第80話「三割だけ戻る魔力」
百の魔力を預け、三十四しか戻らない。
戦闘用の切り札なら大失敗ですが、暗闇で一つの灯りを残すには、その三十四が命を分けることもあります。
正式試験は、翌日の午後から始まった。
第三工房の中央には、没収された零号に代わり、学院の監督下で組み直された【無人媒体試験・二号】が置かれている。六区画だった零号より小さく、封緘槽は三つ。各槽へ個別の温度計、圧力針、緊急排圧弁が追加され、床には黄色い退避線が二重に引かれていた。
「最終確認を行います」
フィアが記録板を掲げた。
「投入魔力は無属性一〇〇。保持時間の上限は三時間。レイルの【未完】保持枠を一件占有します。また、人体へ魔力を戻しません。回収先は灯光具、冷却扇、短距離通信用発光板の三種です」
「距離制限の確認は?」
「二号から十歩、二十歩、工房外廊下まで。学院外への持ち出しは許可されていません」
「睡眠試験は」
「ありません」
「夜間保持の危険を確認するには必要だ」
「寝る前に爆発予定を抱える試験を、初日に入れるわけないでしょ」
ロッテが遮熱眼鏡を額へ上げた。
「今日は三時間。終わったら全部返す。残った魔力がゼロでも、温度と圧力の記録が取れれば試験は終わり」
「ゼロなら次の設計へ進めない」
「進めるよ。どこで失ったかを調べる設計へ変わる」
「回収できない可能性を成功条件へ入れるのか」
「安全試験では、回収量より”壊さず終われること”が先」
レイルは二号の封緘槽を見た。
(戻らなければ失敗。そう考えるのは簡単だ。だが、戻らない場所が分かれば、次はそこを直せる)
前世では、完成しない原稿を閉じるたび、途中まで書いた時間まで無かったことにした。今は、失った三分の二にも数字と理由を残す人間がいる。
「始めます」
レイルは二号へ右手をかざした。
セレネが二重の術式図を展開する。一つは魔力投入量、もう一つは封緘槽の温度と抵抗を読むためのものだ。二つを同時に形成しても、完成させるのは一つずつ。彼女は最初に投入量の測定を結着し、数値が固定されてから温度監視へ移った。
「無属性魔力、一〇〇。誤差〇・四以内」
「封緘工程、第一から第五まで正常」
ロッテが弁を閉じる。
「第六工程。外部流路を切る。レイル、完全封緘の直前だけ」
「分かってる」
術式が閉じる。
最後の線が中央へ触れる直前、レイルは指を曲げた。
「【未完】」
封緘槽の青い光が止まった。
消えない。溢れない。円環の最後だけがつながらず、魔力は”もう閉じるはずだった”形のまま、容器内へ押し込められている。
同時に、レイルの胸へ重みが落ちた。
「……重い」
「どこが?」
リィナが黄色線の外から身を乗り出す。
「胸の中央が重い。呼吸はできるし、痛みもない。ただ、二号へ細い鎖を掛けられたみたいに意識が引かれる」
「じゃあ歩いて。痛くないって言葉より、足の方が正直だから」
「まだ開始直後だ。今動けば、姿勢変化という別条件が入るだろ?」
「開始直後の歩幅を取らないと、三時間後と比べられないでしょ。三歩だけ。走れとも剣を振れとも言ってないよ」
「歩幅だけか」
「顔色と呼吸も見る。でも、それを先に言うとレイルが整えるから、今言った」
「観測対象へ観測項目を隠すんじゃない」
「隠してないよ。遅れて言っただけ。ほら、右、左、右、はい!」
レイルは二号から離れた。右、左、右。歩幅は揃っているつもりだったが、三歩目だけ靴底が床を擦った。
「三歩目が短い」
「一指幅だ」
「短いことに変わりない。顔色も少し白い」
「温度上昇は〇・七。保持時間一分十二秒。魔力損失、現時点で二」
セレネが数値を読み上げる。
