第57話「右手の火、左手の風」
学院最初の魔導実技。
レイルは、杖を取り上げられたところから授業を始めます。
魔導実技科の最初の授業で、レイルは【七環導杖】を取り上げられた。
「返してください」
「授業が終わったら返す」
「落下、盗難、誤使用の可能性があります。それに、師匠から譲り受けた大切な物なんですが」
「教官机の上だ。私が見ている」
「教官が倒れた場合は。あるいは強力な魔王が攻め込んでくるかもしれませんし、盗賊団が教室を襲う可能性も――」
「お前は、学院の実技室が襲撃される前提で授業を受けるのか」
「襲撃されない保証がないので」
実技教官ヘルマンは額へ指を当て、長く息を吐いた。昨日の測定を担当した男である。今日から一年間、魔導実技の基礎を受け持つらしい。
「エルシアの弟子。杖がないと魔法を使えないか」
「使えます」
「なら置け」
「使えることと、置いていいかどうかは――」
言い終わる前に、教官の手が伸びた。
レイルは杖を抱えて一歩下がる。さらに手が来る。足を引き、半身になり、杖を取られない位置へ回した。
「動けるじゃないか」
「朝練で、装備を奪われない訓練もしました」
「では、実技評価を追加する」
教官は床を蹴った。
レイルは杖を縦に立て、伸びてきた腕を外へ流す。次の足払いを跳んで避けたところで、背中から別の手が回った。杖を引けば教官の指を痛める。迷った一瞬で、握りが外された。
「判断が遅い!」
「教官へ怪我をさせる可能性を考えました」
「実戦なら、相手がお前の杖を折るところだ」
「折られた後の予備は――」
「今日は持ってくるなと言ったな?」
「寮にあります」
「三本あったぞ」
「長杖、短杖、携帯杖です。本当はもう少し予備が欲しかったんですが、周囲から全力で止められました」
「止めた者へ感謝しろ」
周囲の学生から笑いが漏れた。
ヘルマンは【七環導杖】を教官机へ置き、盗難防止の簡易結界を二重にかけた。レイルが結界の継ぎ目を確認しようと近づくと、額を指一本で押し戻される。
「座れ。今日の課題へ入る前に、なぜ杖を置かせたのか説明する」
半円形の講義室には、魔導実技科と術式研究科、それに合同基礎を受ける騎士科の一年生が三十人ほど並んでいた。
ヘルマンは黒板へ人型を描いた。
両手と両足に、白い円が四つ置かれる。
「人類種の魔力経路は、胴の魔力核から首、腕、脚へ枝分かれする。体外へ安定して魔力を放出できる末端は、基本的に掌と足裏だ。学院術理では【生体導出端】と呼ぶ」
後列の生徒が自分の靴底を見た。
「足からも魔法を撃てるんですか?」
「撃てる。騎士の踏み込み、魔術師の大跳躍、落下時の制動にも使われる。風圧を足裏から噴射すれば、一歩で屋根まで跳ぶこともできる」
ヘルマンは教壇から降り、訓練用の床へ立った。
右足の踵が僅かに浮く。
次の瞬間、足裏から乾いた風が弾けた。
身体が二メートルほど跳ね上がる。空中で左足から横向きの噴射を加え、半身だけ回転。着地寸前には両足の風が広く逆流し、落下速度を殺した。
靴底が、ほとんど音もなく床へ触れる。
「今のは上昇、姿勢変更、制動だ。噴射方向を一つ間違えれば、天井か壁へ頭から入る」
「続ければ、飛べるんですか?」
前列中央に座る淡い金髪の少女が尋ねた。
「魔力と制御が続けばな。風圧、浮力、空間足場を組み合わせた単独飛行は存在する。飛行靴、浮遊外套、外部魔力槽を使えば負担も減る。魔力量が大きい術者や、飛行へ適した上位種なら装備なしでも飛べる」
ヘルマンは黒板の両足へ、下向きの矢印を書き足した。
「ただし、足を推進へ使っている間も姿勢を保たなければならん。両手で攻撃魔法、両足で飛行。言葉にすれば簡単だが、四本の経路を別々に制御しながら空中戦を行える人間は少ない」
「では、人類種も四つの術式を同時に展開できるということか」
金髪に蒼い目をした長身の少年が問うた。
