第7話 捨てれば終わると思った ――原稿と、四本目の脚――
神殿の鑑定を終えられないまま、レイルは自分の原稿へ疑いを向けます。
物語を書き始めたから、周囲の完成を奪う力が目覚めたのではないか。
そう考えた六歳の少年は、責任を取るために一番慣れた方法――捨てることを選びます。
翌朝、レイルは竈の前で自分の書いた小説の原稿を燃やそうとしていた。
正確には、燃やすための準備を三十分ほど続けていた。灰を掃き、火掻き棒を用意し、水桶を二つ並べ、窓を開けて煙の逃げ道を確保する。火が袖へ移った場合に備えて上着を脱ぎ、床へ落ちた火の粉を踏み消すため、靴も履いた。
そこまで整えてはいるものの、肝心の火をまだつけていない。
灰褐色の寝癖を跳ねさせたレイルは、革紐で束ねた『名もなき勇者の帰還』を胸へ抱き、冷えた竈を睨んでいた。青灰色の瞳の下には、神殿で三時間立ち続けた疲れと、ほとんど眠れなかった夜の影が残っている。そんなレイルを見てリィナが声をかけた。
「燃やす気なら、どうして火種がないの?」
「火をつけた後に考え直しても、原稿は戻らない。だから、先に考え直す時間を取ってる」
「それ、燃やさない理由を増やしてるだけじゃない?」
「最終確認だ」
「三十分ずっと?」
「一度燃えた紙は戻らない。確認に時間をかける価値はある」
「だったら燃やさなければいいじゃん、もう」
「結論を最初から決めるな」
いつの間にか背後へ立っていたリィナは、腰へ両手を当てていた。早朝の稽古帰りらしく、赤栗色の髪は高い位置で一つに結ばれ、額へ汗がにじんでいる。生成りの上着は袖を肘までまくり、膝には昨日とは別の新しい擦り傷があった。
木剣を背中へ差しているのは、エナから「家の中では抜かないこと」と言われたためだ。抜かなくても殴れる位置にある点は、レイルにとって安心材料ではない。
「で、リィナ。どうして朝からうちにいるの?」
「レイルが、私に何も言わず原稿を燃やしそうだったから」
「予知能力でもあるの?」
「昨日、捨てるかもしれないって顔してた」
「どんな顔だよ、それ」
「捨てる理由を百個考えて、拾う理由を一個も考えない顔かな?」
「百個までは考えてない」
「じゃあ何個?」
「二十三個」
「十分多いじゃんかああああああああああっ!」
そう叫びながらリィナは原稿へ手を伸ばしたが、レイルは反射的に半歩下がった。胸の内側で、神殿の鑑定盤から伝わっていた細い圧力が、夜明け前から弱くなったり強くなったりしている。
解体された儀式は、まだどこかで完成しようとしているのかもしれない。その一方で、手の中の原稿もまた、あとわずかで物語の終わりへ届く位置にあった。
「触らないで。これが原因なら、リィナへ何か移るかもしれない」
「原因って決まったの?」
「決まってない。だから消すんだ」
「決まってないのに?」
「分からない物があるから事故が起きる。原稿を書き始めて、最後を怖がった時に母さんの刺繍が止まった。なら、この原稿をなくせば、同じ事も起こらないはずだ」
「それ、原稿が悪いんじゃなくて、レイルが最後を書かないのが悪いんじゃない?」
「書けないから捨てるんだ」
「昨日まで、書きたいって言ってたのに?」
「書きたい。でも、そのせいで誰かの仕事が止まるなら、僕が書きたいかどうかなんて、関係ない」
リィナはすぐには言い返さなかった。金茶色の目が、原稿を抱くレイルの腕へ落ちる。捨てると言いながら、紙の角が折れないよう抱えているのが見えたのだろう。
「本当に捨てたい人は、そんな持ち方しないと思うけどな」
「捨てる前まで、雑に扱っていい理由にはならないだろ」
「ほらあ。まだ大事なんじゃん」
「大事だから困ってるんだ。どうでもいい物なら、とっくに燃やしてる」
「じゃあ、最後まで書けば?」
「最後まで書けば、また別の何かが止まるかもしれない」
「捨てても何か起きるかもしれないよ」
「捨てた物は完成しない。何も終わらないなら、止めるものもない」
「......それ、本当にそうなの?」
問い返された瞬間、レイルの指へ力が入った。
前世でも同じ理屈を使っていた。作品を消せば、低い評価はつかない。応募をやめれば、落選しない。連絡を送らなければ、拒絶されない。
失敗する前に、自分から終わらせる。
それを責任ある撤退だと言い換えてきた。
「今回は違う」
「何が?」
