第10話 終わらせるために、終わらせない ――最初の読者との約束――
レイルの原稿は、父の椅子に代わる新しい未完対象となりました。
ただ放置すれば、安全装置ではなく、いつか再び「放棄」へ変わります。
終わらせないためではなく、いつか終わらせるために書き続ける――家族の新しい約束が始まります。
紆余曲折を経て、父の椅子は完成したが、その日のうちに納品はされなかった。
座面裏の亀裂がどこまで進んでいるか分からず、乾いた膠も正常な強度を持つか確認できない。バルドは椅子へ重石を載せ、三日間は荷重を増やしながら様子を見ると決めた。
「一度完成したから、もう未完成にはならないんだよね?」
リィナが椅子の周囲を回りながら尋ねる。今日の髪型は昨日の二つ結びのままだ。本人は「実験用」と言い張ったが、エナに結ってもらった形が気に入ったらしく、歩くたび赤栗色の毛先が楽しそうに揺れている。
「今までの例を見る限り、完成した出来事を、僕の力で途中へ戻すことはできないと思う」とレイルは答えた。
「じゃあ椅子が壊れたらどうなるの?」
「完成した椅子が壊れただけ。修理を始めれば、それは別の仕事になる」
「じゃあ、失敗した話を書き直すのも別の仕事かなあ?」
「改稿なら、完成した作品を直す作業になる。最初の完成が消えるわけじゃない」
「書き直せるじゃん」
「読んだ記憶は消えない」
「消さなくていいでしょ。前より面白くなったら、二回読めて得じゃない?」
「読者が全員、リィナみたいに単純ならいいけどなぁ......」
「今、わたしのこと馬鹿って言った??」
「前向きと言った」
「やっぱり、バカにしてる!」
リィナの手が木剣へ伸びる前に、エナが二人の間へ冊子を置いた。
生成りの布を二重に重ね、周囲を青い糸で縫った原稿用の包みだ。表面には、閉じ切らない小さな環と、一本の羽根が刺繍されている。
「原稿をそのまま革紐で持ち歩くと、雨や火の粉に弱いでしょう。余っていた布で作ってあげたわ」
「母さん、手は大丈夫?」
「細かい刺繍はまだ右手に響くから、環と羽根だけ。縫い合わせは左手でやったから」
「その手で僕のために仕事を増やさなくても――」
「これは仕事ではなく、家族の道具のための家事の一環よ。それに、あなたが毎日使う物なら、作った時間は無駄になりません」
エナの柔らかな栗色の髪は肩の後ろで一つにまとめられ、緑の瞳には昨日までより少し明るさが戻っていた。祭礼布の遅延を知らせる手紙は町へ送り、返事はまだない。それでも、止まったままではなく次の作業へ進んでいる。
レイルは布包みを受け取り、指先で環の切れ目をなぞった。
「閉じてない」
「完成していないからではないわ。そういう形で完成させたの」
「途中の環に見える」
「途中に見えても、私がここで終わりと決めたなら完成品よ」
同じ形でも、完成か未完成かは外見だけで決まらない。
誰が何を作ろうとし、どこを終わりと定めたか。その意思と目的が必要になる。
「だから父さんの脚三本の椅子も、最初から三本で座れるよう設計すれば完成品だったのか......」
「今ごろ気づいたか」とバルドが言う。
「父さんは四本脚を作ろうとして三本で止めたから失敗作だった」
「余計な一言をつけるな」
「事実確認だよ」
「お前の事実確認は、人をイラだたせる」
バルドは仕事台へ大きな革鞄を置いた。暗褐色の厚い革で作られ、肩紐は六歳の身体に合わせて短く調整されている。留め具には木製の小さな板がつき、開閉回数を記録できるよう刻みが入っていた。
「父さんも手伝って作ったの?」
「布だけでは雨を防げん。背負えば両手も空くだろう」
「重いよ」
「紙を増やせば、もっと重くなる」
「持てなくなる前に、容量の大きい鞄へ替える必要がありそう」
「まず今の話を終わらせる努力をしろ」
「終わらせたら、力が別へ移るかもしれないし」
「だから、どうするかを今から決める」
家族四人とアウレリオは、食卓を囲んだ。
机の中央には、自作小説、完成した紙の小舟、アウレリオの記録、そしてレイルが作った「安全運用案」が並んでいる。安全運用案だけで八枚あった。
