第69話「完成し始める学院」
魔法は、最後まで唱えれば安全とは限りません。
止めた理由を知らない塔が、学院中の続きを勝手に始めます。
地上へ戻った時、学院は別の建物になっていた。魔導実技棟の窓から火柱が上がり、治療棟の外壁を巨大な蔓が覆っている。武技塔では、途中まで付与されていた強化術式が訓練鎧へ結着し、無人の甲冑が剣を振り回していた。空には、召喚実習で呼び出される前に中止された獣の輪郭が幾つも浮かぶ。身体の半分を魔力で補い、足りない部分を周囲の術式残滓から奪って実体化していた。
【術式残響獣】
階段の上では、白い環を胸へ刻んだ石人形が避難する生徒を押し戻している。
【結着守衛】
廊下の壁から剥がれた古い詠唱文は、鎧の形へまとまり、文字の腕で扉を閉じていた。
【綴甲人形】
「学院の失敗が、全部敵になってる……」
「失敗の分類は後! 今は怪我人助けるのが優先でしょ!」
広場の反対側から、工具車を押したロッテが走ってきた。前掛けの裾は焦げ、保護眼鏡の片側へ亀裂が入っている。それでも両手は、車上の排圧板と切離札が落ちないよう押さえていた。
その後ろでは、リオンが金環商会の学生と学院職員を二列へ分け、担架、冷却布、交換魔石を配っている。
「大師匠! 勝利は金だけでは買えませんが、勝つための準備なら買えますぞ!」
「今は大師匠とか呼ぶな。避難誘導へ声を使ってろ」
「承知! 金環商会の者は南門へ! 空の荷車は負傷者用、荷物を載せるな!」
ロッテはレイルの【七環導杖】へ、薄い測定札を一枚だけ貼った。
「杖の風圧経路が塔の過圧を拾ってる。黄色なら続行、赤で切る。赤を無視したら、次は私が杖ごと取り上げる」
「ヘルマン教官と同じことを言うな」
「正しい警告は、誰が言っても同じってこと」
彼女は折り畳んだ排圧路図と、三枚の接続札をセレネへ渡した。
「中枢へは行かない。私は地上側の圧を逃がす。そっちは生徒を出して。あとで地下排圧が必要になったら、この三箇所が生きてるから」
「受領しました」
リィナが真剣を構えた。赤栗色の髪が熱風に揺れ、額へ汗が浮かぶ。金茶色の目は敵を数えるより先に、逃げ遅れた生徒を捉えていた。
「中央広場に十二人。右の回廊に五人。窓際に二人倒れてるね」
「見えたのか」
「剣より先に、人を見るって決めたから――」
アルドが細身剣を抜き、白い制服の襟を締め直す。
「中央広場を確保する。俺が守衛を止める」
「私は右。倒れてる二人を先に出す」
「別行動か」
「レイルたちは?」
レイルは七環導杖を伸ばした。風圧の環と光の環が淡く灯る。暗い灰褐色の髪の下で、右目の閉じない輪はまだ第一結着塔の走査へ反応し、熱を持っていた。
「俺は避難経路をつなぐ。セレネ、学院図。フィア、完成順。トーマは放送設備へ行けるか」
「中央放送室なら、ここの上です」
トーマは杖を握った。淡い茶色の髪が汗で額へ張りつき、声は震えている。しかし視線は逸らさなかった。
「避難詠唱は、入学式で一度聞きました。教官の声なら覚えています」
「お前一人では行かせねぇ。放送室までの階段には、まだ人形が残ってたからな」
ガレスが言った。肩には迷宮で受けた火傷の包帯が残っている。赤銅色の髪の下で険しい顔をしながら、トーマより先に階段を見た。
「俺が前に立つ。放送室まで行ったら、こいつに最後まで唱えさせる。......もう笑わねぇからよ」
トーマは驚いたが、礼を言わなかった。ガレスも求めなかった。フィアは小柄な身体へ何枚もの記録板を浮かせた。短い黒髪の間から淡い青の瞳が、学院全域の術式番号を追う。
