第9話 失敗作と未完成品は違う ――安全装置にならない物たち――
完成しない椅子から力を移すには、別の完成直前が必要です。
父バルドは安全な未完成品を作り、レイルは条件を一つずつ確かめます。
けれど世界は、「脚が足りない椅子」と「いつか終わらせたい物語」を同じものとは扱いません。
バルドが作った安全用の未完成品は、全部で七つあった。
脚が三本しかない腰掛け。蓋のない箱。取っ手のついていない木杯。片側だけ磨いていない皿。輪へ閉じていない木の腕輪。最後の一片をはめていない積み木。そして、背板のない椅子。
仕事場の棚へ並べられたそれらを見て、レイルはしばらく言葉を失った。
「父さん」
「何だ」
「安全装置を作るって言ってたよね」
「作った」
「これは、使えない物を七個増やしただけじゃない?」
「完成させていない」
「完成させる予定は?」
「お前の力が止まった時にでも考える」
「それは未完成品じゃない。用途を決めずに作業を止めた失敗作だ」
バルドの眉がぴくりと動いた。
「六歳の息子に、仕事を失敗作と言われる日が来るとは思わなかった」
「父さんがいつも言ってるだろ。失敗作と未完成品は違うって」
「ああ、言ったな」
「未完成品は、完成までの道が残ってる。これは、完成させたら安全装置じゃなくなるし、完成させないなら何のために作ったか分からない」
「では、お前なら何を作る」
「それを今から考える」
「作ってから父さんを批評しなさい」
「作る前に考えるのが大事なんだよ!」
エナは仕事机の脇で刺繍糸を仕分けながら、夫と息子のやり取りへ笑みを浮かべていた。若草色の肩掛けには小さな白い花が縫われ、栗色の髪はいつものように緩く編まれている。右手の傷を休めるため針は持たず、今日は左手だけで糸束を色ごとに分けていた。
「バルド。取っ手のない木杯は、匙入れとして使えそうよ」
「杯として作った」
「蓋のない箱は、糸入れにできるわ」
「蓋をつける予定だった」
「背板のない椅子は?」
「腰掛けだ」
「最初の三本脚も腰掛けだよ」とレイルが言った。
「......父さんにも限界はある」
昨日に続いて同じ台詞が出たため、リィナが床へ転がって笑った。
彼女は赤栗色の髪を二つに分け、低い位置で結んでいる。エナに「実験中に髪が道具へ絡まないように」と整えられたのだが、本人は鏡を何度も見ていた。
「笑うな。お前にも手伝わせるぞ」
「いいよ。私は木剣の最後の一振りを止める実験がしたい」
「却下!」
「まだ父さんは何も言ってない」
「僕が却下した!」
「自分で対象を選べないのに?」
「選べないからこそ、頭へ当たった場合の危険を避けるんだ!」
「当たる前に止まるかもしれないよ」
「止まらなかったらいつもどおり当たるだろ! ......痛いんだよ!」
「いつもどおりなら大丈夫じゃん」
「いつもどおり殴られる前提を受け入れると思うな!」
アウレリオは仕事場の隅に置いた丸椅子へ座り、七つの未完成品と、縄で固定された問題の椅子を記録していた。白い神官衣の袖を肘までまくり、麦色の髪を指で掻き上げている。
「子どもの木剣より、まず物で試す。バルド、一つずつ完成直前まで進められるか」
「できる」
「レイルは離れて見ろ。胸の感覚が変わったら即座に言う。完成を怖がろうと意識する必要はない」
「怖がらなければ、何も起きないかもしれない」
「それでいい。起きない条件を知るのも調査だ」
最初は木の腕輪だった。
切れ目へ最後の一片をはめれば環になる。バルドが一片を指先で押し込み、あとわずかで閉じる位置まで進める。
胸の圧力は、椅子から動かなかった。
「何も感じない」
「完成するのが怖いか」とアウレリオが尋ねる。
「怖くない。腕輪が完成しても、誰も困らない」
「では、怖いふりをしてみろ」
「それで発動したら、僕の演技力が高すぎることになる」
「いいからやれ」
