第5話 三時間目の閉式 ――神官はまだ「以上」と言えない――
鑑定盤は、レイルの固有スキル名を最後まで表示できませんでした。
儀式を終えれば帰れるはずですが、その「終える」という行為まで完成しません。
厳粛な神殿で始まる、笑えないのに少しだけ笑ってしまう三時間です。
「では、鑑定結果は後日あらためて調査するとして――これをもって、本日の儀式を閉じ......」
アウレリオの声が止まった。
言葉を忘れたわけではない。喉を押さえて苦しんでいる様子もなく、唇は最後の音を作ろうと動いている。それでも「閉じる」と言い終える直前で、息だけが抜けた。
祭壇を囲む四本の蝋燭は燃え続け、鑑定盤の金線は細かく震えている。レイルは円の中央に立ったまま、両足の感覚が薄くなるのを感じていた。
「もう一度行う」
アウレリオは神官衣の袖をまくり、聖典を最初から開き直した。額へ薄く汗が浮かんでいる。
「始まりし環は歩みを得て、歩みし環は結びを得る。ここに示された魂の形を記録し、本人と家族へ伝え、今日の鑑定を――」
再び声が止まった。
「終えられない?」
「その言葉を先に言うな、レイル」
「事実確認です」
「確認されると神官として少し傷つくのだ」
アウレリオは祭壇脇の窓へ目を向けた。そこから見える東の街道は、麦畑の向こうで細く曲がり、半日先のハルツへ続いている。
「このまま閉式できなければ、ハルツの地方神殿へ早馬を出す。エルデ村の神殿は、あちらの管轄だからな」
「返事が来るまで、どれくらい?」
「最短でも一日だ」
「一日ここに立つの?」
「だから今、別の方法を考えている」
リィナが床へ座り込み、木剣を膝へ載せた。
「一日なら、お昼ごはんと夕ごはんと朝ごはんがいるよ」
「お前は救援物資の心配が早すぎる」
「レイルは何も食べないと、考え方がもっと面倒になるもん」
「平常時より悪化する前提なの?」
「平常時から十分面倒だよ」
アウレリオは疲れた顔で聖典を開き直した。
「早馬を出すかどうかは、次の簡略閉式が失敗してから決める。まずは三度鳴らす方式を試すぞ」
祭壇の外では、バルドが腕を組み、エナが完成した祭礼布を膝へ置いていた。リィナだけは最初の十分で床へ座り込み、木剣を抱えて頬を膨らませている。
「ねぇ、お腹すいたんだけど」
「朝ご飯は食べただろ、リィナ」
「鑑定って、こんなに長いと思わなかったもん」
「前世の小説では、鑑定だけで一話使う作品も珍しくなかった」
「ぜんせ? いちわ?」
「......前に読んだ話では、という意味だ」
「今の言い直し、変なのー」
レイルは自分で言って嫌になった。鑑定回だけ書き、本編へ入らず放置した前世の作品が何作もある。転生後、自分が鑑定の途中へ物理的に拘束されるとは思わなかった。
「神官様。途中で中断できませんか?」
「鑑定円が閉じていない。出れば何が起きるか分からん」
「分からない危険と、居続ける危険を比較する必要が――」
「六歳児に危険管理で詰められる神官の気持ちも入れてくれ」
アウレリオは祭壇脇の引き出しから、別の銀鈴を取り出した。
「通常の閉式が駄目なら、緊急時の簡略閉式を試す。三度鳴らし、最後に円環へ封をする」
澄んだ鈴の音が一度、二度と神殿へ響いた。
三度目。アウレリオが手首を振り下ろす。内部の舌が銀の内壁へ触れる寸前で、鈴は音を失った。動いている。触れているようにも見える。なのに、三度目の音だけが神殿へ生まれない。
「神官様」
「むう......言うな」
「鳴ってません」
「聞けば分かる」
「僕のせいかもしれません」
「それも分かってきた」
リィナが口元を押さえ、肩を震わせた。
「笑うところじゃない」
「笑ってない」
「じゃあ顔を見せて」
「今は無理だもん!」
昨日の母と同じ逃げ方だった。
アウレリオは鈴を机へ置き、両手で顔を覆った。指の間から灰緑色の瞳だけを覗かせる。
「レイル。お前の固有律が何であれ、少なくとも神官の威厳を削る効果はあるようだ」
「生活級ですか?」
「分類するなら精神攻撃だ」
「戦術級?」
「嬉しそうにするな、こら」
最初の一時間で、通常閉式を四回。簡略閉式を二回。鑑定盤から魔力を抜く方法を三回試した。どれも最後の工程で止まった。
二時間目には、村の子どもが窓の外へ集まり始めた。祭礼準備へ向かう途中で、アルヴァート家が神殿から出てこないと気づいたらしい。
「レイル、何のスキルだったー?」
「まだ分からない! 儀式が終わらないんだよ!」
「終わらないのがスキルなの?」
「今それを調べてもらってる!」
窓越しの会話へ、アウレリオが振り返った。
「君たちは祭礼の準備へ戻りなさい! これは見世物ではない!」