「訂正します。現時点で全体解決は不可能です。役割を区画ごとに限定してください」
学院都市支所から、緊急伝令札が飛んできた。
【緊急依頼】
【指定区画:中央広場/北回廊/放送塔】
【任務:避難誘導、負傷者搬送、二次被害防止】
【塔中枢の停止は教官および特任術師が担当】
「子どもだけで学院を救え、とは書いてない」
レイルは札を確認した。
「自分の担当を終わらせる」
「始めた。なら、完遂する」
アルドが中央広場へ走る。
「”道は私が開く。あんたは、何を終わらせるかだけ決めて!”」
リィナは右回廊へ踏み込み、倒れた生徒と綴甲人形の間へ身体を滑らせた。横方向へ噴いた風は一度だけ。着地後は二歩使って止まり、噴射環の警告が赤へ変わる前に魔力を切る。
「一回使った! 次は普通に走る!」
「申告を続けろ!」
レイルの返事を背に、リィナは右回廊の奥へ走った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
レイルとセレネは、中央広場の避難路へ向かった。セレネの淡い金髪は走るうちに留め具から外れ、肩甲骨まで流れている。胸元の魔導演算石から二つの術式環を浮かべ、青紫色の瞳で空中の学院図を追う。
「北階段は治癒蔓で閉鎖。西回廊は火炎残滓。南から中央門へ抜けられます」
「南の防護壁は?」
「三分後に強制完成します。閉じ切る前に通す必要があります」
「三分で十九人だな」
「可能です。列を二つに分けます」
レイルは【灯光】を三つ、地面すれすれへ配置した。中央門へ向かう道を緑、治療棟へ向かう道を青、立入禁止を赤で示す。
「光を追って! 走らなくていい、前の人を押さない!」
十二歳の声では、混乱した広場全体へ届かない。ニアが犬型の【追跡補助形態】へ変わり、甲高く吠えた。
『避難経路ヲ表示。緑ノ光ニ従ッテクダサイ、ワン!』
生徒たちが動き始める。その時、魔導科の一年生が転んだ。少女の杖先には、実技中に中止した【火弾】の術式残滓がまとわりついている。第一結着塔の白い光がその術式を拾い、最後の一工程を強制的に埋めようとしていた。
「嫌ァァァァ、止めたはずなのに!」
火球が膨らむ。向いている先には、避難中の生徒が六人いる。
「杖を上へ向けろ!」
レイルが叫ぶ。
「動かない!」
塔が術式を固定している。少女の腕も震え、杖先を変えられない。セレネが水術式を作る。しかし術の完成まで一秒以上かかる。レイルは少女の手首をつかんだ。他人の魔力が皮膚から流れ込む。熱。焦り。自分のせいで誰かを焼くという恐怖。胸へ流れ込んだ焦りはレイル自身のものではなかった。それは、術者が火弾へ込めた、完成させたくないという意思だった。
完成条件は理解できる。初級火属性術式。始動済み。形成済み。標的は正面の空間。最後の一工程は、火球を術式外へ結着すること。以前なら対象外としていた他人の魔法。それでも、リィナの剣へ無意識に触れていたなら、扉は最初から完全には閉じていなかった。
「止まれ」
右目の環が開く。火弾の最後の一工程が、少女の杖先から消えた。炎は消えない。赤い球体は回転し、熱を増し、完成しようと何度も圧力をかける。けれど現実へ飛び出す最後の瞬間だけが来ない。レイルの胸へ、他人の魔力と恐怖が流れ込んだ。
「レイル!」
セレネが肩を支える。
『未完反応ヲ確認』
『対象:他者形成ノ初級火属性術式』
『意図的指定、成功』
ニアの声が響いた。フィアの記録板へ、新しい行が刻まれる。
【他者魔法への意図的完成留保】
【接触指定】
【術式理解:完全】
【保持数:一】
「......持ったの?」
