第61話「旧水路の残響」
調査には、比較できる痕跡が必要です。
二件目の都市依頼へ向かいます。
銀札は、ガレスの袖口から落ちなかった。
トーマの詠唱が消えた直後、彼は光った札を握り込み、袖の奥へ隠した。レイルたちが動くより先に自主練習場の鐘が鳴り、別の学生たちが一斉に入ってくる。
「おいガレス、今、何を使った?」
「何の話だ?」
「袖の銀札のことだ、とぼけてるんじゃない」
「家の護符だ。平民の持ち物を覗き込む趣味でもあるのか? ”昨日詠み”――」
そう吐き捨てると、ガレスは仲間と共に立ち去った。
追えば取り押さえられたかもしれない。けれど身体検査をする権限などない。レイルは残った音響記録と魔力波形を教官へ提出した。
しかし、ヘルマン教官の返答は慎重だった。
「消音術式の反応はある。発生源を個人へ結びつけるには弱い。自主練習場には消音用の設備も複数ある」
「袖の札が同時に光りました」
「見たのは何人だ」
「俺とセレネ。リィナはトーマを見ていた」
「札の術式を確認したか」
「できていません」
「なら、次は教官の前で再現させる。勝手に奪ってはいかんぞ。」
報告を終えた翌朝。
学院東側の小訓練場には、白い停止線が十本引かれていた。ロッテはリィナの靴底へ薄い測定環を装着し、両足首へ安全紐を結ぶ。
「今日は噴射しない。足裏まで魔力を通して、外へ出す直前で止める」
「進まないの?」
「進んだら失敗」
「朝練なのに?」
「昨日まで走ってたでしょ。今日は止める場所を覚える」
レイルは安全紐の反対側を握り、地面へ打った固定杭を二度確認した。
「杭は左右二本。予備の支点も――」
「一人を止めるだけで、馬車を固定する準備をしないで」
「リィナの初速は馬車より速い場合がある」
「褒めてる?」
「比較している」
「そこは褒めてよ!」
少し離れた場所で、リオンが金刺繍の運動着を整えていた。高級水筒、交換靴六足、汗拭き布、携帯食、専属料理人が用意した朝食箱まで並んでいる。
「大師匠! 弟子見習い志願者、準備は万全です!」
「荷物を減らせ」
「すべて必要品です」
「走る前から俺と同じことを言うな」
「師弟の証ですな!」
「弟子ではない」
リィナが指を鳴らした。
「リオンは外周三周。無理なら二周。倒れたら終わり」
「三周とは随分と低い目標です!」
「じゃあ五周」
「ひぃっ、やっぱり三周でお願いします!」
リオンが走り出す。
リィナは目を閉じ、足裏へ魔力を流した。
右足の測定環が先に淡く光る。左足へ回すと、腰の辺りで流れが細くなった。
『右足偏流、十六%。左踵ノ導出反応、遅延シテイマスにゃ』
「剣で踏み込む時、右ばかり使ってるからかな」
「右を悪者にしなくていい」
ロッテはしゃがみ、靴底の環を指で示した。
「右は進む足。左は止まる足。今は役割を分けた方が身体に合う」
「左右同じにしないんですか?」
セレネが測定板を見ながら尋ねる。
「最終的には両方使う。でも個体差を消すために三か月使うより、差を前提に安全な一歩を作る」
「誤差ごと運用する、ということですね」
「そう。工学では、癖も部品の一つよ」
リィナはもう一度、両足へ魔力を流した。
右の環が強く光った直後、左も遅れて点く。外へ風は出ない。身体も動かない。
「できたかな?」
「足裏まで届いた。今日はそこまでね」
「一歩も進んでないよ」
「一歩進む前の経路ができた」
「もう一回!」
「回数は十回、それならいい」
「二十回」
「だめ、十回」
「十五」
「十二」
「じゃあ十三で決まり!」
「交渉で一回増やすな」
外周では、リオンが一周目の途中で歩き始めていた。
「大師匠……弟子への試練が……深い……」
「まだ半周だ」
「距離まで深い……!しかし、これが弟子への愛情というもの......」
その朝、リィナは十三回目を許されなかった。
代わりに十二回すべて、右と左の足裏へ魔力を通し、外へ漏らさず戻した。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
翌日、学院都市支所へ【旧水路の魔力漏出調査】が出た。
依頼書には、下層市場の水路から夜ごとに低い唸りが聞こえ、魔力を含んだ水が逆流するとある。調査資料へ添付された簡易波形が、自主練習場で記録した消音術式の残滓に似ていた。
「このクエストをこなせば、比較用の痕跡が取れそうだな」
「依頼をいじめ調査へ使うんですか?」
セレネは依頼票と記録紙を見比べる。
「依頼目的は水路異常の調査。痕跡比較は、その途中で得られた記録だけを使う」
「目的を混ぜていないなら構いません。私も同行します」
「お前、組合登録は?」
