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未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――  作者: 勇者ヨシ君
第4章「昨日唱えた魔法」

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第52話「返すべきもの」

 祈りを返しても、事故の日は消えません。

 それでも、奪ったままにしないために。フィアの記録、ミレアの診断、エルシアの指導を借り、レイルは初めて未完の【任意解除】へ挑みます。

 送環式が閉じなくなってから二日、レイルは小礼拝堂(れいはいどう)の隣にある控室で眠った。


 眠ったと言っても、長椅子へ横になり、ニアとエルシアが保持状態を監視する中で、短い時間だけ意識を落としたにすぎない。祈りはすでに【未完】として魂へ保持されているため、睡眠だけで即座に完成するわけではなかったが、レイル自身の動揺が新しい暴発を招かないよう、礼拝堂(れいはいどう)周辺から完成直前の物はすべて遠ざけられていた。


 目を覚ますと、机の向こうにフィアが座っていた。


 黒髪を耳へかけ、事故当日の記録(きろく)参列者(さんれつしゃ)名簿、儀礼手順、オムニアの反応時刻を同じ形式へ整理している。記録板の端には、初めて姓まで記されていた。


 フィア・レコード。それが彼女のフルネームだった。


「起きたなら確認を始めます。眠れましたか」

「二時間くらい。夢の中でも鐘が鳴らなかった」

「睡眠時間は不足。夢の内容は参考記録へ回します。現在の保持対象を、あなたの言葉で答えてください」

「送環式の最終祈祷(きとう)、その最後の一節。アウレリオ神官の発声だけじゃなく、鐘と煙と、遺族(いぞく)の別れまで含んでいる」

保持圧力(ほじあつりょく)はどのくらいですか?」

「昨夜から下がっていない。怒り、後悔、寂しさは、少しずつ区別できるようになった」

「感情の分類は後です。今、何がそろえば祈りは終わるのか。そこを曖昧にすると、返す先を間違えます」


 レイルは閉じた扉を見た。


「アウレリオ神官が祈りを唱え終えること」

「不足です」

「鐘の最後の一音」

「不足です」

香炉(こうろ)の煙が環を閉じること」

「それらは儀礼上の現象です。なぜ、同時に必要なのですか」


 答えようとすると、胸の中の感情がざわめいた。


 神官の言葉だけで祈りは完成しない。遺族(いぞく)がそれぞれの痛みを抱えたまま、故人をこの場へ縛り続けないと選ぶ。その共同(きょうどう)の決意を、鐘と煙が目に見える形で結んでいる。


遺族(いぞく)全員が、同じ気持ちになる必要はない」

「続けてください」

「怒っていても、謝れなくても、見送りたくなくてもいい。それでも、オルムさんの人生が終わった事実を、それぞれが自分の言葉で受け入れる。祈りは、その共同確認(きょうどうかくにん)だ」

「記録します」


 フィアは数行を書いた後、顔を上げた。


「条件が一件不足しています」

「これでもまだ?」

「あなた自身の条件です」

「僕は祈りを返す」

「返したい理由を確認します」

「僕が奪ったから」

「それだけですか」


 レイルはすぐに答えられなかった。祈りを返して許してほしい、失敗そのものを消してしまいたいという願いが、確かに胸の中へ混ざっていた。


 オルムの家族から向けられた怒りを、もう見たくない。

 祈りを返せば、事故前の自分へ戻れるのではないかという期待が、確かに胸の中へあった。


「あなたは祈りを返したい。同時に、失敗した自分を事故の前へ戻したいと思っています」

「……否定できない。返せたら、みんなの目が前と同じになるんじゃないかって、少し思ってる」

「同じには戻りません」


 フィアの声は冷たくなかった。曖昧な期待へ、正確な線を引いただけだった。

「事故は記録から消えません。遺族(いぞく)が待たされた二日間も残ります。ただ、目的を分けられたなら、今から返すものを選べます」


 フィアは責める調子ではなかった。記録に混ざった二つの目的を、別々の項目へ戻しただけである。


「祈りを返しても、送環式を止めた事実は残ります。遺族(いぞく)が傷ついた二日間も、あなたが怖がったことも、消えません」

「分かってる。……いや、分かりたくないけど、消えないことは分かる」

「では、何を返しますか」


 レイルは扉の向こうを見つめ、胸へ流れ込む声の中から、自分の願いだけを少しずつ分けた。

「僕が許されるための答えじゃない。オルムさんを見送る最後の言葉を、家族へ返す。許すかどうかは、その後で家族が決める」


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 午後、エルシアは作業小屋から持ち込んだ小型の術式器具を控室へ並べた。