「他人を守るためだ」
「前に捨てた時は?」
「前?」
「レイル、時々、昔から何回も同じことをしたみたいに話すでしょ」
「物語の登場人物に感情移入してるだけだ」
「また説明が長くなる嘘ついて」
「嘘じゃない」
「じゃあ、私の目を見て言って?」
リィナは一歩近づいた。少し日に焼けた頬と、真っ直ぐな金茶色の瞳が目の前へ来る。
レイルは二秒ほど耐え、竈へ視線を逃がした。
「......安全確認が必要だ」
「私の顔に危険な物なんてついてないよ」
「近すぎる」
「昨日は額をくっつけたのに?」
「昨日の検温は、そっちが勝手にしたんだろ」
「今日は嘘を見つけるため」
「理由が増えてる!」
「二人とも、朝から竈の前で何をいちゃいちゃしているのかな?」
柔らかな声が割って入り、レイルは肩を跳ねさせた。
母エナは淡い青の室内着へ、刺繍糸の入った小袋を腰から下げていた。栗色の髪はまだ編み終わっておらず、片側だけ肩へ流れている。包帯を外した右手には赤い針傷が残っていたが、昨日より腫れは引いていた。
彼女は水桶二つ、火掻き棒、脱いだ上着、靴を順番に見た後、息子の胸にある原稿へ視線を止める。
「燃やそうとしていたのね」
「まだ燃やしてない」
「燃やそうとしたのは事実だけど、まだしていないのは何故?」
「火をつける前に考えるのは大事だって、いつも言ってるだろ」
「ええ。だから、今は一人で考えるのをやめましょう」
「母さんに止められたら、僕はまた責任を他人へ預けることになる」
「相談することと、決定を押しつけることは違います」
「でも――」
「レイル。あなたは今、原稿を燃やすことを責任と呼んでいるけれど、本当に責任を取るなら、燃やした後に何が起きるかも調べてからにしなさい」
「それを調べるために燃やすんだよ、母さん――」
「結果が戻せない方法を、最初の実験に選んじゃだめよ。それはすべて考えつくして、やりつくして、どうしようもなくなった時の、最後の手段にしなさい」
返す言葉が見つからず、レイルは唇を噛んだ。
エナは原稿を奪わず、竈の脇へ腰を下ろした。傷の残る指で自分の膝を撫でながら、息子が話し始めるのを待つ。
「......これがあると、僕はまた最後を怖がる」
「ええ」
「怖がった時に、近くの何かが止まるかもしれない。母さんの刺繍みたいに」
「ええ」
「だったら、怖がる物そのものをなくせばいい」
「なくした後、あなたは安心できるの?」
「少なくとも、原稿の最後は怖がらない」
「今度は、燃やしたことを後悔するでしょう、あなたの性格なら、なおさらよ」
「後悔しても、他人の仕事は止まらない」
「そうかもしれない。でも、後悔が別の何かを止めない保証は?」
レイルは黙った。
自分の能力が、完成への恐れだけに反応するのか。諦めや後悔、逃避には反応しないのか。何も分かっていない。
「だから、アウレリオ様が来るまで待ちましょう。鑑定盤にも変化があるかもしれません」
「待っている間に、父さんの仕事が完成したら?」
「父さんには、今日は完成直前の作業をしないよう頼んであります」
仕事場から、金槌の音が聞こえた。
こん、こん、こん。
レイル、リィナ、エナの三人が同時に壁を見る。
「......母さん」
「頼んだわ」
「今の音は?」
「たぶん、頼まれた内容を自分に都合よく解釈した音ね」
三人が仕事場へ駆け込むと、バルドは椅子の四本目の脚を取りつけようとしていた。
広い背中へ革前掛けを掛け、焦げ茶色の短髪には木屑が積もっている。無精ひげの残る横顔はいつもどおり真剣で、太い左手が椅子の座面を押さえ、右手の木槌が脚の接合部を叩いていた。
「父さん! 完成直前の仕事はしないって話は!?」
「これは確認だ」
「脚を取りつけたら完成するだろ!」
「仕上げの磨きが残る」
「完成の定義を細かくして抜け道を作るな!」
「お前に言われたくない」
もっともだったため、レイルの勢いが一瞬止まる。
バルドが最後の一打を振り下ろす。脚の枘が座面裏の穴へ入り、あと爪の厚みほどで奥まで収まる――その直前、木槌の音が鈍く変わった。
ごっ。
脚は入らなかった。
木槌は確かに当たっている。バルドの太い腕も動いている。木の表面が割れた様子はなく、枘穴の位置もずれていない。それでも最後のわずかな距離だけが、どうしても縮まらない。
