幕間Ⅱ「血を飲まない娘と、王になりたくないオーク」
血を欲しながら、奪った血を飲めない吸血種。
王を嫌いながら、飢えた子供を放っておけないオーク。
二人が出会った夜、まだ名もない【王核】が脈を打ちます。
百数十年前。まだ灰環盟約という名も、ガズル・ヴァルグを冠魔王と呼ぶ国も存在しなかった時代。
世界のいずこかの場所――月の欠けた山道で、奴隷商隊の荷馬車が燃えていた。
横倒しになった檻には、人間、獣人、オーク、小角族の子供たちが詰め込まれている。鉄格子へ刻まれた拘束術式は赤黒く明滅し、逃げようとする小さな手が触れるたび、首輪から細い棘を伸ばした。
中には、すでに泣く力さえ残っていない子もいる。荷車の周囲では、奴隷商たちが剣を抜き、黒い外套の女を半円状に囲んでいた。
その女はとても小柄だった。
背丈は成人男性の胸までほどしかない。それでも、誰も彼女を子供とは見間違えなかった。夜紫色の長い髪は腰まで流れ、月明かりを受けるたび葡萄酒のような赤を返す。雪より白い肌、細く整った顎、濡れたような深紅の唇。その端から覗く二本の牙は小さく鋭い。宝石のような紅い瞳には縦長の瞳孔が浮かび、見つめられた男は剣を向けていることさえ忘れそうになる。
半吸血種の『ノエラ・ヴェイン』。
すでに百年以上を生きても、若い姿が変わらない不老の女は、華奢な身体へ古い黒衣をまとい、喉元に銀の薔薇飾りを留めていた。小柄さを弱さへ結びつけた者は、次の瞬間には自分の影へ縫い止められる。その美しさは、吸血種が獲物の警戒を解くために受け継いだ魔性そのものだった。
「下衆どもが。命へ値札を付けたいなら、まず己の首から売るがよい」
声音は少女のように高くない。小さな身体からは不釣り合いなほど艶があり、古めかしい言葉の奥へ冷たい嘲笑が混じっていた。
「妾の前で、子を商品と呼ぶでない!」
奴隷商の一人が術式弩を撃つ。ノエラは外套の裾だけを残して消え、男の背後へ立っていた。細い指が喉へ触れる。爪が走り、男は声も出せず崩れた。二人目の剣を身を沈めてかわし、手首を取って檻へぶつける。三人目へ紅い瞳を向けると、男の足が竦んだ。
戦いは長く続かなかった。
最後の男を倒したノエラは、石へ片膝をついた。外套の下で肩が大きく上下する。四日間、一滴の血も飲めていない。牙の根が疼き、周囲へこぼれた血の匂いが喉を締めつける。
目の前には、まだ温かい血があった。
ノエラは倒れた奴隷商の首へ手を伸ばした。指先が赤い雫へ触れる。飢えに耐えきれず、唇へ運ぶ。
口へ入った血は灰のように変わった。
「――っ」
喉が焼け、胃が裏返る。ノエラは顔を背け、赤黒いものを地面へ吐き出した。身体が欲しがっている。けれど、彼女の血脈は拒んでいた。
ノエラは、”奪った血”を飲めないのだ。
相手が意識を持ち、自分の意思で「与える」と認めた血だけが、彼女の命へ変わる。脅して言わせた許可も、眠った者の無言も、死者から盗んだ一滴も受けつけない。幼い頃から変わらない体質だった。血を求める吸血種として生まれながら、最も簡単な生き方だけを身体に禁じられている。
「血は命じゃ。奪ったものなど、妾の喉は一滴たりとも受けつけぬ……分かっておる。分かっておるのじゃ......」
言い聞かせても、飢えは消えなかった。
その時、山道の木々が大きく揺れた。
「ブオオオオッ! 子供らから離れろおおおっ!」
枝を肩で折りながら、巨大なオークが飛び出してきた。
人間の成人より頭二つ高く、肩幅は荷馬車の車輪ほどある。灰緑色の肌には古い刀傷が走り、左の太い牙は半ばから欠けていた。黒い髪は後ろで荒く束ね、焦げ茶色の瞳には怒りが燃えている。鉄板を継ぎ合わせた胸鎧は傷だらけだが、背と腰には武器より多くの食料袋が下がっていた。右手の大斧より、左肩の大鍋の方が目立つ。
オークの護衛長、ガズル・オルグである。
「ブヒッ……吸血鬼め。檻の前で血を舐めやがったな!」
「見たままを理解できぬ豚面か。妾が誰を助けたか、その小さな目でしかと数えてみよ」
「誰が豚面だブヒ! オレの目は小せえが、子供を狙う奴は見落とさねえゼ!」
「語尾で自らの無能を証明しておるぞ」
「これは息だ! オークは鼻がいいから息も太いんだブヒ!」
ガズルが大斧を振る。ノエラは爪で軽く受け流した。火花が散り、細い身体が後ろへ滑る。血を飲めず力の落ちたノエラは、二撃目を完全には外せない。外套の肩が裂け、白い肌へ浅い傷が走った。
ノエラの紅い瞳が濃く光る。