 結び目、灯火、水滴、短い宣誓文(せんせいぶん)。いずれも【完成直前】の状態を作れるが、現在のレイルは祈りを一件保持しているため、新たな対象を【未完】にすれば、送環式へ完成権が返ってしまう。


 そのため、訓練で【未完】そのものは使わない。


 エルシアが風と空間の術式で最後の一工程を外側から一時停止し、オムニアへ完成圧力の流れを表示する。レイルはそれを奪わず、どこから来て、どこへ戻るべき力なのかを見分ける訓練を行った。


「結び目の最後は何だい。見たまま答えるな」

「右の縄端が輪を潜って、摩擦(まさつ)で固定される工程。指が離れた瞬間じゃない」

「灯火は?」

「火種が芯へ移り、燃焼(ねんしょう)が安定した時。火が見えただけでは、風ですぐ消える」

「水滴は?」

「器の水面へ触れ、一つの液体として混ざること。落下が終わるだけじゃない」

「宣誓は?」


 レイルは少し迷った。

「声を最後まで出すことだけじゃない。言った本人が、その言葉の責任を引き受けるところまで」

「ようやく目が対象の外へ向いたね。祈りも同じだ。鐘や煙だけ追ってたら、家族の言葉へ戻せない」


 最後の答えで、エルシアは僅かに頷いた。


「完成権は物じゃない。袋から取り出して元の棚へ戻すようにはいかない」

「対象が完成するための最後の道を、僕が閉じている」

「そうだ。今までは別の道を閉じることで、古い道を勝手に開かせていた」

「新しい対象へ移さず、閉じている道だけを開く」

「理屈はね。実際にやれば、保持していた圧力が一度に戻る。条件が崩れていれば、祈りが暴発する可能性もある」


 オムニアの投影へ、細い環が現れた。


 完成圧力の入口は分かる。レイルの魂へ入った後、それを元へ戻す出口だけが存在しない。今まで使ってきた能力は、別の対象へ入口を作り直すことで、古い対象を押し出す仕組みに近かった。


 ならば、新しい入口を作らず、古い入口を出口として開き直さなければならない。

 何度試しても、細い環は途中で途切れた。


 胸の感情が逆流(ぎゃくりゅう)し、レイルは息を詰まらせた。ミレアがすぐに手首を取り、脈を測る。


「ここで休みます」

「まだ一回しか試していない。今の感覚を忘れたら、また最初からになる」

「一回で呼吸が崩れ、指先の温度も下がっています。今続ければ、次に覚えるのは成功へ近づく感覚ではなく、苦しくても止まらない癖です」

「でも、時間がないんだ」

遺族(いぞく)を待たせている焦りは理解します。だからこそ、あなたまで倒れて待つ時間を増やさないでください」


 ミレアはレイルを長椅子へ座らせ、水を飲ませた。


「必要なら意識は保てます。でも、今回は使いません」

「どうして。眠らなければ、もう一度試せる」

「私の術は、倒れかけた身体を元気にしません。痛くても、息が苦しくても、意識だけをその場へ縫いつけます。今のあなたへ使えば、“まだ動ける”と勘違いして壊れるまで続けるでしょう」