「学院の実地補助員として登録済みです。戦闘時の指揮権はEランクの二人へ預けます」
リィナが腕を組む。
「セレネ、あんた戦えるの?」
「初級魔法を六術式、中級を二術式。対人訓練は未経験ですが――」
「じゃあ、私より前へ出ないでね」
「その判断に同意します。あなたも計画範囲から出ないでくださいよ?」
「現場で必要なら出るけど!」
「出る前に声をかけてください」
「間に合えばね」
「間に合わせるのが連携というものです」
この二人、早くも噛み合わない。
「俺が後ろと退路を見る。リィナが前。セレネは中央で記録と補助。ニアは探索」
「異議ありません」
「私もそれでいい」
「珍しく早いな」
「お腹空いてるから、早く終わらせたいんだよぉ!」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
下層市場の地下水路は、人が立って歩けるぎりぎりの高さだった。背が高い者は屈む必要があるくらいの広さだ。
リィナは真剣を抜く前に、鞘の位置を腰から少し後ろへずらした。天井が低く、大きな振りは使えない。抜刀後も剣先を前へ出しすぎず、いつでも短い突きと受け流しへ移れるよう構える。
ニアが犬型へ変わり、濡れた石床へ鼻先を近づけた。
『魔力混入水ヲ確認。上流方向ニ濃度上昇ワン』
「水へ触るな。術式の種類が分かるまでは、毒性不明だ」
「分かってる」
リィナは答えながら、すでに水たまりを飛び越えていた。
レイルは右手へ【灯光】を形成し、低い位置へ浮かべる。左手には【探熱】。異なる術式を同時に維持するため、左を先に固定し、右を遅らせた。
『左右出力差、六%。混線ナシにゃ』
「前より良い」
「視線は前へ。数値へ見入らないでください」
セレネがすぐ後ろから言う。
「見入ってない」
「今、二秒見ました」
「二秒は見入ったうちに入らないだろ」
「狭所で二秒あれば、リィナは十歩進みますよ」
「十二歩、いや十五歩くらいは進めるかな?」
「進みすぎです!」
セレネの声が水路へ響いた。
その声を追うように、壁の苔が動いた。
「止まれ!」
リィナが剣を抜く。
緑黒色の細長いものが、水路壁から一斉に剥がれた。表面へ文字のような白い筋を持つ、術苔蛭。魔力を含んだ水と術式残滓を吸い、近づく生物へ飛びつく小型魔物である。
最初の一匹を、リィナが短い斬撃で落とした。
「壁にまだいる!」
「熱反応、前方十二。右壁に七、左に五!」
「床は?」
「水の中に三つ!」
リィナは剣を大きく振らない。右壁から飛ぶ一匹を剣の腹で下へ叩き、左から来る二匹を短い返しで斬る。前の斬撃を止めず、手首と踏み込みを次へつなぐ。
水の中から三匹が跳ねた。
「リィナ、下!」
レイルは左手の【探熱】を閉じ、【風弾】へ切り替えた。右手の【灯光】は維持したまま、照準だけを水面へ落とす。
風圧が水面を斜めに打ち、蛭を壁際へ飛ばした。
「セレネ、壁を固められるか」
「【土壁】では水路を塞ぎます。薄い【硬土】なら」
「右壁だけ。逃げ道を左へ残して」
「形成します」
セレネは右手へ地質術式、左手へ光の術式環を同時に作った。二つを完成させず、右だけを選ぶ。
「【硬土】」
右壁の苔ごと表面が固まり、隙間へ潜っていた蛭の動きが止まった。
「同時に作ったのに、一つしか使わないの?」
リィナが斬りながら尋ねる。
「二つを同時結着すると干渉します。左は次の状況へ備えた形成です」
「使わないなら消すの?」
「必要がなければ」
「もったいない」
「魔力を維持し続ける方が無駄です」
「二人とも、話は後!」
残った蛭がレイルへ飛んだ。
レイルは【七環導杖】を短杖形態へ縮め、横から払う。蛭は壁へ当たり、落ちたところをリィナの鞘が押さえた。
「今の、魔法いらなかったね」
「杖は武器でもあるからな」
「昨日は取り上げられてたけど」
「今日はあるだろ」
戦闘は二分ほどで終わった。
リィナは真剣へ付いた粘液を専用布で拭い、刃こぼれを確認してから鞘へ戻す。幼い頃の木剣なら泥を払うだけで済んだが、真剣は手入れを怠れば錆びる。彼女は会話をしながらも、刃の根元から切っ先まで視線を走らせていた。
「怪我はどう?」
「ない。セレネは?」
「外套へ一匹触れました。皮膚への接触なし」
「レイルは」
「なし、だ」
「じゃあ進むよー」
水路奥には、古い円形扉があった。
扉の周囲へ、閉じかけた環状文字が刻まれている。水はその隙間から漏れ、低い唸りを生んでいた。音を調べると、ある範囲へ入った瞬間だけ響きが弱まる。
「これは……消音術式です」
セレネが扉へ触れず、空中へ構造を書き写す。
「学院で使われている【消音】より古い。けれど、始動文字の並びが近い」
「自主練習場の波形と比べられるか」
