第11話 原稿を背負って歩く日 ――ただの買い物、危険物輸送――
原稿を”未完”の安全装置にした翌朝、レイルは初めて革鞄を背負って村へ出ます。
目的は塩と灯油を買うだけ。けれど完成間近の仕事が並ぶ村道は、彼にとって罠だらけでした。
事故を起こさなかった一日は、本当に安全だったと言えるのでしょうか。
翌朝、レイルは家を出るまでに、なんと実に四十七分もかかった。
暗い灰褐色の髪は寝癖のまま左右へ跳ね、青灰色の瞳の下には、昨夜遅くまで原稿を読み返した薄い隈が浮かんでいる。小柄な背中には父バルドが作った暗褐色の革鞄。中には布包みで守られた『名もなき勇者の帰還』自作小説と、予備の紙、羽根ペン、木炭、乾いた布、蝋を引いた革袋が隙間なく収められていた。
どう考えても、買い物へ行く子どもの荷物のそれではない。
「レイル......塩と灯油を買いに行くだけよ?」
玄関で待っていたエナが、柔らかな栗色の髪を耳へ掛けながら言った。淡い色のワンピースの袖口には、朝の仕事で使った青い糸が一本ついている。祭礼布の事故以来、細かい刺繍を続けると右手が痛むらしく、今日は針を持つ指へ薄い布を巻いていた。
「母さん、分かってるよ。でも、途中で雨が降る可能性がある。鞄が濡れた場合は外側の革袋を使って、転倒した場合は身体より先に原稿を――」
「だーめ! 自分の身体を先に守りなさい」
「僕が怪我をしても治療できるけど、原稿が読めなくなったら村の何かが止まるかもしれない」
「あなたが頭を打って意識を失った時に何が起きるか、まだ分かっていないでしょう。原稿も大切。でも、あなたを袋の中身より後回しにはしません」
「じゃあ、頭部保護用の鍋を――」
「だめ。持っていかない」
「一度も使わせてもらえない装備は、装備と呼べるのかな」
「鍋は装備でなく、我が家の調理器具です!」
エナは譲らなかった。レイルが革鞄の留め具を三度確認したところで、外から木剣が扉を叩く軽い音がした。
「レイルー! 準備まだー?」
「予定出発時刻まで二分あるだろ!」
「私、もう十分前から待ってるんですけど!」
「早く来た人の待ち時間を、僕の遅刻へ加算しないでくれますか?!」
扉を開けると、リィナが腰へ手を当てて立っていた。赤みのある栗色の髪は高い位置で一つに結ばれ、金茶色の瞳が朝日に透けている。短い木剣を腰へ差し、膝の擦り傷を隠す気もない。健康的に日焼けした頬は、待たされた不満で少し膨らんでいた。
「今日は買い物だけなのに、何をそんなに持ってるの?」
「原稿、防水用布、予備の防水布、麻紐、傷薬、飲み水、乾燥パン、帰れなくなった場合の――」
「はぁ!? 村の中だよ?」
「村の中で帰れなくならない根拠はあるのか?」
「いや、家、あそこに見えてるよ?」
「見えている家へ必ず戻れるとは限らない。道が塞がる、怪我をする、魔物が入る、急な避難命令が出る、原稿を狙う者が――」
「六歳の子の小説を狙う人、まだ心配してるの?」
「価値が低いからこそ、焚きつけにされる危険がある」
「自分の持ち物なのに、被害妄想ひどくない?」
「作品への評価と、危険管理は別だろ」
リィナはレイルの鞄を持ち上げようとして、予想以上の重さに腕を落とした。
「なにこれ重ぉぉっ! これ背負って転んだら、原稿より先にレイルがつぶれるじゃん!」
「だから転倒時の姿勢を練習した」
「何回?」
「三十二回」
「ええええっ!? 昨日の夜に!?」
「途中から父さんが寝ろと言ったので、予定の五十回には届かなかった」
「いやもう、それアンタ病気だよ、それ」
前世で準備を理由に本番へ進まなかった男は、今世では準備を終えないまま本番へ出ることを恐れている。違うようで、根は近い。レイル自身もそれを分かっていたが、分かっているから減らせるほど不安は素直ではなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
エナから銅貨を受け取り、二人は村道へ出た。
朝のエルデ村には、焼き始めたパンの香りと、削ったばかりの木の匂いが混じっている。ラウゼン王国の片隅にあるこの村は、最寄りの町ハルツへ続く街道と、魔物の棲むグラウ森林から下りてくる風の間で、刺繍と木工と冬用の保存パンを作りながら暮らしてきた。
