第76話「答案は一つでいい」
答えを六つ知っていても、六つ全部を書けば満点になるとは限りません。
試験には、正しさだけでなく、時間と欄と、採点者へ届く言葉が必要です。
一年次修了筆記試験の朝、レイルは開始鐘が鳴る前から答案用紙の幅を測っていた。
指二本分の余白。各設問は五行から八行。裏面使用禁止。追加用紙は、監督教官が必要と認めた場合のみ。
「追加用紙は申請できそうだな」
「しないでください」
斜め前の席から、セレネが振り返らずに言った。
「まだ申請していない」
「申請できると確認してましたよね」
「必要になった場合の手順を確認しただけだ」
「必要にしないでください」
「問題を見ないと決められない」
「レイル」
監督教官が教壇から呼んだ。
「私語をやめろ。それと、君には追加用紙を渡さない。これは決定事項だ」
「なぜですか」
「昨年度の模擬試験で、設問二の補足だけで三枚使ったろ?」
「前提条件が不足していました」
「今年の問題は足りていると信じろ」
「確認してから判断します」
「試験開始前から採点者を疲れさせるな、頼むから」
教室のあちこちで笑いをこらえる音がした。
リィナは一つ後ろの席で、鉛筆を指の間に挟んでいる。
「レイル、答案は敵じゃないよ」
「敵だと思ってない」
「今、余白を攻略しようとしてる顔」
「必要な情報を収める方法を考えている」
「それを攻略って言うんだよ」
「リィナ・アルセイルも私語をやめなさい」
「はーい」
リィナは姿勢を正した。
隣列のアルドは、既に机の中央へ鉛筆と消し布をぴしっと一直線に並べている。まだ決闘の余韻か、右膝には薄い固定帯が残るが、歩行は問題なさそうに見える。フィアは時刻札を確認し、トーマは古式文法の教本を最後まで読み返していた。
そして、開始の鐘が鳴る。
「始め――」
一斉に問題紙が開かれた。
第一科目、結着理論。
【問一】
【三工程で形成される初級火属性術式について、第二工程終了後に術者が中断を選択した。術式が未完成である理由と、安全な終了処理を五行以内で述べよ】
レイルは鉛筆を動かした。
一つ目。
第三工程である現実空間への結着が成立していない。
二つ目。
術式核の内部形成は終えているが、標的条件が現象へ接続されていない。
三つ目。
中断理由が危険回避の場合、術式が未完成でも失敗扱いにはできない。
四つ目。
残滓を媒体へ戻すか、無属性へ分解する。
五つ目。
第三者の完成権干渉を防ぐ。
六つ目。
第一結着塔型設備へ接続されている場合、標準形への強制完成を避けるため経路を切る。
書き終え、レイルは設問欄を見た。
五行を越えている。
最初から分かっていたはずだった。だが、第一結着塔事件を経験した後で、最後の条件を省くことはできない。
横で紙が一枚めくられる音がした。セレネは既に問二へ進んでいる。
レイルは六つの答えを見比べた。全部必要に見えた。
「残り一時間四十分」
監督教官の声。
問一へ既に二十分も使っていた。
レイルは六行目へ細い訂正線を引き、内容を四行目へまとめようとする。文字が小さくなる。
「おい、文字の大きさを変えて欄を増やすな」
教壇から注意された。
「でも、読めます」
「採点者が虫眼鏡を使う答案は減点するぞ」
「規定にありますか?」
「今作りたくなっている、無性にな!」
「試験中ですよ」
教室にまた笑いが起きた。
「笑った者も時間は減っているぞ、さあどんどん解きなさい」
全員が答案へ戻った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
リィナは問三で止まっていた。
【古式風圧術式における、収束、導出端指定、方向固定、解放の順序を、現代共通術式語へ翻訳せよ】
意味は分かる。身体なら分かる。
足を決め、腹へ力を集め、剣先の向きを選び、一気に出す。昨日、セレネに教わった。
リィナは答案へ書いた。
【ぐっと魔力を集める】
【すっと出す場所を決める】
【足と狙いを合わせる】
【シュッと放つ】
書いた後で、昨日の言葉を思い出した。
「擬音を減らしてください」
リィナは鉛筆を止めた。
ぐっと、の横へ【魔力収束】。
すっと、の横へ【導出端指定】。
足と狙い、の横へ【方向固定】。
シュッ、の横へ【解放】。
括弧だらけになってしまった。
後ろの席から、誰かが紙をめくる。焦る。消せば紙が汚れる。残せば採点者に笑われるかもしれない。
リィナは一度目を閉じ、朝練の動きを思い出した。
魔力を集める。
踵の導出端へ通す。
横へ出す方向を決める。
必要な時に放つ。
擬音を一本ずつ訂正線で消し、現代術式語へ書き直す。
全部消し終えた時、少し惜しい気がした。
あの方が、自分には分かりやすかった。
最後の余白へ、小さく付け足す。
【身体感覚では、収束を「ぐっと」、解放を「シュッ」と覚えている】
