第44話「四つだけの無詠唱」
六つの基礎現象を覚えたレイルは、初級魔法の訓練へ進みます。
火を撃てるようになった少年が最初に学ぶのは、火力ではなく、自分で起こした火を自分で消す責任でした。
初級魔法の訓練が始まってから、エルシアの作業小屋には、焦げた桶、濡れた標的、崩れた土壁、眩しさに目を押さえるリィナが順番に増えていった。
熱属性の【火弾】は、最初の三回すべて標的を外れた。一発目は左の土へ落ち、二発目は標的を越えて桶の縁を焦がし、三発目は結着前に形が崩れて火の粉になった。
流動属性の【水縄】は、訓練人形ではなく術者自身の足へ絡み、レイルは立ったまま前へ倒れた。朝練で受け身を取れたため額は打たなかったが、リィナは笑いすぎて木剣を落とした。
風圧属性の【消音】では、リィナの足音だけが消え、エルシアの笑い声は小屋の外まで響いた。光属性の【光盾】は、光と弱い魔法弾を逸らすことには成功したものの、リィナが投げた木の実は普通に額へ当たった。
「盾って名前なのに!」
「名前で物理法則は変わらないよ、バカ弟子」
「先に言ってくださいよ先生」
「術式説明に書いてあるんだ、アンタがきちんと読んでないせいさね」
「余白へ注意事項を追加します」
「また余白が死ぬね」
生命属性の【止血】も、傷そのものを治す魔法ではなかった。血管周辺の流れを一時的に抑え、包帯と専門治療へ引き継ぐまでの時間を作る。【解毒】は既知の毒素へ合わせた術式で、何を飲んだか分からない患者へ万能には使えない。
エルシアは十二種の初級魔法を、攻撃、探知、拘束、防御、応急処置の用途へ分け、数か月かけて一つずつ教えた。
熱属性は【火弾】と【探熱】。流動属性は【水弾】と【水縄】。風圧属性は【風弾】と【消音】。地質属性は【土壁】と【石弾】。光属性は【閃光】と【光盾】。生命属性は【止血】と【解毒】。
十二種すべてを通常詠唱で一度成功させるだけでも、季節が一つ進んだ。無詠唱へ移れたのは、形成が単純で、直線へ射出する四種だけである。
【火弾】。
【水弾】。
【風弾】。
【石弾】。
「四つ“も”使える、と思うんじゃないよ。四つ“しか”安定してないと思いな」
「はい」
「そこで本当に反省するから、師匠の基準がおかしいって気づかないんだよ?」
「お前も私の弟子みたいな顔をして言うね」
「アタシ、毎朝、実技助手させられてるから!」
本物の無詠唱で使う四種は、通常詠唱より威力が落ち、照準も不安定だった。一発撃った直後に別属性へ切り替えると魔力経路が混線し、形成が遅れる。連射もできず、動く標的を追う機能もない。エルシアが指を鳴らすだけで十数本の風圧針を並べる姿と比べれば、レイルの一発は遅く、小さく、危なっかしかった。
それでも、朝練と依頼を続けるうちに、魔法と身体の動きは少しずつつながり始めた。短杖で攻撃線を外し、半歩退きながら【風弾】を形成する。地面へ転がった後、立ち上がる前に【土壁】を置く。リィナの背中へ撃たない角度を、視線ではなく歩数で覚える。
晩秋、二人へ迷子の子山羊を捜す依頼が入った。
牧草地から森の外縁へ入り込んだらしく、足跡は途中で雨に消えている。レイルは【探熱】で低木の向こうに小さな熱源を見つけ、【消音】で足音を抑えて近づいた。子山羊は倒木の根元へ縄を絡ませ、暴れるたび首輪が締まっていた。
「切る?」
「縄を切ると森へ逃げる。先に脚を止める」
通常詠唱の【水縄】を細く伸ばし、後脚へ緩く巻きつける。リィナが正面から視線を引き、レイルが首輪の縄を小刀で切った。子山羊は暴れたが、水の縄が転倒しない程度に動きを抑え、無傷で連れ戻せた。
依頼自体は、それで終わるはずだった。
牧草地へ戻る途中、森の風下から低い唸り声が聞こえた。
灰色の被毛を持つ灰狼が、木々の間から姿を現した。痩せた単独個体で、肋骨が薄く浮き、耳の片方に古い傷がある。子山羊の匂いを追ってきたらしく、レイルたちではなく、リィナの後ろへ隠した獲物を見ていた。
「一体」
「一体見えた、でしょ」
「......まず風下と左右を確認する」
リィナは子山羊を背にし、木剣を抜いた。レイルは周囲へ【探熱】を広げようとしたが、狼が地面を蹴る方が早かった。
真正面から来ない。低木を盾にして横へ走り、リィナの剣が届く直前で方向を変える。群れから離れた斥候個体であっても、人の間合いを測る知性はある。
レイルは無詠唱で【火弾】を形成した。火は狼の鼻先ではなく、逃げ道を塞がない位置へ落とし、接近をためらわせる――そのつもりだった。
放たれた火球は狙いより右へ逸れ、乾いた草へ落ちた。
「くそ、外した!」
「見れば分かる!」
炎が枯草を舐める。レイルは失敗を見たまま次の攻撃へ移らず、属性変換の痛みを承知で流動へ切り替えた。
「水よ、圧を束ねて撃ち出せ――【水弾】!」
水弾が燃え始めた草を叩き、土ごと濡らして火を消す。狼はその隙に間合いへ入ったが、リィナが半歩前へ出て、木剣の鍔元で顎を打ち上げた。致命傷を与える振りではない。噛みつきの線だけを外し、子山羊から距離を取らせる。