「勘違いはしない」

「さっき、指が冷えているのに“まだ一回”と言いました。もう始まっています」

 ミレアは水の杯をレイルの両手へ押しつけた。

「休んでください。次の一回を選べる身体で戻る方が、遺族(いぞく)へ早く返せます」


 礼拝堂(れいはいどう)の外では、リィナが一人で素振りを続けていた。


 普段ならレイルの訓練へ口を挟み、無理をすれば木剣で止める。しかし今回は、扉を開けて励ますことも、必ずできると言うこともしなかった。


 休憩へ出たレイルが横へ立つと、リィナは剣を止めた。


「何か言わないの」

「ずっと考えてた。『絶対できる』って言ったら、レイルは失敗できなくなる気がするし、『無理しないで』って言ったら、私が怖がってるみたいで嫌だった」

「リィナも迷うんだ」

「失礼だな。私だって迷うよ。迷ったら先に動くけど」

「僕が失敗したら、どうする」

「一緒に謝る。前にもそうしたでしょ。たぶん怒られるし、私も泣くかもしれない。でも、次を考える」

「成功すると信じてない?」

「信じてるよ。レイルが逃げないことは、もう知ってる。でも、私が強く信じたら魔法が成功するなら、朝からずっと信じてる」


 リィナは木剣の柄で、レイルの肩を軽く押した。

「だから、できるかどうかじゃなくて、決めたら呼んで。私が隣に立つ」


 リィナは木剣を肩へ置き、礼拝堂(れいはいどう)を見た。


「レイルが決めるところまで待つ。決めたら、一緒に行く」


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 三日目の夕方、オルムの家族が再び礼拝堂(れいはいどう)へ集まった。


 全員がレイルを許したわけではない。顔を合わせたくない者も、祈りがまた止まることを恐れる者もいた。それでも、終わっていない儀礼をそのままにしないため、もう一度自分の言葉を選んだ。


 祭壇前へアウレリオが立つ。


 フィアは時刻と条件を記録し、ミレアはレイルの呼吸と脈を見た。エルシアは術式の暴発へ備え、リィナは隔離線(かくりせん)の内側ではなく、レイルと遺族(いぞく)の間へ道を空けている。


 レイルは十五歩離れた場所で、胸の中の祈りへ意識を向けた。


 完成したい圧力がある。

 言えなかった謝罪も、まだ許したくない怒りも、もう休んでほしい願いも、全部が同じ形になる必要はない。

 それぞれ異なるまま、別れの言葉へ進もうとしている。


「”終わらせるのは、僕じゃない”」


 レイルは目をつぶり、右手を胸へ当てた。


「返します。オルムさんを見送る最後の言葉を、皆さんへ――」


 閉じ切らない環の隙間へ、初めて外側へ向かう細い道が生まれた。

 別の対象へ移さず、新しい犠牲も作らない。保持していた完成権だけを、元の祈りへ返す。


「【未完】――返還」


 胸へ押し寄せていた感情が、一気に礼拝堂(れいはいどう)へ戻った。


 感情は雪崩のように暴れず、誰か一人へ偏りもしなかった。それぞれの言葉を発した者へ、それぞれが抱えていた重さのまま戻っていく。


 アウレリオが最後の一節を唱えた。


「――我らは別れを受け入れ、あなたの歩みを次の環へ送ります」


 鐘の最後の一音が鳴った。


 七本目の蝋燭が明るさを取り戻し、香炉(こうろ)の白煙が一つの環を作る。閉じた環は固定されず、春の風へ解けるように、ゆっくりとほどけて消えた。


 送環式が完成した。


 レイルは立っていられず、床へ片膝をついた。胸の圧力は消えたが、三日間抱えていた感情の記憶は残っている。


 ミナが母親の手を離れ、レイルの前へ来た。


「物語、勝手に終わらせてごめんなさい」

「僕も、危険だって分かるようにしなかった。箱を確認しなかった。送環式へ空いた保持枠を持ち込んだ。ごめんなさい」


 オルムの息子は、すぐには近づかなかった。


「正直、お前を許せるかは、まだ分からない」

「はい」

「父の祈りを止めたことは忘れられない」

「はい」

「だが、返してくれたことも忘れない......」


 それは和解ではなかった。

 起きたことを、起きたまま覚えておくという言葉だった。


 式が終わった後、教会中央から派遣された一行が礼拝堂(れいはいどう)へ到着した。


 先頭にいたのは、白い聖衣を規則どおり身につけた少女だった。淡い金髪を胸元でまとめ、年齢に似合わないほど静かな眼差しで、祭壇、開封記録、レイルの右目を順番に確認する。


