第6話 一つ終われば、一つ止まる ――完成した布と未完成の記録――
母の刺繍は完成し、神殿の鑑定は未完のまま残りました。
偶然ではなく、何かが移ったのだとすれば、そこには規則があるはずです。
レイルは恐怖から逃げる代わりに、起きたことを記録し始めます。
神殿から戻った頃には、昼を大きく過ぎていた。仕事部屋の机へ広げた祭礼布では、銀糸の星と赤い麦穂が最後の結び目によって一つにつながっている。
布は完成した。それでも今日の荷馬車は町へ出た後で、失った納期や信用までは戻らない。
エナは椅子へ腰掛け、祭礼布の血が落ちた箇所を見つめていた。柔らかな栗色の髪は朝より少し崩れ、頬にも疲れが残っている。包帯を巻いた指で布へ触れようとして、痛みに眉を寄せた。
「母さん、今日は休んで」
「町へ送る手紙だけは書かないと」
「僕が書く」
「あなたの字では、六歳の子どもが書いたとすぐ分かるわ」
「文章の構成なら大人より――」
「内容より先に、自分の報告書を終わらせなさい」
穏やかな声音だったが、断る余地はなかった。レイルは口を閉じ、向かいの椅子へ座る。
机の端には、昨夜からの報告書がある。刺繍が止まった時刻、試した糸と針、鑑定盤の表示。細かな字と矢印が、数枚の紙へ増殖していた。
リィナは隣の席で一枚目を持ち上げ、金茶色の目を細める。神殿で汚れた外出着から普段着へ着替えており、袖を肘までまくっていた。木剣は机へ届かない壁際に置かれている。エナがそうさせたらしい。
「これ、全部昨日からのこと?」
「証言と僕の記憶を分けてある」
「リィナに殴られた回数、も?」
「能力発動と衝撃が無関係だと確認するため」
「もう一回殴れば確実になる?」
「その検証は不要です」
リィナが拳を上げると、レイルは報告書を盾にした。紙を傷めるなとエナに叱られ、二人そろって手を下ろす。
バルドは仕事場から、「刺繍」「鑑定」と彫った小さな板を持ってきた。
「順番を並べろ」
父は椅子へ座らず、机の横へ立ったまま腕を組む。焦げ茶色の短髪には仕事場の木粉が残り、太い指の爪へ白い削り屑が入り込んでいた。
レイルは板の「刺繍」を指す。
「最初に止まったのは母さんの最後の結び目。その時、僕の小説は『扉を開けた』まで勝手に進んだ」
「次は?」
「鑑定盤が僕の固有スキルを表示しようとした。その直後に刺繍が完成して、鑑定が止まった」
「二つが同時に止まった時間は?」
「たぶん、ない」
口にした瞬間、レイルは羽根ペンを走らせた。
【仮説一:終わらなくできる対象は、同時に一つだけ】
「まだ仮説だよ」
「間違いを見つけるために書くんだ」
前世では、誤りを見られるのが怖くて下書きを出せなかった。今は家族の前で、間違っているかもしれない考えを形にしている。完成ではなくても、前へ進む途中経過だった。
「二つ目」
レイルは鑑定盤へ触れた右手を見つめた。
「止まるのは、始まっていない物じゃない。母さんは結び目を作りかけていた。鑑定盤も文字を書き始めていた」
「作りかけなら、父さんの仕事場には山ほどあるぞ」
「でも全部は止まってない。もうすぐ終わる物だけかもしれない」
【仮説二:すでに始まり、完成直前にある物だけが止まる】
バルドが低く唸った。
「レイル、祭礼布が止まる前、お前は何をしていた?」
「僕は......小説を書こうとしてた。最後の一文を......書くのが怖かった」
「鑑定の時は?」
「何が出るか、とても怖かった。悪いものだと決まったら、母さんの仕事を壊した理由まで決まると思ったんだ」
羽根ペンの先が紙の上で止まる。
恐れたものの完成が止まる。そう考えれば、あまりにも自分らしい力だった。
「――僕が、終わるのを怖がったから?」
部屋に響く金槌の音が、一度遠くなったように感じた。
エナは祭礼布から目を上げた。緑色の瞳には疲れがある。それでも息子の痛みを消すための嘘は言わなかった。
「そうかもしれないわね」
「やっぱり、僕が――」
「でも、怖いと思っただけで、こんなことが起きると知っていたの?」
「知らなかった」
「なら、知った後にどうするかを考えましょう。怖がった自分を責め続けても、次の仕事は守れないわ」
エナは傷ついた右手を隠さず、机の上へ置いた。