「レイル、火は終わった?」
「消火確認。再燃なし」
「じゃあ、次!」
狼は再び回り込む。レイルが無詠唱の【風弾】を地面へ撃つと、土と落ち葉が舞い上がり、右側の進路を塞いだ。左へ逃げた個体の前へ、今度は【石弾】を直接当てず、木の幹へぶつける。乾いた音に驚いた狼が足を止め、リィナがその間へ踏み込んだ。
そこで、背後の森から枝の折れる音がした。
二体目の灰狼が、子山羊の反対側へ回っている。
最初の個体へ集中していたレイルには見えなかったが、リィナは鼻先を動かす気配と、落ち葉の沈み方で気づいていた。木剣を一体目へ振り切らず、途中で足を返し、その勢いを二体目への横薙ぎへつなぐ。
木剣の腹が肩へ当たり、二体目の身体を森側へ押し戻した。振り抜きの最後で、リィナの腕が僅かに重くなる。構えへ戻ろうとした動きが一瞬だけ引っかかったが、彼女は無理に止めず、前足を踏み替えて次の位置へ移った。
「今の、また……」
「リィナ?」
「後! 話は帰ってから!」
一体目が再び迫る。レイルはもう火を使わなかった。【土壁】を狼と子山羊の間へ斜めに隆起させ、正面を完全に塞がず、森へ戻る道だけを広く残す。リィナが木剣で地面を叩き、大声を上げると、二体は互いの位置を確認し、残された退路へ走り去った。
森の奥へ消えた後も、二人はすぐに子山羊を動かさなかった。【探熱】で他の個体がいないことを確認し、火を放った場所を掘り返して熱が残っていないか調べ、狼の足跡が村側へ向いていないことまで追う。
「魔法、四つ使えたね」
「火弾は失敗したぞ」
「火を消したところまで含めたら、失敗だけじゃないでしょ」
「当たらなかった。周辺へ火災危険を作った」
「でも、次の魔法を撃つ前に自分で消したの!」
リィナは木剣を肩へ載せ、少しだけ笑った。
「”撃てるだけ”の魔法使いより、その方が私は安心する」
褒められたのだと理解するまで、レイルには数秒かかった。何か返そうとしたが、子山羊が空腹を訴えて鳴き、リィナの腹もほとんど同じ音を立てた。
「先に帰ろう」
「賛成! パン! パン! 肉! にっく!」
支所へ戻った後、レイルは【火弾】の命中失敗だけでなく、消火に必要だった時間、属性切り替え時の腕の痛み、狼を追わず退路へ誘導した理由を書いた。
報告を読んだ職員は、二人へ正式Fランク試験の受験資格が整ったことを告げた。
「よし。次は試験だ。採取、救助、戦闘を全部やるぞ」
「危険項目の一覧はありますか」
「教えたら試験にならんだろうが」
「危険があることだけは確定しているのか。何もなくてそのまま合格できる可能性も一応考慮していたのだが......」
「試験なんだがら、危険があるのは当たり前だろおおおおおっ!」
帰り道、リィナは木剣を振った時の引っかかりを何度か確かめた。レイルの近くで、技を終えて構えへ戻す瞬間だけ、動きが重くなることがある。しかし毎回ではなく、ニアの記録にも明確な完成阻害反応は出ていない。
『完成阻害反応、確定不能デスにゃ』
『筋疲労、足場、心理影響ノ可能性ガアリマスにゃ』
「レイルがわざとやったんじゃないなら、今はそれでいい」
「僕はリィナの剣へ【未完】を使わない。身体の動作を対象として理解できていない」
「うん。勝手に使ったら、木剣じゃ済まさないから」
リィナは最後まで振り切らず、途中から次の踏み込みへつなぐ動きを試した。まだ技と呼べるほど滑らかではない。それでも、止まりかけた終わりを無理に取り戻すより、次の始まりへ変える方が身体は軽かった。
その小さな工夫が、後に彼女だけの剣術へ育つことを、二人はまだ知らない。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
無詠唱の火弾を外して火災危険を作ったものの、次の攻撃より消火を優先し、失敗の終了まで引き受けた少年。
・リィナ・アルセイル
二体目の灰狼へ即応し、剣の終端に生じた違和感を無理に押し切らず次の踏み込みへ変え始めた剣士見習い。
・エルシア・ヴァント
十二種の初級魔法を数か月かけて教え、無詠唱で安定する四種にも厳しい制限を付けた師匠。
・ニア
リィナの剣へ生じた違和感を検出したが、原因を【未完】と断定せず複数の可能性を提示したナビゲータ。
・ハルツ支所の組合職員
子山羊捜索の報告から二人の成長を確認し、正式Fランク試験の受験資格を告げた職員。
【今回の能力・設定メモ】
【初級魔法・通常詠唱】
レイルは十二種の初級魔法を訓練中です。現時点で本物の初歩無詠唱として扱えるのは、構造が単純な【火弾】【水弾】【風弾】【石弾】の四種だけです。
威力、精度、連射、属性切り替えには大きな制限があり、中級魔法の無詠唱はできません。
【次回】
正式Fランク試験。依頼品を全部持ち帰るか、負傷者を先に帰すか――試験は戦闘以外の場所でも二人を迷わせます。




