第64話「杖のない魔法使い」
杖を失っても、魔法まで失うわけではありません。
ただし、背負った友人の重さは、どんな杖も代わりに支えてくれません。
最初に現れたのは、疑似魔物ではなかった。通路の曲がり角から飛び出した石顎犬は、灰色の皮膚へ本物の唾液を垂らし、床を蹴った。魔力膜なら透けて見えるはずの胸核もない。
「この魔物――、実体です!」
セレネの声と同時に、レイルは横へ踏み込んだ。杖はない。腰の短杖へ手を伸ばすには、犬型の突進が速すぎる。レイルは壁際の武器保管架から、刃のない模擬剣を一本引き抜いた。実戦重量の鉄芯が手へ沈む。剣士のように振りかぶらず、身体の前へ縦に立てる。石顎犬の牙が剣腹へ噛みついた。
まともに受ければ腕ごと持っていかれる。そう考えたレイルは右足を引き、噛みつく力を斜めへ流した。犬の頭が壁へ逸れたところへ柄頭を打ち込み、敵の身体を押しのける。
「レイル、後ろ!」
トーマの叫びで屈む。二匹目の爪が前髪をかすめた。レイルは床へ片手をつき、朝練で何百回も繰り返した横転で距離を取る。暗い灰褐色の髪へ石粉がつき、青灰色の瞳が二匹の足と仲間の位置を同時に追った。
「セレネ、左を照らして。ガレス、火はまだ撃つな。トーマは壁を作る準備」
「なぜ俺が待つ」
「ここで火を撃つと、狭い通路で全員が熱を受けるだろ」
「威力を落とせる」
「トーマが詠唱を始めるまで待て。出口を一つにする」
トーマは杖を上げた。
「流れを束ね、我が手へ集い、土の壁と成れ――【土壁】!」
床から土壁が上がり、二匹のうち一匹を通路の反対側へ隔てる。
「今だ、ガレス!」
「炎よ、短く穿て――【火弾】!」
火弾は一匹の鼻先へ弾け、突進を止めた。一発では倒し切れない。レイルは模擬剣で前脚を払い、セレネが選んだ【水縄】が後脚へ絡む。四人は石顎犬を振り切り、次の扉へ駆け込んだ。扉を閉めた直後、トーマが壁へ手をついた。
「う、ごめん。脚が……」
右足首が不自然に腫れている。最初の突進を避けた時に捻ったらしい。レイルはしゃがみ、彼の靴紐を緩めた。
「骨の形は崩れていない。が、体重はかけない方がいいな。ここでは治療もろくにできない」
「僕を置いて、先に中央核へ――」
「四名で到達が最初の課題だったろ」
「迷宮が変わったなら、課題も何も関係ないよ」
「関係ある。俺たちが四人で入った事実は変わってないからだ。出るときも四人なのが課題クリアだ」
レイルはトーマへ背を向けた。
「よし、乗れ」
「でも、レイルは魔法を使うだろ? 邪魔になっちゃうよ」
「両手が塞がるのは困るから、腕を俺の肩へ回せ。脚は腰の帯で固定する」
「僕、見た目より重いかもしれないよ。それに、背負ったまま戦ったらレイルの足まで止まる」
「大丈夫だ。見た感じ――リィナより軽い。荷物を含めても、朝練の搬送重量より下だ」
「ええっ、そこを基準にするの? リィナを背負ったことがあるの?」
「負傷時の搬送訓練だ。交代で担いで、坂道と狭い通路を走る。本人は毎回、私なら歩けるって怒るけどな」
セレネが一瞬だけレイルを見た。
「で、レイル。それは具体的に何回ですか」
「はぁ? なぜ今それを確認する」
「比較条件を記録したいので」
「たぶん二十回以上かな」
「そんなに!?」
トーマの方が驚いた。
「毎朝の訓練で、交代して担いで走るんだ」
「リィナもレイルを?」
「彼女、俺より速いぞ」
セレネの淡い金髪の周囲へ、小さな光球が二つ浮いた。
『情動由来ノ光属性漏出ヲ確認シマシタにゃ』
「ニア、不要な記録です」
『危険性ハ低イデスにゃ』
「低いなら言わなくて結構です」