「妾の衣を裂いたな、無礼者。百年物じゃぞ!」
「子供の檻より服が大事か!」
「どちらも大事じゃ! 妾は欲張りなのじゃ!」
爪と大斧が再びぶつかる。ガズルは檻を背にしているため大振りができず、ノエラも子供の近くへ血刃を飛ばせない。互いに決め手を欠いたまま、山道の石だけが砕けていく。
「待って!」
檻の中から、幼いオークの声が上がった。
「ガズル兄ちゃん、その人が商人を倒したんだ! ぼくらの首輪も切ろうとしてくれたんだよ!」
ガズルの斧が空中で止まった。
「……ブヒ?」
「はぁ......理解が遅い」
ノエラは勝ち誇る余裕もなく、地面へ片手をついた。紅い瞳の光が薄れ、喉が乾いた音を立てる。
ガズルは倒れている奴隷商、傷一つない檻、ノエラの裂けた外套を順に見た。大斧を地面へ立て、太い眉を寄せる。
「オラが先に殴った。悪かったなブ」
「ほう、ずいぶん素直じゃな」
「間違えたら謝る。オークの子でも知ってる決まりだブヒ」
「最後の一音で締まらぬのう」
ガズルはノエラへ歩み寄った。彼女は爪を上げようとしたが、腕に力が入らない。
「おまえ、血が要るのか」
「要らぬ」
「牙が震えてるぞ」
「寒いだけじゃ」
「いま、夏だぞ」
「吸血種は冷え性なのじゃ」
「四日くらい食ってねえ顔だ」
「妾の顔で、食料事情を読むでないわ」
ノエラは顔を逸らした。その高い誇りだけは飢えていなかった。
「死体の血を吐いたな。腐ってたのか」
「違う。妾は、許しのない血を飲めぬのじゃ」
「許し?」
「本人が自分の意思で差し出した血だけじゃ。命令も、脅しも、眠っている者の無言も駄目。死ねば許可を受ける口もなくなる。ああ、笑いたければ笑え。吸血種のくせに、獲物へお願いせねば生きられぬのじゃ ハハハハハ......」
最後だけ、古めかしい口調の奥から若い女の声が漏れた。しかし、それはとてもか弱き音だった。
ガズルは笑わなかった。
「なら簡単じゃねえか」
腰の短刀を抜き、自分の左腕へ当てる。
「何をしておる」
「オレの血はオレのもんだ。オレがやると決めた。ブヒッ、これなら盗みじゃねえゾ!」
「おい待て。妾は敵かもしれぬぞ」
「子供の檻へ傷を付けずに奴隷商だけ倒す敵なら、今は味方でいい」
「飲んだ後、おぬしを殺すかもしれぬ」
「その時は斧で殴るかんな」
「大雑把じゃなあ」
「細けえこと考えてる間に、腹はもっと減る。ほらよ」
刃が皮膚を浅く切り、濃い血が流れた。ガズルは傷口をノエラの前へ差し出す。
「オラ、ガズル・オルグの意思で渡す。だが、子供らを檻から出すまで動け。助け終わったら、足りなきゃもう一口やる」
言葉と血がそろった瞬間、ノエラの身体が反応した。
灰へ変わらない。喉も焼けない。
彼女は両手でガズルの太い腕を取り、傷口へ唇を寄せた。一口だけ。必要以上には飲まない。温かな血と、煙、鉄、煮込み肉のような魔力が喉を通る。冷えていた指先へ赤みが戻り、紅い瞳の奥で閉じ切らない細い環が一度だけ脈打った。
同時に、ガズルの胸の奥でも火種に似た光が灯る。
「オラの血……美味いだか?」
「なんだか燻製肉の味がするのう。ベーコンとか」
「それ、昼に食ったゾ」
「血へ食事を持ち込むでない。品がないのう、豚面は」
「誰が豚だ! 吐かなかったなら文句言うなブヒ」
ノエラは口元の血を指で拭い、立ち上がった。先ほどまでの弱々しさが消える。黒衣の裾から紅い霧が広がり、檻を縛る拘束術式だけを包んだ。
「借りは返す。豚面、子供を下がらせよ」
「オラはガズルだ!」
「妾はノエラ・ヴェイン。喜べ、我の名をしかと覚えるがよい」
「覚えた! ちび吸血鬼!」
「く......その呼び方を続ければ、次は牙を一本増やしてやるぞ」
ガズルが大斧で檻の蝶番を砕き、ノエラが首輪の術式を爪先で切り裂く。まだ生きていた奴隷商が背後から弩を向けたが、ガズルは子供の前へ立ち、肩で矢を受けた。
「ブヒッ、痛え!」
「避けぬか、馬鹿者!」
「後ろに子供がいる!」
「ならば妾が前を終わらせる!」
ノエラの瞳が紅く染まる。奴隷商の影が立ち上がり、本人の四肢へ絡みついた。
「奪った命で妾は満たされぬ。ゆえに、おぬしの血など一滴も要らぬ。――”妾が欲しいのは、血ではない。与えると決めた意思じゃ”」
影が閉じ、最後の奴隷商は地面へ倒れた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
子供たちを檻から出すと、ガズルは大鍋を火へかけた。食料袋から豆、干し肉、固い根菜を惜しげもなく放り込み、全員へ木椀を配っていく。
