれば、脚が奥まで入らなくても座れる可能性がある。
全員が仕事場の外へ出た。バルドだけが長い柄のついた竹管を持ち、扉の陰から一滴を落とす。
膠は隙間へ入った。だが、乾かなかった。
「動いてる」とリィナが言った。
「表面は固まり始めてる。でも、最後のところで液体のまま残ってる」
「脚だけじゃないのか」とアウレリオが眉を寄せる。
「椅子を完成品にするための手段だから、膠の乾燥も同じ完成へ含まれたのかもしれない」
「対象は部品ではなく、椅子という仕事全体か」
レイルの胸へ、新しい粘りつく圧力が加わった。父の「何とか納品できる形へしたい」という焦りまで薄く混ざってくる。
「もうやめよう」
「一回だけという約束だ」とバルドが頷いた。
ところが、リィナが三本脚の側へ回り込み、床へしゃがんだ。
「これ、三本だけでも立ってるよ」
「触るな」
「触ってない。見てるだけ」
「座るつもりにしか見えん!」
「座らないよ。ちょっと体重を乗せるだけ」
「それを座るって言うんだ!」
止めるより早く、リィナは座面へ片手を置き、腰を浮かせたまま体重をかけた。
椅子が大きく傾く。
「わっ――」
レイルは反射的に駆け込み、リィナの腰へ腕を回して引き戻した。二人そろって木屑の山へ倒れ込む。
椅子は縄に支えられ、倒れなかった。
「だから危ないって言っただろ!」
「座ってない! 手を置いただけ!」
「体重をかけた時点で同じだ!」
「でも、レイルが助けてくれた」
「喜ぶところじゃない!」
「腰、ずっと抱いてるけど」
言われて初めて、レイルは自分の腕がリィナの胴へ回ったままだと気づいた。薄い上着越しに、小さな身体の温かさと、走った直後の呼吸が伝わってくる。
「これは転倒防止のためで、他意はない」
「聞いてないけど?」
「誤解される可能性を先に潰した」
「じゃあ、今は離さなくても安全なの?」
「......倒れないと確認できるまでは」
リィナの頬が赤くなった直後、木剣の柄がレイルの頭へ落ちた。
「ばかあああああああああ!」
「助けた相手を殴るな!」
「余計なこと言うからでしょ!」
「何も言わなかったら、それはそれで怒るだろ!」
「怒る!」
「どうしろっていうんだ!」
「ハァ。まず二人とも、危険区域から出ろ」
アウレリオに首根っこをつかまれ、二人は仕事場の外へ運ばれた。
その日の実験は、そこで完全に中止となった。
夕方、バルドは椅子を見ながら新しい台を組み始めた。三本脚の椅子を載せ、脚がなくても座面を使える高さへ調整する台だ。
「父さん。それはもう、椅子の下に別の椅子を作ってる」
「納品までに使える形を探している」
「台が完成したら、椅子は不要じゃない?」
「......」
「今、気づいた?」
「父さんにも限界はある」
バルドは無表情で台を横へ退けた。
エナが笑いをこらえ、リィナは遠慮なく腹を抱える。アウレリオまで外套の襟で口元を隠した。
「笑うな」
「父さんが作った安全な未完成品より、今日の方がひどいよ」
「まだ失敗作ではない」
「じゃあ何?」
「検討中だ」
「父さんまで、その言葉を使い始めた!」
笑いが収まった後、アウレリオは椅子へ近づかず、戸口から静かに告げた。
「今の一滴で、圧力が増えたのだな」
「増えました。脚を押す力だけじゃなく、膠が乾こうとする感じも混ざってる」
「この現象へ、完成の試行が蓄積する可能性が高い」
「次に別の物へ移った時、全部返る」
「そう考えて備えるべきだ。今後、この椅子へは何も加えるな。触らず、乾かそうともせず、完成させようとするな」
木工職人にとって、それは最も難しい命令だった。
バルドは椅子を長く見つめた後、赤い布をもう一枚、脚へ結んだ。
「分かった。だが、いつまでも置いてはおけん」
「別の安全な対象へ移せるか調べる」とレイルは言った。
「安全な対象を、お前が選べるのか」
「選べない。でも、条件は少し分かってきた。僕が完成を理解していて、もうすぐ終わる物。僕が終わるのを怖がった時に起きる」
「怖がるだけで実験するの?」とリィナが言った。
「意図的に怖がるのは難しい」
「じゃあ、レイルが本当に終わらせたいのに、終わるのを怖がってる物を使えばいい」
全員の視線が、レイルの革鞄へ集まった。
中には、捨てかけた物語が入っている。
「......やっぱり、それしかないか」
「また新しい話を書けば?」とリィナが言った。
「新しく始めた話は、完成直前じゃない」
「じゃあ、前の勇者は?」
「扉の前にいる」
「昨日より進んだ?」
「進んでない」
「ずっと待ってる子がいるんでしょ」
「いる」
「だったら、その話を使えばいいじゃん。レイルが本当に最後まで書きたい話なんだから」
リィナは笑わなかった。
「でも、今度は捨てないで。待ってる子まで、一緒に燃やさないでよ」
その言葉が、前世の誰かの声と重なりかけた。
レイルは革鞄の留め具へ手を置いたが、まだ開けられなかった。
未完中に加えられた打撃や膠の乾燥圧力は、消えずに椅子へ蓄積しています。
リィナを助けた場面の距離感事故はコメディですが、危険区域へ入った行動自体はアウレリオから叱られています。
次回、「意図的に作った未完成品」と「本当に完成させたい物語」の違いを検証します。