少女が震える声で聞く。
「一件だけ。長くは無理そうだ」
レイルは火弾から流れ込む完成圧力に歯を食いしばった。
「杖を上へ向けて。俺が返したら、すぐ発動する」
「う、腕が動かないの」
「セレネ」
「関節固定を水膜で外します」
セレネが【水縄】を少女の腕へ巻き、塔の固定力へ逆らわず、肘と肩の角度を少しずつ上へ変える。
「標的条件は変えられません」
フィアが言う。
「正面空間の先に人がいないことを確認してください」
リィナが回廊から戻り、上空を見た。
「魔導艇なし! 橋の上も空いてる!」
「セレネ、拘束は」
「解除。杖先、上空」
「よし。――返す」
レイルは奪った最後の一工程を、火弾へ戻した。
「――完成」
火球が夜空へ飛び、誰もいない上空で弾けた。赤い光が学院の塔を照らす。少女はその場へ座り込み、レイルも片膝をついた。
「今の、私の魔法を止めたの?」
「最後だけ。火も魔力も、俺のものになったわけじゃない」
「私の怖いのも……分かった?」
レイルはすぐには答えられなかった。
「少し流れ込んだ。勝手に読んではいないぞ」
「でも、私の中に入ったんだ」
「ごめん」
「謝るのは後で。助けてくれて、ありがとう」
少女は立ち上がり、避難列へ戻った。レイルは自分の手を見た。他人の魔法を、意識して【未完】にした。できたことへの興奮より、流れ込んだ恐怖の重さが残る。
「レイル」
リィナが正面へしゃがんだ。
「今、私の剣の時と同じだった?」
「近い。でも、火弾は形も完成条件も全部分かっていた。リィナの身体動作より限定しやすい」
「また一人で試すのは禁止。できるか確かめたいって顔をしても、教官とフィアとセレネがそろうまで触らないで」
「分かってる。今の一件だけで再現できると判断するつもりもない」
「本当に? レイルの”分かってる”は、危険条件を三つ書き足したら試していいって意味になる時があるよ」
金茶色の目が疑う。
「今の顔、できることが増えたって考えてる」
「危険条件も増えたと考えてる」
「両方でしょ」
「ああ……両方だ」
リィナは立ち上がり、レイルの手を引いた。
「なら、今は助けた人を出口まで送る。新しい実験は生きて帰ってから」
その手を見て、セレネの髪の周囲へ一つだけ光が浮かんだ。けれど彼女は割り込まず、学院図をレイルの反対側へ差し出す。
「南防護壁の完成まで一分四十秒です。立てますか」
「立つよ」
「返事の内容は聞いていません。立てる状態か確認しています」
「右腕に熱。胸の圧力は消えた。歩ける」
「では、行きます」
リィナが右手を引き、セレネが左側で経路を示す。二人に挟まれ、レイルは避難列の最後尾へ戻った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
放送塔では、トーマが学院中へ声を届けていた。
「中央門へ向かう生徒は、緑の誘導灯へ従ってください。北回廊は閉鎖。治療棟の生徒は西側庭園へ――」
笑い声はない。震えても、声は最後まで届く。ガレスは扉の前で、綴甲人形の文字腕を杖で受けていた。火魔法を撃てば放送設備まで焼くため、短い熱で人形の関節だけを膨張させ、動きを鈍らせる。
「まだか!」
「あと三つ、避難文がある!」
「早くしろ。でも飛ばすな!」
矛盾した声へ、トーマは少しだけ笑った。中央広場ではアルドが結着守衛を正面から押さえ、最後の避難者を背へかばっていた。
「”撤退を完遂する。全員、俺の後ろへ!”」
右回廊では、リィナが【無終剣・継歩】で三体の綴甲人形を連続して外へ流す。レイルの無意識反応が来るたび短く申告し、自分の足で次へつなげた。