「胸の重さを我慢できるかでは判断しません。歩幅の変化と温度上昇が同時に続く場合、十五分で中止します」
「一分で三時間試験を止める条件を決めるのか」
「中止条件は開始前に決めました。あなたが耐えられると言った後で変更しないためです」
「俺は変更を求めていない」
「顔が求めています」
「また顔で判断するのか」
「私は数値で判断します」
「私は歩幅かな」
リィナとセレネが同時に言った。
レイルは反論を飲み込んだ。
十五分後、温度上昇は一・一で止まり、歩幅も回復した。三十分では、胸の重さが鎖を一本巻かれたような感覚へ変わる。痛くはない。ただ、二号へ意識を引かれ続け、別の術式を組み始めると、最後の一線が容器側へ戻ろうとする。
「【風弾】の基礎形成を行います」
「発射はしないで。形成だけです」
フィアがレイルを見ながら、条件を確認する。
レイルは左手へ風を集めた。通常なら一息で作れる小さな弾が、輪郭を結ぶまで二息かかった。
「形成時間、通常比一・八倍」
「保持枠だけじゃなく、注意も持っていかれるのか」
「距離を取ります」
二号から十歩。胸の重さは変わらない。
二十歩。鎖が引かれる感覚が少し強くなる。
工房の扉を越えた瞬間、レイルの右目へ熱が走った。
「止まって」
「戻ってください」
リィナとセレネの声が重なる。
「まだ廊下へ一歩だ。ここで戻れば、工房外の変化が一つしか取れない」
「右目を細めた。本人が気づく前に、負荷が顔へ出てる」
「媒体温度が一・九へ上昇しました。工房内では止まっていた値です。距離限界は扉の内側と判断します」
「一歩だけ外へ出て、上昇が続くか確認すれば――」
「戻って。レイル、”一歩だけ”を二回言う時は、もう一歩で終わらない」
「今回は測定目的だ」
「前回も確認目的だった。目的が正しくても、約束した線は動かさないで」
「わかった……戻る」
リィナの声は大きくなかった。
「レイル、昨日言ったよね。私が怖かった時間まで、正しい答えで消さないでって。今、私が止まってって言ってる。数値が限界じゃないから進むんじゃなくて、私たちが決めた線で戻ってね」
レイルは廊下の先を見た。
あと一歩で、距離変化をもう一段取れる。
だが、その一歩を選ぶことは、試験条件を自分だけの判断で書き換えることになる。
(知りたい。だが、知りたいだけで、約束した線を越えていいわけじゃない、か)
「戻る」
工房へ一歩戻ると、右目の熱が下がった。
「記録しました」
フィアが言う。
「工房外へ出た時点で温度上昇。本人判断で一歩後退。中止申告後の追加試行なし」
「本人判断だけじゃない。リィナとセレネが止めた」
「訂正します。共同停止判断を受諾」
リィナは少しだけ肩の力を抜いた。
「今日のレイル、ちゃんと戻れたね。私が引っ張る前に、自分で線の内側へ戻った」
「昨日も戻った。結果だけ見れば同じだ」
「昨日は私が袖を引いた。今日は、レイルが”知りたい”より約束を先にした。そこは同じじゃないよ」
「一歩戻っただけだ」
「その一歩を戻れないから、いつもみんなで止めてるんでしょ」
「十三歳へ言う褒め方としては、少し幼くないか」
「危ない時だけ六歳に戻る人には、これくらいでちょうどいいの!」
「六歳の俺でも、もう少し条件を聞いたけどな」
「そういうところは全然変わってないね」
「……褒めているのか」
「半分。残り半分は呆れてる」
セレネの口元がわずかに緩んだ。
「では、次は二号から十歩以内で測定を続けます。レイル、椅子へ座ってください」
「立っていても測定値は取れる。普段の作業姿勢に近い方が――」
「三時間後に歩幅を比較します。立位疲労という条件を増やさないでください。それに、あなたは立っていると別の器具を見に行きます」