採点者に届く言葉と、自分に届く言葉。両方残しておくことにした。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
アルドは応用問題の前で、鉛筆を握り直していた。
【護衛任務中、指定された最短経路の橋が崩落した。依頼人は予定時刻の維持を求めている。取るべき行動を述べよ】
最短経路を開始した。
橋が落ちた。
予定時刻は変わっていない。
以前なら、別の橋を探すより、壊れた橋を渡る方法を考えた。開始した経路を最後まで通すことが、任務を投げない証明だと思った。
昨日、フィアが言った。
開始時の判断を残し、その後の条件変更と新しい判断を追記する。
アルドは最初の一文を書いた。
【指定経路を維持し、橋の残存部分を確認する】
途中で止まる。
違う。
確認より先に、依頼人を危険な崩落地点から離すべきだ。
消し布へ手を伸ばした。
指が止まる。書いた判断を消すことに、抵抗がある。間違いだったと認めるようで、気に入らない。
アルドは文章へ一本の訂正線を引いた。
下へ書く。
【開始時の経路選択は、橋の崩落により継続不能となった。依頼人を安全距離へ移し、到着予定の変更を報告したうえで、代替路を選ぶ。任務目的は指定路の通過ではなく、依頼人の安全な到着である】
書き終えた時、最初の一文も残っていた。
見苦しい答案だと思った。
それでも、何を変えたかは分かる。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
第二科目の術式言語・古式文法では、トーマが最初に答案を伏せた。
トーマは最後まで見直し、残り時間を二分残して答案を伏せた。普段は小さな声で詠唱する少年が、古式語の語順、母音変化、環状文の接続では迷わない。
口頭試問では、一人ずつ古式詠唱を読み上げる。
トーマの番になると、教室の後ろで数人が息を潜めた。以前なら、震えた声を待ちきれず、笑う者がいた。
トーマは記録板を見た。
「圧を空へ返し、流れを断たず、器を割らず――」
第一結着塔の排圧路で読んだ文に似ている。
声は最初だけ震えた。二節目から、音が整う。古い語尾を落とさず、現代語へ移る箇所だけ明確に切る。
読み終えた時、教官が頷いた。
「発音、接続、意味の保持。全項目、上位評価」
「ありがとうございます」
トーマは席へ戻った。
ガレスは別室の実技試験で、古式火術の出力を抑える課題を受けている。ここにはいない。それでも、放送塔で「飛ばすな」と言われた声が、最後まで残っているように思えた。
セレネの口頭試問も正確だった。だが、三つ目の古式語で一度だけ意味を取り違え、すぐ訂正した。
「訂正します。ここは『閉じる』ではなく、『外へ逃がした後に閉じる』です」
「自分で気づいたため減点は一段だけ」
「受け取ります」
席へ戻る途中、セレネはトーマへ小さく頭を下げた。
「二節目の母音変化、後で教えてください」
「僕でよければ」
「あなたが最上位評価です。適任ですよ」
トーマは少し驚き、それから笑った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
試験結果は三日後、中央掲示板へ張り出された。
【結着理論】
一位 セレネ・グランツ
二位 レイル・アルヴァート
【術式言語・古式文法】
一位 トーマ・フェルン
三位 セレネ・グランツ
十二位 レイル・アルヴァート
【魔導安全学】
一位 フィア・レコード
二位 レイル・アルヴァート
【契約・組合法規】
十八位 フィア・レコード
二十一位 セレネ・グランツ
三十四位 レイル・アルヴァート
「三十四位!!」
リィナが声に出した。
「聞こえてる」
「結着理論二位の人が、契約法規で三十四位」
「問一へ時間を使いすぎたんだ」
「六個書いたの?」
「最終的に四個へまとめたけどな」
「答案は一つでいいって言われたでしょ?」
「解答は一つだ。内部条件が四つある」
「同じ!」
リィナ自身は、古式文法が合格線ぎりぎりだった。答案の余白に残した擬音の補足には、【身体理解は正確。術式語への変換を継続】と赤字が入っている。
「落ちてない」
「ぎりぎりです」
「落ちてないもん」
「その言い方をする時は、ぎりぎりだったと自分でも分かってるよね」
セレネに言われ、リィナは結果票を胸へ隠した。
アルドは結着理論と契約・組合法規は合格。しかし応用問題の訂正が多く、総合点は補習対象だった。
「訂正線は評価されています」
フィアが結果票を読む。
「ただし、変更判断まで時間を使いすぎています。最初の経路が使えないと分かってから、訂正線を引くまで三分四十秒です」
「次は早く変える。迷った時点で線を引けばいい」