今度は最後まで言えた。窓の外の子どもたちが、なぜか歓声を上げる。
「神官様、普通の話は終わった!」
「すげえ!」
「そこは喜ぶとこじゃない! 儀式だけが終わらないのだ!」
アウレリオは言い切ってから、自分で説明してしまったことへ気づき、ひどく複雑な顔をした。
三時間目に入る頃、レイルの足は完全に痺れていた。リィナが祭壇の境界ぎりぎりまで寄り、円の外から彼の袖をつまむ。
「倒れそう?」
「右足の感覚がないだけだ」
「それ、大丈夫って言わない。私につかまる?」
「境界を越えたら、リィナまで鑑定対象になるかもしれない」
「将来の家族なら、立会人として入っていいんじゃない?」
「将来の家族になる予定があるの?」
「昨日からあんたが勝手に言ってるんでしょ」
「では検討事項として正式に――」
「ばかあああああああああ!」
神殿の中なので、木剣の代わりに丸めた布巾が飛んできた。レイルの額へ当たり、床へ落ちる。
エナは祭礼布へ顔を伏せ、バルドは壁の方を向いた。アウレリオだけが真剣な表情を保っていたが、口元の筋肉がわずかに震えている。
「神官様まで笑わないでください」
「笑っていない。三時間の疲労で顔が痙攣しているだけだ」
それでも、笑いが消えると神殿には別の重さが戻った。
アウレリオは鑑定盤の文字を羊皮紙へ写し取った。筆を持つ横顔は、先ほどまでより厳しい。文字が途中で切れていることを誤魔化さず、見たままの形を一画ずつ記録していく。
「レイル。母親の刺繍が完成した時、何を感じた?」
「胸の中の糸が、鑑定盤へつなぎ替えられたように感じました」
「刺繍が完成する前から、同じ感覚はあったか?」
「ありました。母さんが糸を結ぼうとするたび、引っ張られていました」
「今は?」
「鑑定盤が続きを書こうとするたび、押されます。焦っているみたいな......何度も終わろうとしてる感じです」
アウレリオは筆を止めた。
「物の声が聞こえるわけではないのだな」
「声じゃありません。でも、終わりたがっているのは分かる」
透明な石板の金線が、また最後の一画へ届こうと震えた。完成へ向けて注がれた力が消えず、内側へ溜まり続けているように見える。
「儀式を続けるほど、鑑定盤へ負荷がかかる」
アウレリオは決断すると、聖典を閉じて紐で縛った。次に鑑定盤へつながる四本の金具を、一本ずつ祭壇から外していく。
「閉式ではなく、中断する。儀式を完成させないまま、構造そのものを解く」
「危険では?」
「危険だ。だが、完成できない儀式を完成させようとし続けるよりはましだ」
「成功率は?」
「今から計算する暇はない」
「では、最悪の場合――」
「レイル」
アウレリオの声が、低くなる。
「心配するなとは言わない。だが、今ここで決断するのは大人である私の役目だ。お前は立っていろ」
それは優しい慰めではなかった。責任を引き受ける大人の声だった。
レイルは口を閉じ、祭壇の中央で拳を握る。
四本目の金具が外れた瞬間、鑑定盤の光が消えた。蝋燭の炎も普通の向きへ戻る。床の円環は閉じず、途中で途切れた線のまま残った。
儀式は終わっていない。
けれど、これ以上続けることもできなくなった。
「円から出ていい」
アウレリオの許可を聞き、レイルは一歩踏み出した。痺れた右足がもつれ、前へ倒れかける。
リィナが境界を飛び越え、胸元で受け止めた。
「ほら、大丈夫じゃなかった」
「想定より足の回復が遅かっただけだ」
「言い訳は立ってから」
「リィナ、近いって」
「落とすよ?」
「すいません、安全確保を優先してください」
レイルは素直に彼女の肩へつかまった。赤栗色の髪から、外の風と干した草の匂いがした。
アウレリオは二人を見て一度だけ息を吐き、記録用の羊皮紙へ最後の一文を書き足す。
【鑑定儀式:完了せず。緊急中断】
その下へ、さらに記した。
【危険性あり。ただし本人も現象の被害者であり、悪魔性は断定できない】
「神官様」
「何だ」
「僕は、危険な子どもですか?」
アウレリオは筆先のインクを布で拭い、レイルをまっすぐ見た。
「危険な固有律を持っている可能性は高い」
神官は、そこで言葉を切らなかった。
「だが、それとお前が悪い子かどうかは別の話だ。それらを混ぜて考えるな」「決してな」
羊皮紙の端で、まだ乾いていない黒い文字が光っている。
レイルは初めて、自分を庇う言葉が、責任から逃がす言葉とは限らないのだと知った。
神殿の儀式は完成せず、構造を解体する「緊急中断」で切り上げられました。
アウレリオは危険性を認めながら、レイル本人まで悪と断定しない立場を取ります。
次回、完成した刺繍と未完の鑑定を並べ、現象の共通点を家族で検証します。




