第65話「出口のない試験」
人間は、両手と両足を使って魔法を外へ出します。
では、腕が四本あり、壊れた器官まで作り直せる魔物なら。
それはどうなるのでしょうか――。
中央区画の天井近くで、鉄鎖が一本ずつ外れていった。
最後の固定具が落ちると、巨大な鬼は背を伸ばした。灰黒色の甲殻に覆われた身体。太い脚が二本。胸の左右から伸びる主腕二本に加え、肋骨の下から一回り細い副腕が二本生えている。右の主腕には刃を受け止める厚い甲板、左には術式を散らす重なり板。二本の副腕の掌には、それぞれ赤と淡緑の術式紋が脈打っていた。
さらに、魔物の右眼の奥だけが炉のように赤い。
【四腕適応甲殻鬼】
【生体導出端:四掌/右眼窩/両肩排圧孔】
【記録属性:熱/風圧/地質/斬撃】
【自己修復:作動】
【適応処理:開始】
「四本腕……授業で聞いた個体だ」
リィナが真剣を抜いた。靴底の【双踵噴射環】が、鬼の魔力圧へ反応して細く震える。
「人間は両手で魔法を作ったら、足で逃げるしかない。でも、あれは四本で撃ちながら二本で走れる」
「右眼も導出端です」
セレネは実験用眼鏡をかけ、鬼の眼窩へ重なった術式層を追った。
「眼球が魔法を作っているのではありません。奥の魔導腺で熱を圧縮し、眼を照準へ使っています」
「撃ったら眼まで焼けるんじゃないのか」
ガレスが問うた直後、鬼の右眼が白く輝いた。
「散開!」
熱線が中央区画を横切った。全員が床へ伏せる。背後の石壁が赤熱し、遅れて溶けた筋が走った。
鬼の右眼から黒い煙が上がる。眼球表面はひび割れ、赤い液が頬を伝った。
「自分で焼いた……」
「終わっていません」
フィアが記録板を向けた。
【右眼窩損傷:四十三%】
【修復開始】
【再使用予測:二十秒】
ひびの内側から新しい膜が盛り上がり、焼けた眼を押し出すように覆っていく。
「人間なら失明して終わる出力を、壊れる前提で使うのか」
レイルは刃なしの模擬剣を低く構えた。師匠から譲られた【七環導杖】は迷宮の別区画へ転送されたまま。腰の短杖はあるが、四腕鬼の突進へ抜き直す時間がない。
「授業の答え合わせとしては、分かりやすすぎるな」
「感心している場合ではありません」
セレネの淡い金髪の周囲へ、二つの光球が浮かぶ。
「適応更新は攻撃を受けてから約二秒。自己修復中は、修復部位へ魔力が集まります。攻撃、適応、修復を同時に行えば、どこかの流量が落ちるはずです」
「どこへ落ちるかを見つければいい」
フィアが続ける。
「現時点では未確認です。同じ攻撃を繰り返せば、確認前に適応されます」
アルドが細身剣を前へ向けた。
「俺が正面を取る。リィナは右から副腕を抑えろ。ガレスは熱属性を更新直後へ。トーマは扉の開閉術式を探せ」
「レイルは?」
リィナが聞く。
「杖なしだ。後方で全体を見ろ」
「後ろへ置けば安全って決めないで。あの眼、射線が通れば後ろまで焼くよ」
「では、お前はどうする」
「レイルは中央。前へ出すんじゃなくて、声が全員へ届く場所。私が近づかせない」
アルドは一拍だけ黙り、レイルを見た。
「異論は」
「ない。左右へ別の術式を作る」
「杖なしで【双路形成】を?」
セレネが眉を寄せる。
「第一段階の【同式双掌】は、左右へ同じ術式を形成して出力差を減らす訓練。今使うのは第二段階の【異式双掌】だ。右に風圧、左に地質。二つを同時に存在させ、結着は順番に行う」
「移動中の成功率は低いです」
「止まれば眼窩熱線の標的になる」
「……形成順は私が指示します。混線した場合、両方を捨ててください」
「一方だけ残せる可能性は」
「今は成功率より生存率です」
リィナは一瞬、何か言いたそうな顔をしたが、前を向き、剣を握り直した。
「分かった。私が道を作る。レイル、後ろに下がりすぎないで」
「普通は前へ出るなと言う場面だろ?」
「前へ出ろとは言ってない。離れすぎると、あんたの声が聞こえないって言ってるの。私が次へ踏み込む場所を、ちゃんと近くで見てて!」
金茶色の瞳が、まっすぐレイルを見る。
「見る。だから、リィナも足の噴射は一回までだ」
「分かってる」
「止まれない場所では使うな」
「分かってるってばあ!」