「記録してください、ニア」
『音響・魔力波形ヲ保存シマスにゃ』
レイルは扉の下へしゃがんだ。
石の継ぎ目に、新しい傷がある。古い苔が削れ、金属工具を差し込んだ痕が残っていた。
「最近、誰かが開けようとしてる」
「学院の管理記録を確認する必要があります」
「開ける?」
リィナが柄へ手を置く。
「依頼範囲は漏出原因の調査まで。扉の向こうは未確認区域だ」
「中に原因があるよ」
「可能性は高い。だからまず支所と学院へ報告する」
「ここまで来たのに?」
「開けて閉じられなくなったら、水路全体へ流れてしまうだろ」
リィナは扉を見つめた。先へ行きたい顔をしている。それでも、剣から手を離した。
「じゃあ、印を付けて戻る。勝手に開けられないように」
「封鎖札を二枚」
「三枚です」
セレネが訂正した。
「扉、通路入口、地上市場の点検口。誰かが一枚を剥がしても、残りで侵入が分かります」
「その案……採用」
「あなたが一枚増やされる側になるのは珍しいですね」
「必要な追加だから、なんならあと二枚くらい追加したいくらいだ」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
帰還後、報告書は学院施設課と都市支所の両方へ提出された。
対応した施設課職員は、古い記録をめくりながら首を振る。
「その水路は、昔の排水調整設備につながっている。扉の向こうは停止済みだ」
「新しい工具痕がありました」
「定期点検の跡だろう」
「点検記録の日付は?」
「後で確認する。学生は授業へ戻りなさい」
「確認担当者と期限を記録してください」
「施設課の仕事へ学生が口を出すな!」
「依頼報告です。次に漏れた時、誰がどこまで見たか分からなければ、また最初から調べることになります」
「……三日以内に照合する。それでいいな」
「担当者名もお願いします」
「君は本当にエルシア先生の弟子だなあ。あの人も気になることがあるととことん追究するタイプだった」
レイルは追加調査を求めたが、依頼自体は魔力漏出の確認と封鎖で達成扱いになった。術苔蛭の駆除、侵入防止、波形記録も評価される。
支所を出たところで、セレネが二枚の記録を並べた。
「旧水路の消音波形と、自主練習場の記録。完全一致ではなかったです」
「使われている始動文字は?」
「七文字中五文字が同じです。ガレスの札を調べる理由にはなりそうですね」
「教官へ持っていこう」
「はい。ただし、旧水路の施設異常は別件として追いましょう」
リィナが二人の紙を覗き込む。
「難しいところは分かんないけど、あの扉、嫌な感じがした」
「魔力か?」
「ううん。誰かが隠してる扉みたいだった」
「感覚だけでは報告書へ書けません」
「だからセレネが調べるんでしょ?」
セレネは少し黙り、紙の下へ一行足した。
【前衛担当者より、管理状況への違和感申告あり】
「これで記録へ残します」
「そういう書き方になるんだ」
「削除されにくい書き方です」
リィナは満足そうにうなずいた。
旧水路で得たのは、消音札を調べるための比較記録だけではなかった。
学院の地下には、誰かが最近触れた古い扉がある。
その報告は受理された。
読まれたかどうかは、まだ分からない。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
灯光と探熱を双掌で扱い、真剣を振るリィナの後方を守りながら、旧水路の工具痕と消音波形を記録した調査役。
・リィナ・アルセイル
低い水路で真剣の振り幅を抑え、蛭の群れを短い斬撃と受け流しで処理して、未確認扉の前でも撤退を選んだ前衛。
・セレネ・グランツ
二術式を形成して必要な一つだけを結着し、リィナの感覚的な違和感も削除されにくい文へ変えた実地補助員。
・ニア
犬型で漏出源を追い、猫型へ戻って旧式消音術式の波形を保存した探索・記録支援役。
・術苔蛭
魔力を含む水へ繁殖し、狭い水路で壁と水面の両方から飛びかかった小型魔物。
・ロッテ・ベルクマン
リィナへ噴射より先に足裏の経路分離を教え、左右差を欠点ではなく役割として扱った試作担当。
・リオン・ゴルディス
万全の装備で朝練へ現れ、外周一周を終える前に弟子修行の深さを身体で理解した出資者。
【今回の能力・設定メモ】
・セレネの【並列思考】は二つの術式を形成できますが、第61話時点では同時結着できません。
・旧水路の円形扉と学院地下施設は、後半事件へ続く異常記録です。
・第61話時点のリィナは脚部噴射を行っていません。足裏まで魔力を通し、外へ漏らさず戻す基礎訓練の段階です。
【次回】
証拠が揃えば、今度は教官の前で詠唱を完成させます。