レイルは腕輪を睨み、両手で頬を押さえた。
「恐ろしい。環が閉じたら、世界が終わるかもしれない」
「棒読み」とリィナが言った。
「六歳の子どもが世界の終わりを語ると、余計に嘘っぽいな」とアウレリオが続ける。
「真面目にやってる!」
「顔が真面目なだけだよ」
「怖がる演技へ、どんな表情を求めてるんだ!」
腕輪は普通に完成した。
二つ目は積み木。最後の一片をはめると、小さな家になる。
「この家が完成したら、リィナが住む場所を失うかもしれない」
「私の家、もっと大きいよ」
「想像上の危険へ現実の反論をするな」
「レイルが言ったんでしょ!」
積み木も何事もなく完成した。
三つ目、蓋のない箱。
「完成したら、中へリィナを入れて運べる」
「入らない!」
「小さく切り分ければ――」
「ばかあああああああああ!」
木剣の柄がレイルの肩へ落ち、箱は何事もなく完成した。
「今の台詞は、将来の婚約候補へ言う言葉ではない」とアウレリオが呆れる。
「冗談です。箱の容量から、リィナが入らないことは分かってます」
「容量の問題じゃない!」
「では、何の問題?」
「全部だよ!」
七つすべてを完成させても、胸の圧力は椅子から移らなかった。
バルドは完成品になった道具を棚へ戻し、腕を組んだ。
「作り始めた。完成直前まで進めた。レイルも完成条件を理解している。それでも移らん」
「足りないのは、僕の恐れだと思う」
「演技では駄目だった」
「本当に失敗したくない物じゃないと、僕は完成を怖がれない」
リィナが革鞄を指差した。
「だから原稿でしょ」
「簡単に言うな。今、あの物語へ力を移したら、最後まで書けなくなるかもしれない」
「今も書けてないじゃん」
「僕の意思で書かないことと、能力で書けなくなることは違う」
「どっちも、待ってる子から見たらおんなじだよ」
レイルの言葉が止まった。
リィナは壁へ立てた木剣を取らず、床へ座ったまま原稿の入った革鞄を見る。
「――また新しい話を書くの?」
「安全装置にするだけなら、新しい話でも――」
「前の勇者は、まだ帰れてないんじゃない?」
「うんそうだ......帰ってない」
「新しい勇者を出したら、前の勇者を待ってる子はどうなるの」
「いやいや、ただの物語の登場人物だよ」
「レイルが書いたんでしょ。だったら、レイルが帰してあげないと駄目じゃん」
「最後が失敗したら?」
「直せばいい」
「完成した後は直せないかもしれない」
「紙なんだから書き直せるってば」
「最初に読んだ印象は戻らない。つまらない話だって決まったら、読んでくれた人の時間を無駄にする」
「私は、最後まで読めない時間の方が無駄だと思う」
リィナの声は強かったが、怒鳴ってはいなかった。
「途中が面白くても、ずっと待つだけなのは嫌だよ。レイルが『もう少し』って言うたび、いつになるか分からないのも嫌。失敗してもいいから、帰ってきてほしいって思う子もいるんじゃない?」
胸のどこかへ、知らない痛みが走った。
前世の記憶にある女性も、同じことを思っていたのだろうか。完成した作品を待っていたのではなく、言葉を返す自分を待っていたのかもしれない。
けれど、今のリィナはその人ではない。六歳の少女が、自分で読んだ物語の続きを求めているだけだ。
「リィナは、最後がつまらなくても読む?」
「読む。つまらなかったら、つまらないって思ったまま、言う」
「優しく言う気は?」
「どこが駄目か、ちゃんと言う」
「六歳の読者にしては厳しくない?」
「六歳の作者が書いてるんだから同じでしょ」
「中身はもう少し大人向けの構成なんだけど」
「じゃあ、私にも分かるように書いて?」
レイルは革鞄を開いた。
紙と乾いたインクの匂いが立つ。勇者が扉を開けた場面で止まった原稿は、昨日燃やしかけたとは思えないほど丁寧に束ねられている。
「使うなら、椅子の解放に備える」
アウレリオが立ち上がった。