「理論上はな。両手両足へ一つずつ作れば【四端形成】になる。ただし地上でやれば、立つ足も逃げる足もなくなる。空中でやれば、形成中に姿勢制御を失う。何より、頭が四つの術式を処理できなければ、最初に崩れた一つが残り三つを巻き込む」
そこでヘルマンは、人型の隣へ腕が四本ある大柄な魔物を描いた。
「魔物側は事情が違う。四腕種は四つの掌で魔法を形成したまま、二本の脚で走れる。角、尾、翼膜へ専用の放出器官を持つ個体もいる。眼から光線を撃つ種は、眼そのものが術式核ではない。眼窩の奥に魔力を圧縮する器官があり、眼球を照準器として使う」
「眼が焼けないんですか?」
別の生徒が顔をしかめる。
「焼ける個体もいる」
笑いは起きなかった。
「魔物には、傷んだ経路や器官を自動修復する種がいる。眼窩を焦がし、腕の魔力路を裂き、次の呼吸までに塞いでまた撃つ。人間なら一度で治療棟送りになる出力を、壊れることを前提に繰り返せるわけだ」
「身体だけで比べるなら、人間の方が弱いんですね」
淡い金髪の少女が言った。
「かなり不利だ」
ヘルマンはあっさり認めた。
「だから人類は、身体の外へ導出端を増やした。杖、魔導書、術式陣、魔石、飛行具、魔導炉。さらに、前衛、術者、治療師、記録官へ役割を分けた。魔物一体が四本の腕で撃つなら、人間は四人で術式を組む。生まれつき足りないものを、道具と集団で埋めてきたんだ」
レイルは教官机の【七環導杖】を見た。
七つの環。
一本の杖から伸びる、複数の術式経路。
「杖は腕を増やす道具ですか」
「正確には、体内で混線しやすい魔力を外へ逃がし、術式の出口を安全な位置まで延ばす道具だ。出口だけ増やしても、形成する頭と魔力が足りなければ撃てん」
「形成を終えた術式が、経路を占有しなくなれば?」
「何?」
「形成した魔法から最後の一工程だけを外し、別の場所へ保持する。その後で手の経路を空ければ、同じ掌から次の術式を作れます」
ヘルマンの視線が、レイルの右腕と教官机の杖を往復した。
「お前の【未完】か」
「はい。今は一件だけですが」
「今は、などと嬉しそうに言うな。保持した術式の媒体や射線が崩れれば暴発する。数が増えれば、眠った時にまとめて返る」
「それでも、人間の導出端数を超えられる可能性はあります」
「可能性だけならある。実行許可はない」
「まだ実行するとは言っていません」
「目が実行すると言っている」
黒銀色の猫型投影がレイルの肩へ現れた。
『危険行動ノ予測確率、八十七%デスにゃ』
「高すぎる」
『過去記録ヲ参照シマシタにゃ』
ヘルマンは黒板へ、今度は左右に分かれた二本の線を描いた。
「本日の課題は【双路形成】。両手へ同時に術式を作る。まずは同じ基礎魔法から始めろ。足は使うな。飛ぶな。蓄えるな。勝手に三本目を増やすな」
「最後の二つは俺だけへの注意ですか」
「そうだ」
両手へ同じ魔法を作るだけなら簡単に聞こえた。
レイルも、説明を聞くまではそう思っていた。
「右手へ流した魔力を、左手へ逃がすな。肩、胸、背中で経路を分けろ。利き手へ魔力が寄る者は多い。左右の出力差を知れ。片方を強めるため、もう片方を無意識に削っている者もいる」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
学生たちは二人一組になった。
レイルの前へ立ったのは、先ほど【四端形成】について質問した金髪の少年だった。
白い学院制服を寸分乱さず着込み、腰には訓練用の細身剣を差している。整えられた髪も、無駄に真っ直ぐな立ち姿も、以前より大人びていた。
それでも、腕を組んでこちらを見る顔には覚えがあった。
「……畑の視察団」
「その呼び方で覚えていたのか、レイル・アルヴァート」
「名前も覚えている。アルド・クロイツ。洞窟鼠を森へ追い出した依頼で、俺たちの戦い方を臆病だと言った」
「四年近く前の言葉を、そのまま覚えているのか」