セレネは眼鏡を取り出してかけ、地図へ視線を戻した。細い銀縁の奥で青紫の瞳がいつもより忙しく動いている。レイルはそんな理由が分からず、トーマを背負って歩き出した。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
迷宮は、彼らが避けたいものを順番に差し出した。トーマが詠唱を始めると、壁から過去の笑い声が流れた。
『また止まった』
『最後まで言えないなら黙ってろ』
『一度聞いただけで覚えても、撃てないなら意味がない』
トーマの喉が固まり、声が細くなる。
「止めてもいいんだ」
背負ったまま、レイルが言った。
「今は試験の評価より、生きて進む方が先だ」
「でも、迷宮は僕が唱えないと扉を開けない」
「なら、俺たちが聞く。壁の声なんかに聞かせる必要はない」
セレネがトーマの正面へ立つ。
「私が結着句のテンポを取ります。ガレスは後ろを見てください」
ガレスは顔をしかめた。
「俺がこいつを守るのか。こいつは、俺が声を止めた相手だぞ」
「だからこそ、今ここで何をするかはあなたが選べます。嫌なら、レイルが背負ったまま前衛と詠唱補助を続けます」
「それは無理だろ。こいつを背負って、剣を持って、さらに詠唱まで支えたら、先にレイルが潰れる」
「では役割を選んでください。過去の記録を消す選択肢はありませんが、次の一件を何にするかは決められます」
ガレスは舌打ちし、後ろへ向いた。
「早く唱えろ。俺が見てる間に終わらせちまえ」
言い方は優しくない。それでも笑い声の側には立たなかった。
トーマが息を吸う。セレネの指が拍を刻んでゆく。
「流れを束ね、我が手へ集い、土の壁と成れ――【土壁】」
今度は結着句が通り、扉の封印が外れた。それでも迷宮の笑い声は止まらない。
トーマは震えながらも、自分の声で最後まで言い切った。
「で、できた」
「はい。記録しました」
セレネが短く答えた。
「今の成功は、壁の声が消えた後ではありません。聞こえたままで成功したんですよ」
トーマはレイルの背で小さく頷いた。
その次の区画では、ガレスの前へ兄によく似た幻像が現れた。
『遅い。出力が足りない。俺なら一度で終わらせるがな、本当に不出来な弟だ』
ガレスは火弾を撃とうとした。幻像の足元には、倒れた生徒を模した人形が置かれている。大火力を使えば巻き込む配置だった。
「撃つな」
レイルが止めた。
「俺に命令するんじゃねえ!」
「撃てば人形が燃える。試験なら減点、本物なら人が死んでいる」
「じゃあ、俺は何をすればいいってんだ!」
「そこだ。前に立て」
レイルは模擬剣をガレスへ投げた。
「火を使わず、トーマの詠唱が終わるまで守れ」
「俺は剣士じゃない」
「安心しろ、俺もだ」
ガレスは模擬剣を受け取った。幻像が放つ火弾を剣腹で受け、肩を焼かれながら立つ。上手くはない。二発目で膝をつき、三発目はセレネの水盾が防いだ。それでも、トーマの【土壁】が完成するまで退かなかった。壁が幻像を隔てた後、ガレスは模擬剣を床へ置いた。
「はぁ、はぁ......これで、上回ったことになるのか」
「誰を」
「兄を!」
「知らない、比較しようもない。俺はお前の兄さんの戦いを見てないからな」
レイルは答えた。
「でも、今のガレスは火力を使わずに一人守った。記録にはそれが残る。......大体、お前はお前だろ。今やれることをやりきった。それだけでいい」
ガレスは褒められた顔をしなかった。ただ、床に置いた模擬剣をもう一度拾った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
レイルたちがダンジョンで苦戦している同じ頃、武技班は崩れた橋の上で実在する魔物に囲まれていた。
リィナは真剣の安全封印を親指で外し、鞘から抜けた刃が、迷宮灯の白い光を細く返す。