屋根の低い家々の間には祭礼へ向けた飾り縄が張られ、広場では職人たちが仮設の舞台を組んでいる。金槌の音、桶へ水を汲む音、家畜の鳴き声。昨日までなら当たり前だった生活音の一つ一つが、今日は『完成へ近づく作業』としてレイルの目へ飛び込んだ。
パン屋の前では、恰幅のよい女主人が焼き上がった丸パンを籠へ移している。道具屋では老人が灯油壺の栓へ最後の蝋を塗っていた。井戸端では、縄の切れた水桶へ新しい結び目を作ろうとしている。
どれも最後まで終わってほしい。レイルがそう願った途端、近づくことが怖くなった。
「こっち」
レイルは左の細道へ曲がった。
「お店は右だよ」
「井戸の縄が完成直前だった。少なくとも三歩以上離れたい」
「じゃあ次の角で戻ろう」
「次は舞台の支柱を固定している。釘が最後の一本に見える」
「その先はパン屋さんの裏だよ」
「窯の中に焼き上がり直前のパンがある可能性が高い」
「じゃあ、どこ通るのっ!?」
「村の外周を回れば、完成途中の作業は少ない」
「そのまま行ったら、ハルツへ出る街道まで行っちゃうって! 塩を一袋買うために町まで行く気なの!?」
「ハルツまで行く必要はない。街道へ出る手前で折り返せば、村内の作業密度を最小化できる」
「それ、買い物じゃなくて、もう遠足の計画だよ! しかも目的地に着かないやつじゃん!」
リィナは呆れながらもついてきた。だが、三つ目の遠回りで我慢が切れたらしく、レイルの右手をつかむ。
「私が前を見る。レイルは鞄だけ見てて」
「手をつなぐ合理的な必要性は?」
「アンタが勝手に曲がらないようにするため」
「紐で腰を結ぶ方が両手を使える」
「それじゃ、犬の散歩みたいになるでしょ」
「手をつなぐと、周囲から親密な関係と誤認される可能性が――」
「今さらでしょ。毎日家に来て、原稿読んで、昨日は婚約とか言われたんだから」
「昨日の件は、長期的な共同生活の可能性を論理的に――」
「もう一回言ったら手をひねるよ」
「暴力による交渉は不健全だ」
「アンタ相手だと、口だけで終わらないんだよ!!」
会話だけならいつもの二人だった。だが、村人の視線は以前と違っていた。
舞台を組んでいた男が、レイルの鞄を見るなり金槌を下ろした。洗濯物を干していた女は、最後の一枚を籠へ戻す。子どもたちは遠巻きに革鞄を見つめ、母親に呼ばれると素直に家の中へ入った。ハルツへ向かう荷車の御者まで、締めかけていた荷紐から手を離している。
誰も罵らない。
それがかえって、レイルの足を重くした。
「僕が来たから止めた」
「まだ何も起きてないよ」
「起きる前に止めたんだ。正しい判断だと思う」
「正しいから、平気なの?」
「平気かどうかは関係ない。仕事が壊れるよりいい」
レイルの返事を聞いたリィナは、握っていた手へ少し力を込めた。慰めの言葉を探したのかもしれない。けれど、彼女は「気にしなくていい」とは言わなかった。
「じゃあ、ちゃんと買って帰ろう。何も起こさずに。今日の仕事、最後まで」
「買い物は仕事じゃない」
「エナおばさんに頼まれたでしょ」
「報酬はない」
「帰ったらお昼ご飯があるじゃん」
「それは報酬ではなく、当然の権利。家族の食事だ」
「細かっ!」
道具屋では、白い眉を長く伸ばした老人が二人を迎えた。レイルが戸口から三歩離れたまま注文したため、老人は耳へ手を当てる。
「塩一袋と、灯油一瓶をお願いします!」
「中へ入って言え!」
「栓の蝋が乾く直前なので近づけません!」
「お前さんが来る前から乾いとるわ!」
「乾き切っている証拠を見せてもらえますか!」
「店の外から客に品質検査を要求されたのは初めてじゃ!」
結局、リィナが中へ入り、レイルは戸口で銅貨と商品を受け渡した。老人は塩袋を渡しながら、鞄へ目を向ける。
「それが噂の原稿か」
「はい。現在は、これが止まっている間、他のものは止まらない可能性が高いです」
「可能性か」
「確定ではありません」
「なら、儂の店へ入らん判断は間違いではないな」
「......はい。すいません」
老人はそれ以上責めなかった。塩袋へ小さな布を一枚巻き、「革鞄の留め具へ粉が入ると困るだろう」と言った。
優しさと警戒は、同時に存在できるらしい。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
帰り道、二人はエルデ村の神殿前でアウレリオ神官に呼び止められた。薄茶色の神官服を着た男は、朝から村を巡っていたらしく、裾へ土埃がついている。整えられた濃い金髪の中には若白髪が混じり、灰色の瞳は眠そうに見えて、レイルの鞄と歩いてきた道を細かく確認していた。