「言われた側だからな。報告書には書かなかったけど、記憶から消す理由もなかった」
「報告書へ残さなかったのか?」
「依頼結果と関係がなかった。巣穴の位置と六匹目の出現場所の方が重要だった」
アルドの眉間へ、昔と同じ浅い皺が寄った。
「相変わらずだな。騎士の言葉より、鼠の穴を優先するのか」
「次の被害を減らせるのは鼠の穴だ。アルドの発言を書いても、畑の持ち主は助からない」
「俺は、戦う者の姿勢を問うたぞ」
「覚えている。正面へ立って、自分が始めた戦いを最後まで終わらせるんだったな」
「そうだ。お前の方はどうだ。四年経っても、まだ戦う前から退路を数えているのか」
「四年分の実戦経験が増えたから、以前より細かく数えるようになった」
「成長する方向を間違えている」
「帰還率は上がった」
アルドは短く息を吐いた。
「用水路へ走った魔物を止めた、あの剣士の娘も学院へ来ているのか」
「リィナなら武技科だ。今頃、刃なし模擬剣で誰かを追い回していると思う」
「お前を追い回している姿しか見ていないが」
「最近は剣なら避けられる」
「剣なら?」
「本当に怒った時は、柄か拳が来るからな」
「おい……なぜ少し誇らしそうなんだ」
「避けられる攻撃が増えたからだ」
「やはり、お前の考え方は理解できない」
「俺も、四年前からアルドの考えは理解できていない」
二人はしばらく向かい合った。
外見も背丈も変わった。レイルの一人称も、あの頃の「僕」から「俺」へ変わっている。
それでも、最初に確かめるものは変わらない。
アルドは、始めた戦いをどう終えるかを見る。
レイルは、生きて帰る道が残っているかを確かめる。
「よし――ちょうどいい」
アルドが両手の手袋を締め直した。
「四年前の続きだ。お前の臆病な戦いが、学院でも通じるか見せてもらうぞ」
「今は両手へ光を出す授業だ。戦いではない」
「その口ぶりも変わっていないな」
「アルドも、話を自分の望む方向へ進める癖が残っている」
「俺は始めたことを途中で投げない」
「撤退を始めた時も?」
「当然だ。命令した者が倒れても、残った者を連れて戻るところまで遂行する」
「なら、やっぱり俺と考えは近いと思うが」
「近くない。お前は始める前から退く理由を並べすぎる」
「並べておけば、退く時に迷わない」
「迷わないために、前へ出る足まで止めるな」
「止めていない。昨日も学院へ入った」
「昨日の話を今するな」
四年ぶりに交わした会話は、驚くほど早く昔と同じ場所へ戻った。
噛み合っているようで、互いに見ている順番が違う。
教官の合図が飛んだ。
レイルは両掌を上へ向けた。右手に【灯光】。左手にも【灯光】。
始動を同時に行い、同じ形、同じ光量へ整える。
右はすぐに点いた。
左は、一瞬遅れて明滅した。
『左右出力差、十八%デスにゃ』
「思ったより大きい。難しいな、これ」
「オムニアの表示だけを見るな。自分の肩で感じろ」
ヘルマンに言われ、レイルは一度消した。
次は目を閉じる。右腕の魔力は素直に掌へ集まる。左腕へ流すと、胸の中央で右へ引かれた。日頃、杖も魔法も右手で扱う癖が残っている。
「もう一度」
両方に光が灯った。
今度はほぼ同じだった。
アルドの両手にも光球が浮いている。大きさも明るさも正確で、姿勢すら崩れていない。
「アルド、お前、初めてではないだろう?」
「騎士科の基礎で学んだ。盾と剣、剣と魔法を別々に扱うためだ」
「なら、左右で違う術式も?」
「初級までなら」
レイルは右手の光を消し、【種火】へ切り替えた。
「まだ同式の課題だぞ」
「違う術式を分けられるか確認する」
「教官の指示が先だ」
「危険があれば止める」
「指示へ従え」
「止められる準備はしている」
「そういう問題ではない!」
右手に小さな炎。左手に光。
成立した。
右の熱を強めた瞬間、左の【灯光】が赤く染まり、光球の内側で火花が散った。
『術式混線ヲ確認。中止ヲ推奨シマスにゃ』
「停止」
レイルは両方を閉じた。