四腕鬼が六肢で床を蹴った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
アルドが正面の主腕を受け止めた。細身剣と甲殻板がぶつかり、白い制服の裾が衝撃で跳ねる。もう一本の主腕が横から迫るが、アルドは身体を沈め、剣の腹で軌道を上へ流した。
「”始めた。なら、終える!”」
上側の二本をアルドへ向けたまま、鬼の副腕が別々に動く。右の掌から火弾。左から圧縮風。二つの術式を撃ちながら、太い脚は止まらない。
「こいつ......俺たち人間より、一度に使える出口が多すぎるぞ!」
ガレスが火弾を相殺し、トーマの【土壁】が風圧を受け止める。壁の中央が砕けたが、二人へ届く前に勢いは落ちた。
リィナは右側へ踏み込んだ。真剣が副腕の肘へ入り、浅い傷を刻む。斬撃を最後まで振り抜かず、弾かれた反動を次の突きへ移す。突きが外れれば身体を回し切らず、足を入れ替えて膝裏へ低い斬撃を送る。
鬼は三手目で対応した。副腕の甲殻が斜めへせり出し、リィナの刃を滑らせる。
「更新!」
フィアの声が飛ぶ。
「右手、風圧。左手、地質。風を先に!」
セレネの指示へ合わせ、レイルは右掌へ【風弾】、左掌へ【石弾】を形成する。胸の中央で経路を分ける。右肩へ風。左脇から地質。二つを同時に結着せず、右の風弾だけを副腕の手首へ撃った。
掌の術式紋が逸れ、圧縮風が天井へ抜ける。
「左、今!」
形成済みの石弾を、膝裏の傷へ打ち込む。
その衝撃で、甲殻が割れた。
「通った!」
トーマが叫ぶ。しかし、この攻撃では四腕鬼は倒れない。割れた膝へ灰色の肉が盛り上がり、新しい石質層が傷口を塞いでいく。
【左膝損傷:三十一%】
【地質適応:追加】
【自己修復:進行】
「こいつ、生意気にも傷と対策を、同時に作ってる」
「でも、修復へ魔力が寄りました!」
セレネの声が鋭くなる。
「右眼窩の再生が遅れています。修復経路は完全独立ではありません!」
「なら、壊す場所を増やせば全部が遅くなるってことだな!」
レイルが叫ぶ。
「倒し切る火力を一箇所へ集めるんじゃない。四つの出口へ、別々の修理を押しつけてやる!」
「面倒な倒し方を選んでんじゃねえ!」
ガレスが怒鳴りながらも、狙いを胸ではなく右副腕へ変えた。最小の火弾が掌を焼き、熱属性の術式紋を崩す。
「最大火力を撃つと、その瞬間に熱へ適応する。今は壊すだけでいい!」
「分かってる! 言われなくても出力は落とした!」
トーマの土壁が左肩の排圧孔を塞ぐ。アルドは主腕の一つを床へ押しつけ、剣で傷を増やす。四腕鬼の身体で、眼、膝、右副腕、左肩の四箇所へ修復光が走った。
その瞬間、胸中央の甲殻だけが薄くなる。
「胸核、露出まで一・六秒!」
フィアが記録した。
「リィナ、中央へ!」
レイルの声へ、リィナは鬼の脇を抜けようとした。だが、残った副腕が横から迫る。普通の一歩では届かない。
右足へ魔力が落ちる。
「お願い、この一回だけ――【踏圧】!」
短い風が靴底で爆ぜた。リィナの身体が副腕の内側へ滑り込む。加速しすぎない。剣を振るためではなく、次の足場へ届くための一歩。
ザシュッ。真剣が胸甲殻の継ぎ目へ入った。
そこで、斬撃の終わりだけが僅かに重くなった。
幼い頃から何度も起きていた違和感。構えへ戻る最後の一動作だけが、誰かに指でつままれたように遅れる。
リィナは重みを押し切らなかった。右足の噴射で得た勢いと、終わらない斬撃を、次の左足へ渡す。
レイルの右目へ、閉じ切らない輪が浮かんだ。
『未完反応ヲ検出』
『対象――リィナ・アルセイルノ剣撃終端』
『保持時間、〇・二秒未満。記録槽ヘ定着セズ、即時返還』
『過去反応ト一致。発動者、レイル・アルヴァート』
「何だって……?」
レイルの思考が一瞬だけ途切れた。
フィアが記録板を見開く。
「原因未確定としていた過去六件と一致しました」
「レイル!」
リィナの声で我に返る。再生途中の眼窩から熱線の兆候が走っていた。
レイルは模擬剣を立て、四腕鬼の主腕を斜めへ流す。衝撃で腕が痺れた。
「俺は使ってない!」
「”意図して”は、でしょ!もう!」
「リィナの身体動作を対象にする方法は分からない!」
「今、やってるじゃんか!」