「一回、来た!」
「保持定着なし、即時返還!」
フィアが記録する。微小反応は完全には止められない。それでも、もう正体不明の違和感ではなかった。全員が中央門へ到達した時、学院支所から次の指示が届いた。
【指定区画の避難完了を確認】
【追加緊急依頼:第一結着塔・排圧路確保】
【担当教官隊が中枢封鎖中】
【過圧爆発まで推定十二分】
【地上支援:ロッテ・ベルクマン作成の接続札三枚を使用可能】
【予備媒体・冷却材:金環商会臨時供給】
セレネが地下図を開く。
「第一結着塔の余剰魔力を、上空排圧口へ逃がす必要があります」
「排圧路の術式は?」
「風圧属性。現行式は崩壊しています」
レイルは七環導杖の風圧環へ触れた。
「なら、作れる」
リィナが腕をつかむ。
「今、他人の火弾を持ったばかりだよ」
「もう返した。保持は空いてる」
「そういう意味じゃない!」
レイルは分かっていた。右腕は熱を持ち、他人の恐怖がまだ胸に残っている。それでも、教官隊が中枢を止めている間に排圧路を作れる者が必要だった。
「俺一人では作らない」
レイルはセレネを見る。
「頼む。術式層を計算してくれ」
次にリィナを見る。
「三秒、止まれる場所を作って」
二人は同時に頷いた。フィアが記録板を閉じる。
「条件を一件追加します」
「何だ」
「三秒後、完成できなければ中止。四秒目は絶対に認めません」
「手厳しいな」
「本日の新規能力は、既に一件です」
一行は再び、地下へ向かった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
暴走した生徒の初級火弾へ接触し、他人の魔法を初めて意図的に【未完】化して、避難完了後に安全な上空へ完成させた少年。
・リィナ・アルセイル
他人の魔法へ踏み込んだレイルを即座に止める条件を確認し、彼の右手を引いて避難役へ戻した剣士。
・セレネ・グランツ
火弾の術者の腕を水縄で安全な角度へ動かし、レイルが奪った完成権を返せる条件を整えた術式担当。
・トーマ・フェルン
学院放送から避難詠唱を最後まで読み上げ、かつて笑われた声で生徒たちを中央門へ導いた魔導科生。
・ガレス・ベイロン
得意な大火力を使わず放送室を守り、トーマへ急げと言いながら避難文を飛ばさせなかった少年。
・アルド・クロイツ
中央広場の結着守衛を正面で止め、担当した避難者が全員退くまで撤退を完遂した騎士科生。
・フィア・レコード
他人の初級魔法への意図的完成留保を条件付き成功として記録し、能力拡張を即座に安全扱いしなかった記録科生。
・クラリス・オルビス
教会式結界で避難区域を固定し、完成を促す力を人間が選んだ避難路の維持へ使った聖女候補。
・ニア
他者形成魔法への意図的指定、接触条件、感情流入、保持数一件を同時表示した案内人格。
・ロッテ・ベルクマン
地上側の排圧と装備警告を担当し、地下へ入らずとも後の排圧路へ使える接続札三枚を残した技師。
・リオン・ゴルディス
担架、冷却布、交換魔石、空の荷車を学院へ緊急供給し、資金ではなく物流で避難を支えた商務術式科生。
【今回の能力・設定メモ】
・レイルは他人の魔法へ干渉できる入口へ到達しました。現時点の成功条件は、接触、完成直前、本人が完全に理解する単純な初級魔法、一件保持です。
・魔法の目的や標的は書き換えられません。術者と周辺が安全条件を作った後、元の完成権を返しています。
【次回】
一件の外部魔法を止めながら、自分の風を両手で重ねることはできるのか。第一結着塔の排圧が始まります。