火花は消えたが、前髪の先が少し焦げていた。
「一度は成立した」
「両方失敗だ」
「形成までは成功していた」
「終了時に混線した。実戦なら、左手の光が味方の顔で燃えている」
ヘルマンが焦げた髪を指でつまむ。
「上級課題へ勝手に進み、前髪を代償に失敗。初日の記録としては優秀だな、レイル」
「優秀なんですか」
「失敗例としてな。皮肉くらい理解しろ!」
訓練場の向こうから、澄んだ声がした。
「胸部中央の分岐が遅れています。右肩へ送った後で左腕へ戻しているので、熱が光路へ混ざりました」
先ほど飛行について質問した淡い金髪の少女が、両手に異なる術式環を浮かべていた。
右手には【水滴】。
左手には【灯光】。
二つの形成は干渉せず、輪郭まで揃っている。
彼女はレイルの手元だけを見ていた。
「始動を完全に同時にしない方が良いです。左を先に固定し、右を半秒ほど遅らせてください」
「同時形成の課題だろ?」
「開始時刻を揃える必要はありません。形成状態が同時に存在すれば条件を満たします」
「……その解釈は、教官次第だと思う」
「教官は否定していませんよ」
二人でヘルマンを見る。
「私を巻き込むな。グランツの解釈で構わん」
セレネ・グランツ。
首席候補として、入学前から名が知られていた少女だった。制服は規定どおり、胸元の魔導演算石まで中心からずれていない。
「分かった。試してみよう」
レイルは左手へ【灯光】を作り、輪郭を固定した。その後で右手へ【種火】を形成する。胸の中で二本の経路を先に分けた。
今度は混ざらなかった。
「できた」
「光量が七%落ちています」
「初回なら許容範囲だ」
「私は許容していません」
「俺の魔法だ」
「見ている側には誤差が気になります」
「なら見なければいい。誰も頼んでいない」
「改善可能な誤差を放置する方が気になります」
どこかで似たやり取りをした気がした。
レイルが思い出す前に、ヘルマンが手を叩いた。
「そこまで。次は移動しながら維持する。二つを作れた者は一つだけ残せ。床の白線からは出るな。足裏から噴射した者は減点する」
「先に言われた」
「お前がやりそうだからだ」
授業後半は、魔法を浮かべたまま歩き、しゃがみ、振り返る訓練になった。
レイルは一つなら問題なく維持できたが、両手に作ると足元への注意が落ちる。二度白線を踏み、一度アルドと肩がぶつかった。
「周囲を見ろ」
「見ている。術式が視界を塞ぐんだ」
「なら位置を下げろ」
「地面に近いと、転倒時に術式へ触れる」
「条件を増やすな」
「必要な条件だ」
歩行訓練が一段落したところで、レイルは教官机の隣に置かれた訓練用魔石を見た。
魔力を注いで満たし、最後に封緘して保存する蓄魔具である。
「教官」
「今度は何だ」
「生の魔力には、完成条件がありますか」
「ない。魔力は魔力だ。量が増えても減っても、それだけでは始まりも終わりも定義できん」
「では、蓄魔具へ充填する行為ならあります。規定量へ達し、封緘される直前を【未完】にした場合、充填を試みた魔力は蓄積しますか」
近くにいたセレネが、訓練を止めてこちらを見た。
「暇な時間に少量ずつ注ぎ、必要な時に完成させるつもりですか」
「可能なら」
「保持枠を一件使い続けます」
「戦闘前までなら問題ない」
「眠った場合は?」
「……一括で完成する可能性がある」
「受取先を自分へ設定していれば、全量が一度に戻ります」
「普段の経路容量を超えれば、内側から焼けます」
「蓄魔具側へ完成させれば」
「媒体容量を超えた分が周囲へ噴きます」
「なら容量を増やす」
「持ち運べない重量になります」
「複数へ分ければ」
「保持対象を一つの充填行為として認識できる保証がありません」
「試す価値はある」
「危険条件が増えただけです」
二人の会話を聞いていたヘルマンが、訓練用魔石を取り上げた。