怒鳴り合いながらも、リィナの剣は止まらない。彼女は鬼の攻撃を受け流し、レイルの前へ道を開いた。そしてなぜかリィナは笑顔で剣をふるっていた。
レイルの胸へ、冷たい恐怖が広がる。自分は何年も、リィナの剣へ勝手に触れていた。本人が努力で組み上げた動きに【未完】が混ざっていた。もし関節を壊していたら。もし一撃を遅らせたせいで、魔物の爪が届いていたら。そう考えると恐ろしくなった。
「もう!レイル、集中してください!」
セレネがレイルの肩をつかんだ。
「今考えるべき条件は、リィナが次に踏み込む場所です。過去の検証は生還後に行いましょう」
「でも、俺が――」
「ほら、見てください。リィナは止まっていません!」
青紫色の瞳が強く光った。
「あなたが今止まれば、彼女が一人で四本の腕を受けなくちゃいけません。責任を考えるなら、まず現在の一撃を完成させてください!」
レイルは息を吸った。リィナを見る。赤栗色の髪が激しく揺れ、金茶色の目は四腕鬼の先だけを見ている。自分の剣へ何が起きていたかを知っても、彼女は足を止めなかった。
「リィナ、次の終端でも違和感が来るかもしれない!」
「知ってる!」
「無理に戻すなよ!」
「それも知ってる! 私が何年これで振ってきたと思ってるの!」
四腕鬼の眼窩が再生を終え、白熱した。
「眼が戻る! 十二秒より早い!」
「ガレス、左肩へ熱! トーマ、排圧孔をもう一度塞げ! アルドは上の二本を外へ!」
全員の攻撃が別の損傷を作る。鬼の修復光が再び分散し、胸核の周囲が薄くなった。
「セレネ、更新まで!」
「一・四秒。右眼の熱耐性が解除されます!」
「右手に風。左の石弾は保持したまま!」
レイルは【異式双掌】の二つを崩さず、右の風だけを結着した。トーマが扉の開閉詠唱を完成させ、背後から外気が一瞬流れ込む。その風を加速へ重ね、鬼の胸甲殻へ通す。
リィナが斬る。やはり終端で重みが生まれる。
彼女は戻らず、左足へ移した。試作環の制動板が短く鳴る。完全には止まらない。だが、行き過ぎる速度だけを削り、次の踏み込みへ身体を残した。
「これは私だけの剣だよ!」
斬撃が二つ目の継ぎ目を開く。
「レイルの力が混ざってても、次へ進むって決めたのは私自身!」
三つ目。
「【無終剣・継歩】――”止まったんじゃない。次へつないだの!”」
このとき、初めて、リィナの技へ名前がついた。
最後まで振り抜けない一撃を失敗として押し切らず、終わる前の足を次の始まりにする。
胸甲殻が三方向から開き、レイルの風弾が露出した胸核へ届いた。
しかし、四腕鬼はなおも再生しようとした。右眼、両副腕、膝、肩、胸核。修復命令が全身へ走り、行き先を失った魔力が体内で衝突する。
【自己修復:過負荷】
【導出端競合】
【適応処理:停止】
巨体が膝をつき、四本の腕が順番に床へ落ちた。無事、倒したのだ。
迷宮の壁へ亀裂が走り、出口の封印が消える。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
外へ出たあと、リィナは治療より先にレイルを訓練場の壁際へ連れていった。真剣は鞘へ戻している。それでも怒っていることは、金茶色の目を見れば分かった。
「ね、いつから?」
「分からない。ニアの過去記録では、少なくとも十歳より前から微弱な反応があったようだ」
「私が木剣を振ってた頃から?」
「たぶん」
「止めようとした?」
「意識してない。リィナの一撃が終わった後、次の敵が来るのを見て……終わるなとか、止まるなとか、思ったことはある」
「それが【未完】になったの?」
「可能性が高いな」
レイルは視線を下げた。
「本当にごめん。身体へ使わないと決めてたのに、勝手に触ってた」
リィナの手が上がる。拳が来ると思い、レイルは避けなかった。けれど、触れたのは額だった。指先が、右目の閉じない輪の残りを確かめるように軽く押す。
「怒ってるよ」
「うん」
「勝手に使ったことも、全部一人で怖がろうとしてることも」
「怖がる理由はある」
「あるよ。でも、私の剣まで全部レイルのせいにしないで!」
リィナは剣帯へ手を置いた。
「違和感があったから、次へつなぐことを思いついた。毎朝振って、転んで、手の皮が破れて、それでも続けたのは私。今日、名前を決めたのも私」