「私の指が痛いことも、町への納品が遅れたことも事実よ。あなたが怖かったことも事実。どちらかを消して、片方だけ正しいことにはしないで」
レイルは母の指先を見つめた。細い指には古い針傷がいくつもあり、昨日できた新しい傷だけが赤い。彼を庇うために隠された手ではない。起きたことを一緒に見るため、今は目の前へ出されている。
「......うん」
レイルは三つ目の仮説を書こうとして、羽根ペンを止めた。
「何?」
「今の鑑定儀式は、中断されてる。終わってはいないけど、もう続きを行う道具が外されてる」
「それがどうしたの?」
「もし止めている力が鑑定へ残ったままなら、僕の近くの別の物は普通に完成できるはずだ」
リィナは机の上を見回した。
「じゃあ、何か完成させてみる?」
「高価な物と食べ物と火は駄目だ。契約も――」
「もう! レイルの悪いクセだよ。 一回目から全部調べようとしない!」
リィナは報告書の裏紙を折り始めた。
「待て。それは記録の三枚目」
「裏は白い。紙一枚で村は滅びない!」
リィナの指が最後の折り目をつける。
紙の小舟は、何事もなく完成したのだ。
二人は同時に黙り込んだ。
「あれ......できた」
「うん、できたね」
「僕の近くでも、物は完成できる」
「全部が終わらなくなるわけじゃないんだ――」
安堵が胸へ広がりかけ、レイルはすぐに首を振った。
「でも、次に何が止まるかは選べない」
「レイル。今、一回だけ安心してから、次を心配して」
リィナは完成した小舟を彼の頭へちょこんと載せた。灰褐色の寝癖の上で、白い船が傾く。
「ぷぷ、よく似合うよ」
「帽子としての耐久性がない」
「昨日の鍋よりは軽いでしょ?」
「木剣への防御力は下がる」
「じゃあ試そっか?」
「試さなくていい!!」
あはは、とエナがようやく声を立てて笑った。バルドも口元をわずかに緩めたが、すぐ仕事の顔へ戻る。
「実験はここまでだ」
「まだ仮説三が――」
「神官が来るまで、お前は完成間近の仕事へ近づくな。一人で試すな。お父さんたちも調べるから」
バルドの太い指が、机の板を一度叩いた。
「それと、始めた報告書は今日中に終わらせろ」
「分かってる」
「昨日、お前が自分で言ったよな?」
「うん、覚えてる」
父が仕事場へ戻り、母も町への手紙を書き始めた。リィナは完成した小舟を指で滑らせ、机の木目を川に見立てて遊んでいる。
レイルは報告書へ向き直った。
仮説の下へ、紙の小舟が完成した事実を記す。結果を美しくまとめず、分からない部分は分からないまま残した。最後に日付と自分の名前を書き、羽根ペンを置く。
報告書は無事、完成した。何も止まらなかった。
胸の中には、遠くの神殿へ伸びているような細い圧力がまだ残っている。鑑定儀式が、解体された後も終わろうとしているのかもしれない。
少なくとも今は、一つだけだ。
レイルはその考えを、確定ではなく新しい仮説として書き足した。
【仮説三:この力が完成を止められるのは、一度に一つだけ】
文字を書き終えると、リィナが横から覗き込んだ。赤栗色の髪がレイルの頬へ触れ、彼の鼻先をかすめる。
「リィナ!――近いって」
「だって読めないから。これも仮説確認!」
「何の?」
「女の子に近づかれると、レイルが固まる仮説」
レイルは椅子ごと離れ、床の溝へ脚を取られてこけた。リィナが腹を抱えて笑う。
「あははは! 確認できた!」
「違う! 床の構造上の問題だ!」
レイルは言い返そうとして、机の隅に置いた原稿へ目を止めた。
『名もなき勇者の帰還』。
勇者は扉を開けたまま、まだ最後の言葉を言っていない。
自分が本当に終わらせたいと思いながら、終えることを怖がっている物語。今回の現象と、あまりにもよく似ている。
革紐へ手を伸ばしたところで、胸の圧力がわずかに強くなった。
レイルの指が止まる。
「どうしたの?」
「......この原稿、もしかしたら」
捨てるべきなのか。それとも、決して捨ててはいけないのか。
まだ彼の中で、その答えは出なかった。
レイルたちは「同時に止まるのは一件だけ」という仮説へ到達しました。
ただし現在の保持対象や、対象が成立しなくなった時の挙動までは判明していません。
次回以降、自作小説を捨てようとしたことで、父バルドの仕事へ新たな異常が発生します。