同時に、レイルの胸から神殿へ伸びていた細い圧力が、ぷつりと切れた。
代わりに、目の前の椅子から重い軋みが流れ込んでくる。
「止めて!」
レイルが叫ぶより早く、バルドは二打目を振り下ろした。
ごっ。
脚は入らない。
「父さん、もう叩かないで!」
「一打目は木屑が噛んだ可能性がある」
「二打目が入らなかった時点で、三打目を試す理由はない!」
「まだ三打目は試していない」
「試す気だっただろ!」
バルドは木槌を下ろしたが、椅子の脚を掴んで捻り始めた。押しても引いても、最後のわずかな位置から動かない。
「バルド、それ以上は」
「分かっている。ただ、固定されているのか確かめて――」
「確認しているだけ、はレイルだけで十分よ」
エナの声音は穏やかだったが、夫の手が即座に止まった。
リィナがレイルの胸にある原稿と、椅子を見比べる。
「何か変わった?」
「神殿から来てた感じが消えた。今は椅子が......脚を入れろって押してくる」
「椅子がしゃべるの?」
「声じゃない。父さんが打った力と、脚が入りたがる圧力が一緒に来る」
「椅子って、そんなに座ってほしいの?」
「完成したいだけだと思う」
「誰も座るとは言ってないのに、気が早い椅子だね」
「今は笑い事じゃない」
「笑ってない。ちょっと面白いだけ」
「それを笑ってるって言うんだ」
バルドは椅子を横倒しにし、脚へ刻んだ印を確認した。焦げ茶色の眉が深く寄る。
「寸法は合っている。枘穴にも歪みはない」
「では、止まったのね」とエナが言う。
「たぶん。僕が原稿を捨てるって決めた時に」
「まだ捨ててないよ」とリィナが言った。
「でも、もう続きを書かないって決めかけた。物語を終わらせるんじゃなく、諦めて燃やすつもりだった」
レイルは原稿へ目を落とした。
「もしかして、これはその時点で未完じゃなくなったのかもしれない」
「終わってないのに?」
「終わってなくても、僕が二度と完成させる気をなくしたら、それは途中じゃない。ただ捨てられただけの話になる」
「......放棄、か」
バルドが低く言った。
前世で何度も使った言葉ではない。前世では「休載」「準備中」「再構成」と呼んでいた。本当は、ずっと前から放棄していたのに。
「僕が原稿を放棄しようとしたから、力が別の完成直前へ移った。鑑定が終わる権利を返されて、代わりに椅子が止まった」
「神殿の儀式は、もう解体されている」とバルドが言う。
「だから完成する条件がない。返っても、正常には終われないかもしれない」
「では、神殿で何か起きた可能性があるわね」
「アウレリオ様が来る前に、こっちから行く」
レイルは原稿を革紐で縛り直した。
捨てるために用意した火掻き棒も水桶も、そのまま竈の前へ残っている。
結果が怖くなった時、また捨てようとするかもしれない。自分の判断だけでは、今度も止まれないかもしれない。
「リィナ」
「何?」
「僕がまた原稿を燃やそうとしたら、止めて」
「木剣で?」
「いや、割と手段は相談してほしい」
「でも、止めるのはいいの?」
「今のところは。原稿がなくなると、近くの別の物が止まる可能性があるから」
「じゃあ、一生持ってないと駄目なの?」
「それはまだ――」
「分からない、でしょ」
「うん」
「じゃあ、分かるまで私も一緒に見ててあげるね!」
リィナは笑い、原稿を抱えるレイルの腕へ自分の腕を絡めた。
「これなら勝手に竈へ行けない」
「近い。歩きにくい」
「安全対策だよ」
「腕を組む必要性はない」
「手をつないだら、また結婚の計算を始めるでしょ」
「腕を組む方が将来の夫婦らしいと思うけどな」
ぼそりとつぶやいた瞬間。ごつん、と木剣の柄が脇腹へ入った。
「もう、レイルのばかあああああああああ!」
「いちちち、家の中では抜いてないから約束は守ってる、みたいな顔をするな!」
「抜かずに殴ったから守ってるもん!」
「形式だけ守るなあああ!」
その横で、バルドが椅子の脚をもう一度押そうとした。
「父さんもまた試すなって!」
今度は三人の声がきれいに重なった。
原稿を完成させる意思そのものを捨てかけたことで、「未完」ではなく「放棄」と判定されました。
新しい保持対象は、父バルドが完成させようとしていた椅子の四本目の脚です。
次回、父は椅子を完成させようと工夫を重ねますが、その試行そのものが危険な蓄積となっていきます。