アウレリオは一枚目を読み、二枚目を読み、三枚目で額を押さえた。
「レイル。要点を言え」
「原稿が焼失、水没、盗難、第三者による完成、文字の意味が読めなくなるほどの破損を受けた場合に備えて――」
「要点だ」
「原稿を守る」
「一行で済んだな」
「でも、守り方が百三十七項目ある」
「六歳の子どもが持ち歩く紙束へ、王国の宝物庫と同じ警備を要求するな」
「盗まれた場合、村全体へ被害が出るかもしれない」
「誰が六歳児の小説を盗むの?」とリィナが言う。
「価値がないと判断されれば、焚きつけに使われる可能性があるだろ?」
「自分の話をそこまで悪く言わなくてもいいじゃん......」
「価値と危険性は分けて考える必要がある」
「じゃあ、私が盗むかなあ」
「ええ! なぜ!?」
「毎日読ませてくれなかったら、鞄ごと持って帰っちゃう」
「脅迫行為への安全対策を追加しないと」
「追 加 す る な」とアウレリオとバルドの声が重なった。
エナは八枚の紙を一枚ずつ並べ替え、重複する項目へ細い線を引いた。
「まず、原稿を守ること。次に、毎日続きを書くこと。これだけでは足りないかしら」
「ただ文字を増やせばいいわけじゃない」とレイルは言う。
「なぜ分かる」
「分かってない。でも、意味のない言葉を増やして終わりを遠ざけるだけなら、僕自身が完成させようとしていない。昨日の父さんの未完成品と同じになる」
「つまり、水増しは駄目?」とリィナが尋ねる。
「物語が少しでも結末へ進んでいないと、僕の中で『書いている』ことにならないと思う」
「レイル、前の話で似た場面を何回も書いてなかった?」
「前世の作品では、説明を変えて繰り返したこともある」
「それ、水増し?」
「今思えば」
「駄目じゃん」
「今、反省してる!」
アウレリオは記録へ書き込みながら尋ねた。
「原稿が保持対象である間、続きを書くことはできるのだな」
「できます。最後の一工程だけが止まっているなら、その前の部分は進められる。昨日も三文書けた」
「では、何をもって最後とする」
「物語として、勇者が帰って『ただいま』を言い、待っていた少女が答えるところまで」
「その後へ新しい事件を足せば、いつまでも終わらずに済む」とバルドが言った。
「できる。でも、それを安全装置のためだけに続けたら、終わらせたい話じゃなくなる」
「どこで判断する」
「僕が、自分に嘘をついてるかどうか」
「一番信用しにくい判定だな」とアウレリオが言う。
「神官様まで!」
「昨日、原稿を燃やすことを責任と呼んだのは誰だ」
「僕です」
「なら、一人で判定させるわけにはいかん」
リィナが勢いよく手を挙げた。
「私が読む!」
「何を?」
「毎日書いた分。話が進んでるか、同じことを繰り返してないか、ちゃんと最後へ向かってるか見る」
「リィナに構成が分かるの?」
「分からなかったら、分からないって言う。それをレイルが説明してよ」
「説明して理解できない場合は?」
「書き方か、書き手、つまりアンタが悪い」
「全部僕の責任になる仕組みじゃないか!」
「そりゃそうでしょ。アンタ、作者でしょ?」
「正しいけど腹が立つなあ!」
リィナは机へ身を乗り出した。金茶色の瞳がまっすぐレイルを見る。
「私、最初から読んでるんだから、最後まで読むよ。レイルが途中で新しい話へ逃げようとしたら、前の勇者を帰してからにしろって言う」
「毎日だと、リィナも大変だろ」
「木剣の稽古の後に来るからへーき」
「雨の日は?」
「来るよ」
「風邪を引いたら?」
「レイルが持ってきて。お見舞いついでに」
「村の外へ行ったら?」
「帰った時にまとめて読む」
「一生終わらなかったら?」
何気なく出た問いに、食卓が一瞬静かになった。
リィナは少し考え、頬杖をつく。
「その時は、ずっと読みつづける」
六歳の約束だ。明日には忘れるかもしれない。大人になれば、互いに別の場所で生きるかもしれない。
それでもレイルの顔が熱くなった。