「理屈の入口は合っている。対象は魔力そのものではなく、蓄魔具への【充填と封緘】だ。未完中に注ぎ続けた魔力が消えずに蓄積する可能性もある」
「では――」
「個人実験は禁止だ」
レイルの言葉へ、即座に蓋がされた。
「専用媒体、排圧室、治療師、監督官。最低でもそれだけ揃えろ。蓄積中は保持枠を使い続ける。属性残留も起こる。取り戻せる量は、注いだ量より必ず減る。お前の魔力経路が受け入れられる瞬間量にも上限がある」
「魔力を増やす技ではなく、使う時刻をずらす技になる」
「そうだ。空いた時間を備蓄へ換えられる代わりに、損失と爆発物を抱える」
ヘルマンは黒板の端へ大きく書いた。
【レイル・アルヴァートによる無許可蓄魔実験を禁止する】
「条件が明文化されました」
「嬉しそうにするな」
『禁止事項ヲ記録シマシタにゃ』
「許可条件も記録して」
『拒否シマスにゃ』
その後も何度も失敗と小さな成功を繰り返し、レイルは左右の肩へ別々の経路を通す感覚を、少しずつ覚えていった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
昼休み、レイルは中央訓練場へ向かった。
なぜかアルドが後ろからついてきている。
「どこまで来るつもりだ」
「武技科の訓練を見る」
「俺についてきているように見える」
「同じ方向なだけだ」
「食堂は反対だぞ」
「知っている」
武技科では、刃なし模擬剣を使った組稽古が行われている。鉄の芯へ魔導樹脂を被せ、刃を潰した実戦重量の剣だ。当たれば骨が折れるため、防護術式の範囲でのみ振るう。
リィナは三人目の相手と打ち合っていた。
それが分かったのは、息も絶え絶えに突っ伏す青年剣士と少女剣士が、訓練場の端に転がっていたからである。
リィナは斬り下ろしを受け流し、そのまま剣を止めず踏み込む。相手が下がれば突きへ変え、横へ避ければ大きく回転せず、足を入れ替えて次の線を取る。
一撃ごとに構えへ戻らない。
前の動作を、そのまま次の始まりへ使っていた。
「そこっ!」
模擬剣の切っ先が相手の胸元で止まる。
教官が勝敗を告げると、リィナはすぐレイルを見つけた。
「あっ、レイル遅い。昼休み、もう半分終わってる」
「実技が延びたんだ」
「朝練を休んだ分、少しやるよ! ……ん、後ろの人、誰? 友達できたの?」
「ああ、こいつは前に会った――」
「アルドだ。貴様、私を覚えておらんのか!?」
「誰だっけ?」
「用水路の依頼で会っただろう!」
「……ああ! 畑の見物に来てた人!」
「視察だ!」
「まあ、今は誰でもいいや。レイル、朝練しよっ。模擬剣も借りたしね」
リィナはレイルの返事を待たず、訓練場の端へ移動した。
アルドは無視されたまま拳を握った。
「俺は騎士家クロイツの――」
「あとで聞く。たぶん」
「聞く気がないだろう!」
リィナは振り返りもせず、模擬剣を一度振った。
「今日は、両手で魔法を作った」
「じゃあ、逃げながら作って見せてよ」
「授業では歩行までしかしていない」
「魔物は授業順に来てくれないよ」
「防護術式は?」
「ここ」
「教官の許可は?」
「もらった」
「昼食は?」
「これが終わったら、いっぱい食べる!」
最後の答えだけ、明らかに力が強かった。
リィナが模擬剣を振る。
レイルは左へ半歩ずれ、剣先を避けた。返しの横薙ぎには腰を落とし、踏み込みへ合わせて後ろへ滑る。
木剣だった頃より速い。
刃がなくても重さは真剣とほぼ同じで、風が頬を叩いた。
「右手、止まってる!」
「剣が近い!」
「近づかれた時の練習でしょ!」
「両手を同時に使う初日だ!」
「今日できなかったら、明日もできない!」
「明日は今日より経験が一日分増える!」
「理屈で逃げない!」
レイルは右手へ【灯光】を作った。
リィナの視線が一瞬だけ光へ向く。その間に左へ【微風】を組もうとする。
胸の中央で魔力がぶつかった。
光球が揺れる。
「左肩、固い!」
「見えてるのか」