「見に行かない」
「先ほど廊下へ行きました」
「距離試験だ」
「名称を付けても歩いた事実は変わりません」
「……分かった。座る」
「返事だけでなく、実際に座りましたね。信用度をやや上方修正します」
「毎回評価するなよ」
「改善は記録しないと残りませんから」
試験はその後も三時間続いた。
レイルは保持中、他の魔法を撃たず、眠らず、二号から十歩以内を離れなかった。リィナは十五分ごとに歩幅と呼吸を確認し、セレネは温度と損失率を読み、フィアはすべての時刻を記録する。ロッテは弁へ触れる前に必ず声を出し、リオンは追加部品を持ち込もうとして、工房入口で止められた。
「予備の冷却板を三倍用意しました。温度上昇が予測を超えた場合、即座に交換できます」
「使わない。今日は一枚で足りるし、交換工程を増やすと別の事故が入る」
「不足して中止するより、余って持ち帰る方が安全では」
「床の荷重が増える。運び込む人も増える。予備は安心じゃなくて、管理対象」
『資金ニヨル物理的解決ヲ再検出』
「”再”とは何ですか。私は毎回、別の問題へ対応しています」
「前回は看板、今回は冷却板。問題は違っても、三倍にするところが同じなんだよ」
「三という数字には、予備と余裕と威圧感があります」
『威圧感ハ安全性能ニ含マレマセン』
「ニアまでロッテ側ですか」
『ワタシは記録側デス』
三時間後。
レイルは二号の前へ戻った。
「保持終了。完成権を返す」
最後の線が閉じる。
封緘槽が完全に成立した瞬間、ロッテは第一流路を灯光具へつないだ。青い光が管を走る。灯光具は一度明滅し、弱い白光をともした。
「回収量、二十一」
セレネが読む。
第二流路は冷却扇へ。羽根がゆっくり回り、熱を帯びた空気を押し出す。
「九」
第三流路は通信用発光板へつながり、一文字だけ表示した。
【灯】
「四。合計三十四」
フィアが記録した。
投入一〇〇。
回収三四。
六六は、封緘時の熱、媒体抵抗、流路漏出、未完保持中の損失へ消えた。
リオンが沈黙する。戦闘用の蓄魔具として売るなら、三分の二を失う道具へ価値を付けるのは難しい。
「......失敗だな」
レイルが言った。
ロッテはすぐに否定しなかった。灯光具の弱い明かりを見てから、両手を作業台へ置く。
「戦闘用の増幅器としては失敗。百を預けて三十四じゃ、【火弾】を三発溜めて一発にもならない。売り文句にしたら、翌日には返金の列ができる」
「なら、展示へ出せない。学院祭で見せる成果としては足りない」
「何に足りないの?」
「魔力を預け、後で使う道具として」
「それ、最初に私たちが勝手に決めた目的でしょ。じゃあ聞く。遭難した人が、夜に灯りを一つ点けるなら?」
「……三十四で足りる。周囲を照らすほどでなくても、足元と顔は見える」
「治療中の人が高熱で、冷却扇を十秒だけ回したいなら?」
「足りる。十秒あれば濡れ布を替える間を作れる」
「通信板へ一文字だけ出して、瓦礫の向こうへ生存を知らせるなら?」
「足りる。名前は無理でも、【生】か【灯】くらいなら送れる」
「だったら、六十六を失ったことだけ見て捨てるのは違うよね。三十四で終えられる仕事を探せばいい」
「用途を、性能へ合わせるのか」
「性能を誤魔化すんじゃない。できないことを削って、できることを残すの」
ロッテは灯光具を指した。
「百のうち六十六を失った容器じゃない。何も残らないはずの停止後に、三十四だけ残せた道具。使い道を戦闘から変えればいい」
セレネが計算板へ新しい欄を作る。
「非常灯なら、必要量を最初から三十四へ合わせるのではなく、損失を含めて投入量を設計できます。常用ではなく、停電時の一回点灯。冷却扇は短時間。通信板は文字数制限」
