幕間「世界は、まだ彼らを知らない」
エルデ村の西門で、一つの事件が終わった夜。
遠い王都では勇者候補が選別され、大陸各地では魔物から【王】へ至ろうとする異形たちが目を覚まし、忘れられた白い神は、世界に生じた”閉じない環”を観測していました。
そして村のすぐ外まで、レイルと同じ異なる世界の記憶を持つ少女が来ていました。
日が沈んでからも、二人の旅人はハルツ街道を北へ歩き続けていた。
先を歩くのは、灰色の外套を頭から被った小柄な少女である。肩口から覗く髪は、夜の色を少しだけ青く溶かしたような濃い藍色で、旅人にしては荷物が少なく、腰には剣も杖も下げていない。代わりに首から提げているのは、銀細工の蓋に七本の細線が刻まれた【異邦残響羅針盤】だった。
少女が何度持ち上げても、羅針盤の針は北を指さない。街道の右へ傾いたかと思えば左へ震え、諦めたように止まった直後、今度は目的を忘れた虫のように盤面を一周した。
「はぁ、だる……また壊れた。まじウザ……」
少女の後ろを歩いていた長身の男が、音もなく首を横へ振った。
男は黒い旅装の上に、傷だらけの革鎧を重ねている。背には飾り気のない長剣、腰には小刀、縄、火打ち石、折り畳んだ地図が収まり、どの道具にも使い込まれた跡があった。
顔の左側には頬から喉元まで続く古い火傷があり、その傷の中心を走る黒い筋が、かつて男から声を奪ったことを示していた。
男――カイン・ヴェルドは、腰から小さな黒石板を取り出すと、白い石筆を滑らせて少女へ向けた。
【壊れていない】
「じゃあ世界が壊れてる。はい、私のせいじゃない。解散」
カインは一度だけ夜空を見上げ、石板へ書き足した。
【それは否定しない】
「それな。世界、普通にバグってるし。私を勝手に転生させといて、説明書も初回特典もなしとか、ソシャゲなら詫び石要求してるとこ」
少女――ユノ・アステルは、勝ち誇る元気すらない顔で羅針盤を外套の内側へ戻し、三歩だけ進んだところで再び取り出した。相変わらず針は定まらず、何かを探そうとしているのか、何かから逃げようとしているのかさえ分からない。
「もう帰ろ。今日の私、完全に駄目な日だから。歩きたくないし、人とも話したくないし、ご飯も寝るのも面倒。てか呼吸って毎回やる必要ある? 誰か自動化してくんないかなー」
カインが石板へ短く書く。
【宿まで三日】
「じゃあ、ここを宿にする」
【街道だ】
「屋根がないだけで床はあるじゃん。自然派ホテル。星、見放題。虫も入室自由」
【却下】
「勇者候補の意見を秒で却下するとか、扱いひど。メンタル死ぬんですけど?」
【自称】
「仮認定されてるから。ほぼ勇者。六割くらい勇者」
【三割】
「下方修正まじ萎え……。もう無理。ここで土に還る。来世は光合成だけで生きる植物がいい」
カインは石板を腰へ戻すと、道端へ沈もうとしたユノの外套の襟をつまみ、そのまま荷物のように引いて歩き始めた。ユノは抵抗する気力もないらしく、靴の踵で街道へ二本の線を残しながら運ばれていく。
「待って。人間を雑にドラッグしないで。私、一応ヒロイン級の美少女なんだけど?」
「……」
「無言で否定するのやめて。声が出ないからって、顔で全部言っていいわけじゃないし」
「……」
「その”面倒なのを拾った”みたいな目、普通に傷つく。いや、今は傷つく元気もないけど」
その時、外套の内側で【異邦残響羅針盤】が甲高い音を鳴らした。
ユノの力の抜けていた身体が一瞬で固まり、地面を這っていた視線が跳ね上がる。カインも同時に手を離し、長剣へ伸ばしかけた右手を止めた。
「止まって」
ユノは襟元から羅針盤を引き出した。
針はもう回っていなかった。北ではなく、街道の先に沈む夜、その向こうにある小さな村を、迷いなく真っ直ぐ指している。
「……ある」
少女の声から倦怠が消えた。
「ある。待って、あるあるある。嘘でしょ。今日? こんな辺境で? いや、でも針の固定率が違う。方位誤差なし、異邦残響は微弱、召喚痕じゃない、転生痕とも違う……これ、もっと変。世界の方が一回つまずいて、そのまま転び切れなかったみたいな――」
先ほどまで一歩進むことすら嫌がっていた少女は、羅針盤へ顔を近づけると、蓋を開き、裏蓋を外し、内部に仕込まれた薄い術式板の文字を早口で読み始めた。その変化を何度も見ているカインは驚かず、少女ではなく周囲へ意識を向ける。
「カイン、早く。消える前に見る。これ逃したら、まじで一週間は病む」
返事を待たず、ユノは街道を駆け出した。気分が沈んでいる時は食事を口へ運ぶことさえ面倒がるくせに、探している痕跡を見つけた瞬間だけ、世界の誰よりもせっかちになる。それがユノ・アステルという、扱いづらくも放っておけない少女だった。
カインは小さく息を吐き、夜の村へ向かう少女を追った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
エルデ村の西門前には、数刻前の騒動がまだ生々しく残っていた。
巨大な蹄が土を深く抉り、泥の中には切れた縄と折れた木片が沈んでいる。門前だけ不自然に乾いた土が森側へ細く続き、その上を、巨体を無理やり旋回させた跡が弧を描いていた。門板には新しい傷が走っていたものの、閂はすでに補修され、見張り台の灯火も静かに揺れている。