「腹減った奴から食え。二杯目もある。ブヒッ、遠慮して倒れたら鍋ごと口へ突っ込むぞ」
「脅し方が優しくないのう」
「食わせりゃ優しい」
ノエラは火の外へ座っていた。子供の一人が椀を持って近づく。
「お姉ちゃんも食べる?」
「妾は普通の食事では腹が満たされぬのじゃ」
「じゃあ、ぼくの血……」
差し出された小さな腕を、ノエラはすぐ外套で包んだ。
「ならぬ。子供の善意は、飢えた大人が飲んでよい理由にならぬ。大きくなって、それでも妾へ分けたいと思った時にもう一度言うがよい」
その言葉を口にした時だけ、ノエラの指が喉元の銀の薔薇飾りへ触れた。かつて小さな手が、その飾りを引っ張って笑った記憶を、振り払うように。
「その時、お姉ちゃんにまた会える?」
「妾は不老じゃ。おぬしが皺だらけになっても、この美貌のまま待っておる」
「自分で美貌って言った!」
「事実は堂々と言うものじゃ」
子供が笑った。ノエラも牙を隠さず笑う。魔性の女が見せた表情は、獲物を惑わす美しさよりずっと幼く、少しだけ寂しかった。
その背後で、ガズルが救出した子供の背を洗っていた手を止める。
「ノエラ。これ見ろ」
肩甲骨の間へ、白い環の焼印が刻まれていた。円は完全に閉じ、内側に細い文字が詰め込まれている。奴隷商の所有印とは、環の閉じ方も文字の並びも違う。ノエラが指を近づけると、印は彼女の紅い魔力を吸い、完成しかけた術式のように光った。
「白い閉環……出口を持たぬ印じゃ。子を商品へ変えるためだけの術式ではないの」
「消せるか」
「今は無理じゃ。切れば、この子の魂まで傷つく」
「なら、消せる奴を探す」
「王都か、魔王領か、教会か。とても面倒な旅になるぞ」
「ブヒッ。腹が減った奴を見捨てたら、オークの牙は飾りだ。面倒でも連れていく」
人間の子供が鍋を抱えたまま、ガズルを見上げた。
「ガズル兄ちゃん、王様みたい」
「オラ、王にはならん」
「どうして?」
「王になったら、椅子に座って命令しなきゃならねえ。オレは鍋を運ぶ方が向いてるかんなあ」
「でも、みんなガズル兄ちゃんのところへ来るよ、だってだいすきだもん!」
「来たら食わせる。帰りたきゃ帰す。それだけだブヒ」
ノエラが火の向こうで目を細めた。
「王になりたくない者ほど、王のようなことを言うものじゃ」
「お前もだ。許可のない血は飲まねえくせに、子供の許可まで断った」
「妾は美しく気高いからのう」
「ちびで腹ぺこなだけじゃねえか」
「この――豚面め!」
「吸血ちび!」
二人が睨み合う。子供たちが先に笑った。
同じ火を囲む者へ食料と熱を分けるオーク。差し出す意思がある血だけを受け取り、その意思ごと守ろうとする不老の吸血種。
ガズルの胸では、火種のような王核が一度だけ脈打った。ノエラの紅い瞳の奥でも、細い血色の環が閉じずに残る。
形成率は、まだ一%にも届かない。
それから百年以上が過ぎた。鍋を運ぶ方が向いていると言ったオークは、多くの種族から王と呼ばれるようになった。血を奪わないと決めた半吸血種は、契約を永遠に閉じない【夜契】の魔王となった。それでも二人は、空から誰かが落ちてくる夜には、今も最初に鍋へ火を入れる。
【今回の登場人物】
・ノエラ・ヴェイン
実年齢は二百五十歳以上。正確な生年を本人も明かさない。姿の変わらない小柄で美しい半吸血種。許可のない血を一滴も飲めない飢えを抱えながら、子供の善意まで利用することを拒んだ女。
・ガズル・オルグ
感情が高ぶると「ブヒッ」と鼻息が漏れる大柄なオーク。誤解を認めて謝り、自分の意思で血と食事と帰る場所を差し出した護衛長。
・救出された子供たち
種族の異なる檻から救い出され、ノエラとガズルの敵味方の誤解を解き、一人が白い閉環の焼印を持っていた子供たち。
【今回の能力・設定メモ】
・ノエラは成人の半吸血種で、不老のため外見は若いままですが、幼い人物としては扱いません。
・ノエラの身体は、当人が意識して自発的に「与える」と認めた血だけを受けつけます。脅迫、死者、無意識、子供の一時的な善意は摂取対象にしません。
・ガズルの「ブヒッ」は、笑い、怒り、照れなどで漏れるオーク特有の強い鼻息です。知性の程度を示す表現にはしません。
・二人はまだ【魔王種】ではありません。【王核】が形成され始めた兆候だけが現れています。
【次回】
学院では、迷宮事故で不足した治療薬を運ぶ夜間依頼が始まります。