この剣は、幼い頃から使った木剣より長く、刃なし模擬剣より重心が鋭い。彼女は赤栗色の髪を揺らし、金茶色の目で敵の足と橋の亀裂を一度に見た。
「左の二体を俺が止める。全員、最短で出口へ進め」
アルドが白い制服の上から胸当てを締め、細身剣を抜いた。金髪と蒼い瞳、乱れない姿勢は四年前と変わらないが、肩と腕には騎士科で積み上げた鍛錬がはっきり出ている。
「最短の橋、ひびが入ってる。先頭の二人が渡れても、最後の一人まで持つ保証がない」
「今の亀裂なら渡れる。迷えば敵が増える」
「最初の数人だけならね。後ろへ残る人ほど、崩れた橋と魔物を両方背負うことになる」
「先頭から渡し、荷重を分散すれば――」
「後ろに残る人がいるでしょ。私は、渡れた人だけを成功扱いにしたくない」
リィナは一匹目の爪を剣の腹で流し、返す刃を二匹目の関節へ当てた。斬撃を最後まで振り抜かず、足を橋の内側へ移して次の敵へつなぐ。足元では、試作二号の【双踵噴射環】が淡く明滅していたが、彼女はまだ使わなかった。
試作品は、速くなる許可証ではない。右足の【踏圧】は一度だけ。左足の【逆噴制動】は、指定線で止まれた実績がない。ロッテから渡された条件札には、”橋上使用禁止”とまで書かれていた。
「前へ進むなら、後ろも一緒。私は誰も橋の向こうに置かない」
「全員を守ろうとして道を失うな」
「アルドは前を止めて。私が道を選ぶ」
「俺に命令するな」
「じゃあ、お願い。今は言い争ってる時間ないから!」
アルドは一瞬だけ眉を寄せ、正面へ向き直った。
「三十秒だ」
「十分よ!」
アルドが敵の突進を受け止める。リィナは橋の側面を走り、崩れた欄干の下に残る保守通路を見つけた。狭いが、一人ずつなら通れる。
「一人ずつ下へ! 剣を持ってる人は先に降りて、下で受け止めて!」
「リィナ、最後の板が――!」
後方の少女が足を乗せた瞬間、橋板へ走っていた亀裂が開いた。少女の身体が傾き、指が崩れた欄干を滑る。
普通に踏み込んだのでは、半歩だけ足りない。
リィナは右足へ魔力を落とした。
「一回だけなら――【踏圧】!」
靴底から短い風が弾けた。身体が橋を蹴るより早く前へ滑り、リィナの左手が少女の腕をつかむ。勢いを殺すため左足を外へ向けたが、【逆噴制動】は使わない。亀裂の上で逆風を出せば、足場そのものが崩れる。
代わりに肩から残った欄干へぶつかり、二人分の速度を身体で受けた。
「っ……捕まえた!」
「肩は!?」
「動く! 先に降りて!」
少女を保守通路へ渡したあと、アルドが敵を押し返しながら叫んだ。
「今の加速は何だ!」
「学院で習い始めた一歩! まだ止まれないから、二回目はできないけどね!」
「未完成の技を橋で使うな!」
「使わなかったら一人落ちてたでしょ!」
「結果で手順を正当化するな。だが――今は続けろ!」
「言ってること変わってるし。そっちこそ、あと十五秒!」
「数えていたのか!」
「任せた時間は数えるよ! 戦いながらでもね!!」
別班の生徒を先に降ろし、リィナは最後に残った。その時、迷宮壁へ管制映像が一瞬映る。トーマを背負い、模擬剣を片手に進むレイル。その横で、眼鏡をかけたセレネが地図を支え、彼の肩へ触れて魔力経路を確認していた。
映像はすぐ消えた。リィナの胸の奥へ、剣では切れない小さな棘が刺さった。レイルが誰かを助けている。それは嬉しい。だが――、自分のいない場所で、セレネがレイルの苦しさを見つけている。それは、素直には喜べるものではなかった。
「おい、リィナ!」
アルドの声で我に返る。最後の一人が保守通路へ入った。リィナは床を蹴り、敵の爪を受け流す。レイルの隣へ向いた棘は後回しにした。今は、自分の後ろにいる四人を生きて次へ進ませる。