「毎日見てるから分かる! 右肩が上がる時は怖がってる時。左足が止まる時は考えすぎ。私が何年あんたを追い回してきたと思ってるの!」
「およそ六年」
「そういう計算は今いらない!」
リィナの剣が斜めに来る。
レイルは光を閉じ、身体をひねって避けた。左手の【微風】だけが残り、リィナの結んだ髪を揺らす。
「一つ残った」
「二つ使う練習だったよね?」
「剣を避けながら一つ維持できた」
「……まあ、そこは良かった」
リィナは模擬剣を肩へ担ぎ、少しだけ口元を緩めた。
そこへ、離れた位置からアルドの声が飛ぶ。
「足裏も使え! 先ほどの授業で習っただろう!」
「今日は使うなと教官に言われた!」
「命令へ従っているのか、臆病なだけなのか分からんな!」
「無許可で飛んで頭から落ちるよりはましだ!」
レイルが言い返した瞬間、リィナが間合いへ入った。
「よそ見した!」
「アルドが――」
「敵のせいにしない!」
縦の一撃を避ける。
横薙ぎも避ける。
リィナが一歩引いた。
「でも、全部避けたから俺の勝ちだ」
「勝負なんて言ってない」
「一本も当たっていない」
「へえ」
模擬剣が、鞘代わりの剣袋へ収まる。
レイルが警戒を解いた瞬間、リィナの拳骨が頭へ落ちた。
「痛い」
「拳も警戒するって、村で言ってたよね」
「剣を持ったまま殴るとは思わなかった」
「右手に剣、左手に拳。今日習ったんでしょ。両手を別々に使うの」
「使い方が違う」
「覚えた?」
「……覚えた」
リィナは満足そうにうなずき、食堂へ走り出した。
「早く! 肉がなくなる!」
「昼食を食べ尽くすつもりか」
「私一人で全部は食べないよ!」
「全部を候補に入れている時点でおかしい!」
レイルは焦げた前髪と拳骨を受けた頭を押さえ、その背中を追った。
右手と左手。
いずれは両足も、杖も、外部媒体も使う。
【未完】へ術式を預ければ、人間に生まれつき与えられた出口の数さえ越えられるかもしれない。
けれど今のレイルは、二つの光を維持するだけで前髪を焦がし、リィナの左拳すら止められなかった。
増やす前に、まず二つ。
魔法より先に、リィナの方が使いこなしていた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
杖を取り上げられ、両手の魔法で前髪を焦がしながら、導出端の限界突破と蓄魔の危険な仮説まで考えた学院新入生。
・リィナ・アルセイル
三人の武技科生を倒した後も元気にレイルを追い回し、右手の剣と左手の拳で【双路形成】の実例を示した幼なじみ。
・アルド・クロイツ
四年ぶりにレイルと再会し、退路を数える姿勢へ再び噛みつきながら、自分だけリィナに思い出してもらえなかった騎士科生。
・セレネ・グランツ
左右の異属性術式を安定形成し、レイルの混線原因と蓄魔仮説の不足条件を即座に指摘した首席候補。
・ヘルマン
人類と魔物の【生体導出端】、脚部噴射、単独飛行、自動修復個体の脅威を解説し、レイルの無許可実験を先回りで禁じた実技教官。
・ニア
左右出力差、術式混線、危険行動の予測を表示し、レイルの許可条件だけは記録しなかった黒銀猫型ナビゲータ。
【今回の能力・設定メモ】
・人類種の主な【生体導出端】は両手と両足です。両足は大跳躍、加速、制動、飛行へ利用できます。
・長時間の単独飛行には、大きな魔力量、高度な四肢制御、飛行具や外部魔力槽などが必要です。
・腕、角、尾、翼、眼窩などへ複数の導出器官を持つ魔物は、人類より多くの術式を同時展開できます。
・自動修復能力を持つ魔物は、魔力経路や放出器官が損傷する出力を、回復しながら繰り返す場合があります。
・レイルは魔力そのものを直接【未完】にはできません。蓄魔具への【充填と封緘】を未完化し、魔力を積み立てる仮説を立てましたが、保持枠、媒体容量、吸収損失、経路耐久、未完崩壊の危険があるため未習得です。
【次回】
学院都市で受ける最初の依頼は、迷子捜しです。