「全部を動かそうとしないのか」
「三つ同時に満足させる必要はありません。目的ごとに一つ選びます」
【灯】
レイルは表示板の一文字を見た。
たった一文字。
だが、暗闇の向こうで誰かがそれを見れば、そこに人がいると分かる。
(完成しなかった六十六を数えるだけなら、また前と同じだ。残った三十四で、何を終えられるかを決める)
「展示名を決めよう」
リオンが、いつの間にか新しい宣伝紙を取り出した。
「【未来を照らす革新的蓄魔機構・三十四式】はいかがでしょう。数字が入り、技術感と信頼感を両立しています」
「長い。名前を読み終える前に灯りが消える」
「では【零から生まれた永続光】」
「零から生まれてないし、永続もしない。嘘を二つ重ねないで」
「ならば【ゴルディス式・緊急――】」
「出資者名を入れないで。装置より先に家名が光ってる」
「出資者表示は信用の担保です」
「失敗率六六%の横へ家名を置く覚悟があるなら、好きにすれば」
「……名称案を再検討します」
『撤退判断ヲ確認。学習傾向アリ』
ロッテが即座に切った。
「【三割だけ残る灯り】」
リィナが言った。
「そのまますぎるかもしれないけど、分かりやすいよ。全部戻らなくても、暗いところで点くならいいじゃん」
「正確には三割四分です」
フィアが訂正する。
「名前まで細かくすると覚えにくい」
「では、展示説明へ回収率三四%と明記します」
「三割だけ残る灯り」
レイルはもう一度口にした。
「それでいい。失った量を隠さない。残った分で何ができるかも伝わる」
セレネが申請書の題名を書き換えた。
【三割だけ残る灯り】
弱い灯光具の周りへ、全員の影が伸びる。
決して派手な光ではなかった。
それでも、誰も消そうとはしなかった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
三時間の【未完】保持で胸の重さ、距離制限、術式形成遅延を経験し、決めた退避線を自分の判断で戻った術師。
・リィナ・アルセイル
歩幅、顔色、呼吸からレイルの負荷を読み、数値が限界へ届く前に約束した線を守らせた身体監視役。
・セレネ・グランツ
媒体温度、保持時間、損失率を測り、三四%の回収魔力を目的別の生活支援へ使う設計へ切り替えた術式設計役。
・ロッテ・ベルクマン
戦闘用増幅としての失敗を認めたうえで、避難灯、短時間冷却、通信補助へ用途を変更した魔導工学科生。
・フィア・レコード
共同停止判断、距離限界、回収量を時刻とともに記録し、失われた魔力も成果の一部として残した記録科生。
・リオン・ゴルディス
予備部品を三倍持ち込み、展示名へ自分の家名を入れようとして全員から止められた出資担当。
・ニア
残留魔力と媒体圧力を表示し、資金による物理解決を再検出した猫型案内人格。
【今回の能力・設定メモ】
・【未完蓄魔】の初回正式試験は、保持三時間、無属性、工房内十歩以内です。
・投入魔力一〇〇に対し、回収量は三四。初期回収効率は三四%です。
・保持中はレイルの【未完】枠を一件占有し、他の対象を保持できません。
・人体への魔力回復、戦闘用増幅、睡眠中の保持には使用しません。
・展示名は【三割だけ残る灯り】に決まりました。
【次回】
結着祭の準備と寮の抜き打ち点検。レイルの部屋からは安全条件帳、リィナの部屋からは非常食、セレネの部屋からは三種類の予定表が見つかります。
三割しか戻らなくても、一つの灯りは残りました。レビュー、ブックマーク、フォローの一つ一つも、次の話を照らす魔力として受け取ります。