「【無終剣・継歩】」
「うん。これは、レイルの【未完】が入口にあった。でも、私が歩いた道だよ。今日の【踏圧】も、ロッテが道具を作っただけじゃない。止まれなくてぶつかって、何度もやり直したのは私だから」
レイルはやっと顔を上げた。
「これからは、発動したらすぐ言う」
「私も違和感があったら言う。勝手に実験はなしね」
「当然だ」
「あと、私が本当に殴る時は避けていいから」
「今までも、避けると追撃が来たけど」
「それは余計なこと言うから!!」
今度こそ拳が来た。レイルは半歩ずれて避ける。
「あっ、避けた!」
「避けていいと言っただろ」
「今のは避けていいけど、なんか腹立つ!!」
リィナが剣を振り上げながら追いかけ、レイルが逃げる。少し離れた場所で、セレネが二人を見ていた。淡い金髪の周囲へ、小さな光が浮かぶ。
「フィア。現在の感情を記録から除外できますか」
「理由を」
「検証前だからです」
「心拍上昇、他者への注視、会話参加希望を確認しています」
「除外してください」
「訂正します。非公開補助項目へ移します」
セレネは二人の距離を見た。自分が知っているのは余白の文字と魔力経路、術式の癖。リィナが知っているのは剣を振る肩の高さ、怖がる時に上がる右肩、何年分もの朝と怪我だった。
そこへ割り込むつもりがあるのか。答えはまだ計算できない。
ただ、レイルがリィナへ謝る声を聞いて胸が狭くなる理由を、研究や関心という言葉だけでは説明できなくなっていた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
今回の迷宮事故の公式記録には、次の一文が加えられた。
【他者の身体動作に対する固有律【未完】の無意識発動を確認】
【対象:リィナ・アルセイルの剣撃終端】
【保持時間:〇・二秒未満】
【長期保持なし/即時返還】
【意図的再現:禁止】
さらに、四腕鬼の記録も残った。
【多端導出個体:四掌/眼窩/肩部】
【自己修復は無限ではない】
【同時修復箇所の増加により、魔力経路競合と再生遅延を確認】
レイルの能力は、自分の魔法だけに閉じてはいなかった。
魔物の身体も、一つの出口だけで作られてはいなかった。
二つの事実は、新しい可能性より先に、新しい責任を連れてきた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
【異式双掌】を実戦運用しながら、リィナの剣撃終端へ長年【未完】を無意識発動していた事実を知り、自分の責任として謝罪した少年。
・リィナ・アルセイル
【踏圧】と未完成の制動を剣へ接続し、【未完】の影響を認めながら、自分の鍛錬と選択までレイルへ渡さず【無終剣・継歩】を名づけた剣士。
・セレネ・グランツ
四腕鬼の修復経路と適応時間を読み、戦闘中はレイルを過去の恐怖から現在の判断へ引き戻した少女。
・アルド・クロイツ
四腕のうち主腕二本を正面で受け、仲間が複数の損傷を作るまで進路を維持した騎士科生。
・トーマ・フェルン
土壁と開閉詠唱で排圧孔を塞ぎ、四腕鬼の自己修復へ新しい負荷を一件追加した魔導科生。
・ガレス・ベイロン
最大火力ではなく小さな熱損傷を選び、適応を増やさず修復先だけを分散させた少年。
・フィア・レコード
過去六件の微小反応と四腕鬼の多端導出・自己修復を、別々の条件記録として確定した記録科生。
・ニア
リィナの剣撃終端へ起きた〇・二秒未満の【未完】反応を過去記録と照合した案内人格。
【今回の能力・設定メモ】
・【同式双掌】は、左右へ同じ術式を形成する【双路形成】第一段階です。
・【異式双掌】は、左右へ異なる術式を形成し、順番に結着する第二段階です。
・四腕適応甲殻鬼は、四本の掌と眼窩を導出端として使い、器官を損傷させながら高出力を放ちます。
・自己修復には魔力と経路が必要です。同時に多数箇所を修復させると、再生速度と適応処理が低下します。
・【無終剣】はリィナ自身の訓練で作られた独自流派であり、【未完】がなければ成立しない固有能力ではありません。
【次回】
迷宮事故の治療薬を運ぶ夜。ロッテが作った箱は、倒した敵より割らなかった瓶を記録します。