「ずいぶん時間がかかったな。道具屋までなら往復十五分で済むはずだが?」
「完成直前の作業を避けました。結果、危険を減らせたと思います」
「おかげで、お前を見た職人が作業を止めたようだぞ」
「それも安全のためには必要です」
「彼らは、何をどこまで恐れればよいか知らないまま止めた。お前の家族が決めた規則を、村人は知らない」
レイルは返せなかった。
アウレリオは責める声ではなく、事実を並べる時の口調を使った。
「家族の中だけで管理して済むなら、それが一番よかった。だが、お前は一生家から出ないわけにはいかん。村人も、お前が通るたびに全ての仕事を止め続けるわけにはいかない。危険性を知らされず、結果だけを背負わされるのは、信頼ではない」
「説明したら、もっと怖がられるかもしれません」
「その可能性は高い」
「家から出るなと言われるかもしれない」
「そう言う者もいるだろう」
「なら、言わない方が――」
「レイル」
アウレリオは言葉を強めず、ただ名を呼んだ。
「怖がられる結果を避けるために、相手へ判断材料を渡さないのは、お前が嫌っている未完と同じではないか。話し合いがどう終わるか怖いから、始めないままにしておくというのは」
胸へ刺さった。
前世の玲司は、拒絶されるのが怖くてメールの返信を送らなかった。作品を悪いと決められるのが怖くてすべて完結させなかった。今のレイルは、村人から危険だと判断されるのが怖くて、説明を先延ばしにしようとしている。それに気づいた。
「......明日、話すんですか」
「神殿へ集まってもらう。私から判明している事実と、不明な点を説明する。お前の両親からも、今後の対応を話してもらう」
「僕は?」
「来い。だが、六歳の子ども一人へ全責任を背負わせる場にはしないよう配慮する」
「でも......これは僕の力です」
「ああ。確かにお前の力で起きた。だから、お前の責任がないとは言わん。同時に、管理方法も分からない子どもへ、村全体の安全を一人で完成させろとも言えぬ」
リィナが隣から口を挟む。
「私も一緒に行くよ」
「これはアルヴァート家と村の話だ」とレイルが言う。
「私も毎日原稿を読む役だよ。勝手に外さないでくれる?」
「でも、リィナの家まで悪く言われるかもしれないだろ」
「それを決めるのは私と父さんたち。レイルが先に私の分まで怖がって、私を外すのは違う」
「危険を避けるために――」
「アンタ、私と手をつないだだけで婚約の可能性まで計算したくせに、面倒な話になったら他人扱いするの?」
「その言い方だと、僕が都合の良い男みたいじゃないか」
「それを決めるのはアタシでしょ」
アウレリオが額へ手を当てた。
「明日の集会で婚約の話はするな」
「しませんってば!」
「今してたじゃん!」
レイルは革鞄の肩紐を握った。
原稿は重い。紙の重さだけではない。母の仕事、父の椅子、終わらなかった鑑定、村人の止まった手。その全てを背負うには、六歳の肩は細すぎる。それでも、怖がられる結果まで隠してしまえば、前世と同じ場所へ戻る。
それでも、鞄を下ろして逃げるわけにはいかなかった。
「明日、僕も説明します」
「何を言うつもりだ」とアウレリオが尋ねる。
「分からないことを、分かったふりはしません。安全だとも言いません。その上で、僕が今やっていることを話します」
「うむ、それでいい」
「ただし、質問は事前提出にしてもらえませんか。想定外の質問に、その場で誤った回答をする危険が――」
「集会は住民たちが自由に議論できる場だ」
「回答保留の権利は?」
「ある」
「議事録は?」
「私が取る」
「予備の記録係は?」
「レイル」
「はい」
「......面倒な規則を増やすな」
神殿の鐘が昼を告げた。
塩と灯油を買うだけの外出は、予定の四倍かかった。それでも商品は無事で、原稿も濡れず、村の仕事も止まらなかった。
何も起きなかった。
その一日を安全と呼べるかどうかは、まだ誰にも分からなかった。
原稿を持ち歩く最初の日は無事故で終わりましたが、村人は事情を知らないまま作業を止めています。
危険を隠して安心を得ることは、レイルが前世から続けてきた「結果を確定させない逃避」に近い行動です。
次回、村の仕事と暮らしを守るため、神殿で説明会が開かれます。