「送環式の完成を確認しました」


 少女はアウレリオから事故記録を受け取り、フィアの記録と照合した。


「対象者を拘束しますか」


 同行した教会騎士の問いに、少女は首を横へ振る。


「現時点では不要です」

「危険な固有律です」

「危険な固有律です。けれど、それだけでこの少年を悪人として扱う根拠にはなりません」


 少女はレイルへ向き直った。


「あなたを怖がる人々へ、“理解が足りない”と片づけないでください。祈りを止められた家族が恐れるのは当然です」

「分かっています。僕も、自分が怖いです」

「その答えは信用できます。ですが、あなたが善良であり続けることだけを安全策にはできません。疲れ、恐怖、誤解、事故は、善意の外から起こります」


「だから、学院で管理と訓練を受ける」

「はい。監視されるためだけではありません。あなた自身が、次に何をすればよいか一人で抱え込まなくて済むようにするためです」

「処刑や永久拘束ではなく、王立結着学院の管理下で教育と研究を受けるべきです。あなた自身のためでもあり、次に巻き込まれる人々のためでもあります」


 監視される。管理される。

 以前のレイルなら、自分を危険物として扱う言葉へ怯え、逃げる理由を探したかもしれない。

 今は、同じ事故を二度と起こさないための知識があるなら、屈辱より先に学ぶ必要があると思えた。


「わかりました。()()()()


 少女は小さく頷き、記録書へ署名した。


「私は”クラリス・オルビス”。成環教会(せいかんきょうかい)完成聖女候補かんせいせいじょこうほとして、本件を学院推薦資料へ加えます」


 控室の机には、完成してしまった短編が置かれていた。

 クラリスは最後の頁へ書かれた”ただいま”を読み、ミナとレイルの異なる筆跡を見比べる。


「正しい言葉でも、本人が選ばなければ救いにならないのですね」

「まだ、分かりません」


 レイルは最後の一語へ触れず、その前の文章を読んだ。


「でも、僕はいつか、”自分で最後を書きます”」


 その日、【未完】は新しい対象へ移さず完成権を返す方法を得た。


 事故の日も、遺族が待たされた時間も残った。けれどレイルは、誰かの仕事を新しい人質にせず、奪ったものを元の場所へ返す道を手にした。

【今回の登場人物】


・レイル・アルヴァート

 許されたい気持ちと祈りを返す目的を分け、別の犠牲を作らず完成権を元の送環式へ返した少年。


・リィナ・アルセイル

 無責任な励ましで成功を決めつけず、レイルが自分で方法を選ぶまで礼拝堂(れいはいどう)の外で待ち続けた幼なじみ。


・エルシア・ヴァント

 【未完】を新たな対象へ使えない状況で疑似経路訓練(ぎじけいろくんれん)を組み、理屈と実際の危険を分けて弟子を導いた師匠。


・フィア・レコード

 レイルが祈りを返したい目的へ、失敗を消して許されたい願いが混ざっていると記録上の不足として指摘した少女。


・ミレア

 意識を保たせるだけの無理な継続を拒み、身体の限界を見えなくすることは治療ではないと止めた治療師見習い。


・アウレリオ

 遺族(いぞく)の異なる感情を一つへ揃えず、共同の別れとして最後の祈りを唱え直した神官。


・ミナ

 短編を勝手に終わらせたことを謝り、レイルと互いの責任を自分の言葉で確かめたオルムの孫娘。


・クラリス・オルビス

 レイルを悪と断定せず、善意だけへ共同体の安全を預けないため、学院管理下での教育を提案した完成聖女候補。


・ニア

 完成圧力の疑似経路(ぎじけいろ)を表示し、初の完成権返還(かんせいけんへんかん)とレイルの身体負荷を記録したナビゲータ。


【今回の能力・設定メモ】


【完成権返還】


 新しい対象を未完にせず、保持していた最後の一工程を元の対象へ返す【未完】第三段階の技術です。今回は保持済みの祈りを返しただけで、他人の祈りや契約を自由に操作できる能力ではありません。


【次回】


 送環式事故から数か月。Eランク昇格試験の前夜、レイルは自分で形成した【風弾】の最後の一工程を預けます。

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