「道、開いた! アルド、下がって!」
「撤退を開始する。全員、順番を崩すな!」
二人は最後まで橋へ残り、武技班を保守通路へ送り込んだ。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
魔導班が中央近くへ到達した時、トーマは自分で歩けると言い張った。
「足はまだ腫れてるぞ」
「でも、ずっと背負わせたらレイルが先に疲れちゃうでしょ?」
「俺は、少ないといっても標準域の魔力量がある。身体強化へ回せば――」
「魔力があっても、脚は別です」
セレネがレイルの肩へ触れた。外套越しにも筋肉が固くなり、呼吸が浅い。けれどレイルは顔へ出さず、次の扉を見ている。
「下ろしてください。私とガレスで肩を貸します」
「セレネは術式を維持する役割だ」
「一人で全部の役割を持とうとしないでください」
「俺が全部を担当しているわけじゃない。後方はガレス、詠唱はトーマ、経路はセレネだ」
「では、運搬も分けられるでしょう?」
セレネの青紫の目が、まっすぐレイルを見た。
「あなたが倒れた場合、退路を最も多く記憶している人がいなくなります。それは効率が悪いです」
「効率の話か」
「……今は、それで構いません」
レイルは少し迷い、トーマを下ろした。セレネとガレスが左右から肩を貸す。役割を渡した途端、背中が軽くなった。その軽さへ安心するより先に、レイルは自分が限界近くまで持とうとしていたことに気づく。
「ありがとう」
短く言うと、セレネの髪の周囲へまた光球が浮かんだ。彼女は眼鏡を押し上げ、顔を地図へ向ける。
「謝意を受領しました。次の分岐は右です」
彼女は、自身の胸の内側で起きた変化へ、まだ名前をつけるつもりはなかった。ただ、レイルが自分の計画より負傷者を優先し、次には役割を渡した姿を、セレネは余白の文字より近い場所で見ていた。その先から、迷宮全体を揺らす重い足音が近づいてきた。
【最終試験体・形成完了】
壁へ浮かんだ文字の下で、巨大な影が立ち上がった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
杖を失っても模擬剣と朝練の足運びで仲間を守り、負傷したトーマを背負った後、セレネの指摘を受けて運搬役を分けた魔法使い。
・セレネ・グランツ
予測不能な迷宮で術式と経路を組み直し、負傷者を優先するレイルを間近で見たことで、余白の相手へ抱く感情が変わり始めた少女。
・トーマ・フェルン
過去の笑い声を流されても仲間へ向けて詠唱し、妨害が残る中で【土壁】を完成させた魔導科生。
・ガレス・ベイロン
兄の幻像へ火力で勝とうとせず、模擬剣でトーマを守る役目を選び、その事実だけを記録へ残した処分中の生徒。
・リィナ・アルセイル
別区画で武技班を率い、使用制限中の【踏圧】を一度だけ救助へ使いながら、レイルとセレネの距離へ初めて明確な嫉妬を覚えた剣士。
・アルド・クロイツ
リィナと進路を巡って対立しつつ、任された三十秒を守り切り、最後の一人が退くまで正面を支えた騎士科生。
・ニア
セレネの感情由来の光属性漏出まで表示し、本人から不要な記録と抗議された案内人格。
【今回の能力・設定メモ】
・レイルの剣術は、回避、受け流し、時間稼ぎ、魔法射線の確保を目的としています。剣士との正面勝負に勝てる段階ではありません。
・リィナは橋上で【踏圧】を一度だけ救助へ使用しました。連続噴射、完全停止、跳躍、空中制御は未習得です。
・セレネの感情は、この時点では本人もどのような気持なのか、わからない段階です。
【次回】
技の終わりに残っていた違和感が、【未完】の記録へ初めて一致します。