「椅子へ蓄積した打撃と膠の乾燥が、一度に返る可能性がある。バルド、脚の正面へ誰も立たせるな。固定を二重にする。割れた木片を止める板も置け」
「分かった」
「エナとリィナは家の外へ」
「私も見る」とリィナが言う。
「危険だ」
「さっきレイルへ、何もできないのが嫌だって言った。外で待つだけも嫌」
「なら壁の裏だ。窓から見ろ。木剣は置いていけ」
「どうして?」
「驚いてレイルを殴ると、記録が増える」
「私、そんなにいつも殴ってない!」
「第6話時点で四回」とレイルが言った。
「話数で数えるな!」
準備に一刻近くかかった。
椅子は床の杭へ二重に固定され、問題の脚の先には厚い板が立てられた。バルドとアウレリオは壁の陰、エナとリィナは窓の外。レイルだけが机へ座り、原稿を開く。
羽根ペンを持つ指が震えた。
物語の最後は決まっている。
勇者は扉を開ける。待っていた少女が泣きながら笑う。勇者は帰るのが遅くなったことを謝り、「ただいま」と言う。
それだけだ。
それだけを書けば、物語は終わる。
「レイル」
窓の外からリィナの声がする。
「最後まで書かなくていいよ」
「安全装置にするなら、終わらせちゃ駄目なんじゃないの?」
「うん。でも、終わらせたいって思ったまま書いて。捨てるために止めるのは駄目」
その違いを、レイルはまだ説明できなかった。それでも羽根ペンを紙へ下ろす。
『扉の向こうでは、一人の少女が待っていた。』
一文を書く。
『勇者は何度も謝る言葉を考えた。魔王との戦いより、この一歩の方が恐ろしかった。』
胸へ椅子の圧力が押し寄せる。父の木槌、膠、完成したいという仕事の重み。そのすべてが、まだ椅子へつながっている。
『少女は、勇者が言葉を探している間も、何も言わず待っていた。』
次の一文が最後になる。――レイルの喉が乾いた。
失敗したらどうする。陳腐だと思われたら。ここまで読んだ時間を無駄にしたと言われたら。もっと良い終わりがあるかもしれない。今書かなければ、まだ考えられる。
羽根ペンが「た」と書く。
「だ」。
「い」。
最後の「ま」を書こうとした瞬間、胸の中で何かが外れた。
仕事場から、轟音が響く。
どんっ!
椅子の脚が、蓄積した二度の打撃と膠の収縮を一度に返されたように、枘穴の奥へ叩き込まれた。防護板へ木片が当たり、縄が軋む。
同時に、レイルの羽根ペンは紙へ触れているのに、最後の一画だけを残せなくなった。インクは出ている。手も動く。何度なぞっても、「ま」の最後の線が紙の上で途切れる。
「移った......」
椅子からの圧力が消えていた。
代わりに、原稿の中から、帰りたい勇者と、待っている少女と、自分自身の焦りが流れ込んでくる。
アウレリオとバルドが椅子を確認する。脚は奥まで入り、膠も一瞬で乾いていた。座面の裏へ細い亀裂が走っているが、椅子としては立っている。
「完成した」とバルドが言う。
「壊れかけてる」とレイルが返す。
「使える」
「蓄積がもっと多かったら割れてた」
「だから次からは試行を増やさん」
リィナが窓から身を乗り出す。
「原稿は?」
「最後の一文字が書けない」
「じゃあ成功?」
「人の小説が終わらなくなったのを成功って呼ぶな!」
「でも、椅子はできたよ」
「僕の話が犠牲になった」
「捨てるよりいいじゃん」
「良くない! 僕は本当に完成させたいんだ」
言い切ってから、レイルは自分の言葉に気づいた。
燃やそうとした時には、口にできなかった言葉だった。
完成させたい。
だからこそ、今の原稿は放棄ではなく、未完として力を受け止めている。
意図的に作った「使う予定のない未完成品」では、【未完】の保持先になりませんでした。
レイルが本当に完成させたい自作小説へ対象が移り、父の椅子には蓄積した打撃と膠の力がまとめて返っています。
次回、原稿を安全装置として使うための条件と、毎日続きを書く約束を家族で定めます。