「それは、将来の生活を長期的に共有するという意味で――」
「難しい言葉にしないで」
「毎日会うなら、婚約に近い運用になる」
リィナの顔も一気に赤くなった。
「もう、レイルのばかああああああああああああああああああ!」
拳が飛ぶ前に、エナがリィナの手首を優しくつかんだ。
「今日は原稿の近くで暴れないこと」
「でも、レイルが!」
「レイルも、女の子の約束を勝手に婚約までもってかないの」
「完成の解釈には当事者双方の合意が必要?」
「お前、そういうところだぞ、レイル」
バルドは深く息を吐き、革鞄をレイルの前へ押した。
「毎日一頁」
「一頁に必要な文字数は?」
「お前が決めろ」
「少なすぎれば進んだことにならない。多すぎると体調が悪い日に――」
「一頁だ」
「挿絵だけでも?」
「話を進めろ」
「会話だけの頁は?」
「リィナが読むだろ」
「私がつまらなかったら書き直させる」
「読者権限が強すぎない?」
「逃げないための管理者が必要なんでしょ」
アウレリオが、羊皮紙へ三つの条件を書いた。
【一、原稿を失わない】
【二、物語を結末へ向けて書き続ける】
【三、完成させる意思を捨てない】
「これは正式な教会規則ではない。今の仮説に基づく家族の運用だ。間違いが見つかれば直す」
「間違ってから直して、間に合いますか」
「間に合わせるために、全員で見る。お前一人の不安だけで規則を増やすな」
「でも、夜中に原稿が濡れた場合の連絡手段は――」
「夜は鞄をお前の寝床の横へ置く。火は使わない。水差しは反対側。これで十分だ」とバルドが言った。
「盗賊が入った場合は?」
「盗賊より先に父さんが起きる」
「父さんが眠っていたら?」
「母さんが起こす」
「母さんも眠っていたら?」
「リィナを呼べ」
「私は自分の家で寝てるよ!」
「じゃあ、窓へ小石を投げる」
「夜中に!?」
「盗賊が来てるなら起きて!」
議論は夕方まで続いた。
最終的に、レイルの百三十七項目は十二項目まで削られた。それでもアウレリオは「多い」と言い、バルドは「これ以上削ると本人が眠れん」と妥協した。
日が沈む前、レイルは新しい革鞄を肩へ掛けた。小柄な身体にはまだ少し大きく、原稿を入れると鞄の底が腰へ当たる。それでも両手が空き、走っても紙束が胸から落ちない。
机へ座り、昨日書けなかった最後の「ま」を試す。
やはり、最後の一画だけが紙へ残らない。
ならば物語を無理に終えるのではなく、その直前までを丁寧に書く。
レイルは失敗した一文の下へ、新しい段落を始めた。
『勇者は、少女へ言わなければならないことが多すぎると気づいた。』
謝罪。旅の話。待たせた時間。帰れなかった理由。
「ただいま」の前に、書くべきことはまだあった。
『だから勇者は、格好のよい最後の言葉を探すことをやめた。まず、遅くなったことを謝ろうと決めた。』
原稿から流れ込む焦りが、ほんの少しだけ和らいだ。
物語は完成しない。
けれど、昨日よりは結末へ近づいている。
「今日の一頁、終わった――」
レイルが声をかけると、床で木剣の手入れをしていたリィナがすぐに立ち上がった。
「読ませて」
「まだインクが乾いてない」
「じゃあ待つ」
「触ると汚れる」
「もう。待つって言ってるでしょ」
「リィナが待つの、珍しい」
「レイルの“もう少し”より、私の待つは短いから」
なぜか、その言い方だけが胸へ残った。
インクが乾くまでの短い時間、リィナは隣の椅子へ座り、足を揺らしている。レイルは原稿の端を指でなぞりながら、初めてその待ち時間から逃げなかった。
いつか、この物語は終わらせる。
それまでは、終わらせるために書き続ける。
自作小説を安全装置として成立させるため、「守る」「書き続ける」「完成させる意思を捨てない」という暫定条件を定めました。
レイルはまだ対象を意図的に選べず、任意解除もできません。原稿が安全装置となったのは、本人が本当に完成を望み、同時に完成を恐れているためです。
第11話以降、原稿を持ち歩く最初の日常と、村へ危険性を伝える問題へ進みます。