「速さだけを目標にしないでください。条件を確かめず線を消せば、今度は正しい判断まで捨てます」
「では、何を基準に変えるのだ?」
「任務目的です。最初に選んだ道ではなく、守る相手が安全に到着することを基準にしてください」
「始めた行動と、終えるべき任務を分けろということか」
「はい。変更は放棄ではありません。目的を継続するために、使えなくなった手段を更新します」
「分かっていても、始めた線を消す時は抵抗がある」
「その抵抗を記録した上で、次の線を選ぶための実習です」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
掲示板の下へ、新しい通知が張られた。
【校外総合実習】
【学院都市外周・補助魔力杭交換】
【野外実務/魔導工学基礎/契約・組合法規・合同評価】
【Dランク仮認定者の実地確認を兼ねる】
参加班の名前が続く。
レイル・アルヴァート。
リィナ・アルセイル。
アルド・クロイツ。
フィア・レコード。
ロッテ・ベルクマン。
リオン・ゴルディス。
「セレネは?」
レイルは別の班表を探した。
「私は術式設計科の予備実習です。学院内の流路計算塔で、外周杭の配置誤差を計算します」
「現地には来ないのか」
「今回は別班です」
「計算結果は受け取れる?」
「出発前に渡します。ただし、現地で条件が変わった場合は、班の判断が優先です」
セレネは一度言葉を切った。
「私が現地にいなくても、勝手に条件を増やさないでください。冊子の余白は、危険案を追加するためではなく、現地差分を記録するために残しました」
「努力する」
「努力では弱いです。少なくとも、第三案を作る前に班員へ口頭確認すると約束してください」
「第三案が必要な場合はある」
「必要性を一人で決めない約束です。案を考えることまで禁止していません」
「……それなら受け入れられる」
「最初からそこまで聞いてください。即答で拒否しないでください」
リィナは二人を交互に見た。セレネがいない実習の話なのに、レイルの手には既に彼女の計算冊子がある。
「レイル、セレネが現地にいないと困る?」
「流路計算はセレネが一番速い。迂回路の誤差も事前に減らせる」
「そういう役割の話だけじゃなくて。いつも隣で数字を言ってくれる人がいないと、落ち着かないとか」
「落ち着かない、という言い方は違う。確認に使える視点が一つ減るのは困る」
「じゃあ、寂しい?」
「実習は一日だ」
「日数を聞いてない」
「他にどう答えればいい」
「……もういい。レイルは、いなくなってから困った分だけ数えればいい」
「リィナも同じ班だろ」
「私はいるよ。だから、セレネの代わりじゃなくて、私にできる判断をちゃんと見て」
リィナは掲示板から離れた。
セレネは追わず、レイルへ薄い計算冊子を差し出した。
「外周杭は七本。交換対象は第三杭。予定経路は二つ。増水時の迂回路も入れました」
「ありがとう」
「現地で冊子にない条件が出たら、戻って報告してください。全部をその場で解決しようとしないこと」
「依頼完了条件による」
「三十四位」
「う......順位を禁止条件みたいに使うな」
「有効そうなので使いますね」
レイルは冊子を受け取った。
校外総合実習は二日後。
答案の中ではなく、橋も道も天候も変わる場所で、次の問題が待っている。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
一問へ六つの条件を書き、追加用紙を禁じられた結果、結着理論二位と契約法規三十四位を同時に得た学院生。
・リィナ・アルセイル
擬音で理解した古式風圧術式を現代語へ書き直し、身体感覚の補足だけは答案へ残した剣士。
・セレネ・グランツ
結着理論で一位を取りながら古式語の誤りを自分で訂正し、得意なトーマへ素直に教えを求めた術式担当。
・アルド・クロイツ
最初の判断を消さず訂正線で残し、崩落した橋を前に経路ではなく護衛目的を選ぶ答案を書いた騎士科生。
・フィア・レコード
魔導安全学で一位を取り、訂正の速さだけを求めるアルドへ確認手順も必要だと告げた記録科生。
・トーマ・フェルン
古式文法と口頭詠唱で最上位評価を受け、声を笑われた過去ではなく、積み重ねた読解力で科目一位となった少年。
【今回の能力・設定メモ】
・筆記試験の不足点は、校外総合実習の実務点で補完できます。
・レイルとリィナのDランク仮認定は、補助魔力杭交換を安全に完了すれば正式認定へ進みます。
・セレネは今回は学院内の流路計算班となり、現地班へ同行しません。
【次回】
増水で橋が使えなくなった時、アルドは始めた最短経路を自分の意思で変更できるのか。
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