ユノは門へ近づかず、牙猪が何度も踏み込んだ場所へ膝をついた。指先で蹄跡の縁をなぞり、土の崩れ方、血の乾き方、門までの距離を一つずつ確かめるうちに、口元から薄い笑みが漏れていく。
「ここ、何回も力が入ってる。足は動いてたし、身体も止まってない。拘束魔法なら泥の散り方が変だし、時間停止なら血も落ちない。でも、こいつはずっと走ろうとして――最後だけ届かなかった」
カインは門板と牙先があったはずの位置を見比べ、指一本分だけ残された空間へ視線を落とした。
ユノも同じ隙間へ自分の指を差し入れる。
「”完成しなかった”んだ」
【異邦残響羅針盤】の針が、蹄跡の上で小刻みに震えた。
ユノは肩を揺らして笑ったが、それは嬉しい出来事へ出会った少女の笑顔ではなかった。長いあいだ自分だけが抱えていた不幸に、ようやく似た形を見つけた者の、安堵と悪意が混ざった笑いだった。
「最悪。ほんと最悪……なのに、ちょっと最高。やっと私以外にも、世界から仕様外って言われてる奴がいたかも」
カインの大きな手が少女の頭へ落ち、軽く叩く。
「痛っ。何」
彼は黒石板を取り出した。
【決めつけるな】
「分かってるし。別に仲間認定したわけじゃない。ただ、ワンチャン期待しただけ。そういう希望まで禁止されたら、私もう普通に詰むんだけど」
ユノは笑みを消し、門板へ残る新しい修理跡を見た。誰かが魔物を止め、その後で森へ返し、壊れた門を直し、村人へ事情を説明したのだろう。事件の中心にいた者が英雄だったのか、厄介者だったのか、それとも両方だったのかは、この痕跡だけでは分からない。
「村、入る?」
カインは即座に頷いた。
見張りへ声をかけ、旅人として一晩の宿を頼み、今日ここで起きた出来事を尋ねる。それだけで、ユノが何年も探してきた存在へ近づける可能性がある。
しかしユノは閉じた門をしばらく見つめた後、外套の中へ顔を半分隠した。
「……やだ」
カインの眉が僅かに動く。
「今、人と話すテンションじゃない。村人に囲まれて質問とか、まじ無理。知らない人が三人超えたら会話イベントじゃなくて集団戦だから」
【今走った】
「探索と対人は使うゲージが違うの。そこ一緒にされるの、解釈違い」
【勇者候補】
「勇者候補でも人見知りはするし。魔王より村のおばちゃんの質問攻めの方が怖いまである」
【死なない】
「心は死ぬ。あと噂が広がって翌朝には婚歴と出身地まで捏造される。田舎コミュニティなめない方がいい」
カインは再び門を見たあと、少女へ視線を戻した。
「それに、今ここへ入ったら期待するじゃん。私と同じ世界から来た人かもしれないとか、私が探してる人に近いかもしれないとか……それで全然違ったら、戻すの大変だから。メンタルの修理、カインできないでしょ」
男は石板へ何かを書きかけたものの、途中で止めて文字を消した。代わりにユノの外套の頭を引き上げ、夜露が藍色の髪へ落ちないように整える。
「そういう優しいの、今は重い。まじで」
カインが手を離す。
「……やめると、それはそれで見捨てられた感あって病む」
男はしばらく動かなかったが、やがて外套越しにもう一度だけユノの頭へ手を置いた。
「うん。それが正解。たぶん」
二人は門を叩かなかった。
ユノは牙猪の足跡、乾いた泥、門板まで残された指一本分の空白を手帳へ写し取り、羅針盤が示した残響の強度を記録した。カインは森側へ続く痕跡を確認し、魔物が人里へ戻っていないことまで確かめると、夜が明ける前に少女を伴ってハルツ街道へ戻った。
村の見張りが交代した頃には、街道の彼方に二つの背中が小さく残っているだけだった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その頃、大陸北西部では、幾つものオーク部族が岩山に囲まれた谷へ集まり、互いに争うことなく武器を地面へ伏せていた。
谷の中央には、砕かれた剣や鎧を溶かし合わせて作った巨大な椅子が置かれている。そこへ腰を下ろしていたのは、人間の倍近い体躯を持つオークだった。片方の牙は根元から折れ、筋肉の盛り上がった全身には、槍、剣、火炎魔法による古傷が幾重にも刻まれている。
頭上に冠はない。
王を名乗る言葉もなかった。
それでも数百のオークが同時に膝をついた瞬間、巨躯の胸奥で暗赤色の【王核】が脈打ち、谷を覆う空気の重さが変わった。彼自身が王を望んだのではなく、群れの方が、生き残るために王を必要としたのだ。
太い指が、地面へ置かれていた人間側の降伏文書を持ち上げる。オークは文字を読めないらしく、紙を逆さまに眺めた末、隣へ控えていた小柄なゴブリンへ差し出した。
文書には、砦を明け渡す代わりに、女、子ども、負傷者を含む避難民を見逃してほしいと記されていた。
ゴブリンが読み終えると、オークの王は長く黙り込み、やがて谷の外へ続く道を指した。
それが避難民を逃がせという命令なのか、追撃せよという命令なのか、その場にいた者にはまだ分からない。ただ一つ、伏せられていた数百の武器が、彼の指先に従って同じ方向へ動いた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
東方の深い森林では、雨に濡れた巨木の枝を、縞模様の影が音もなく渡っていた。
その姿は虎に似ていたが、通常の虎より遥かに大きく、四肢の筋肉は岩のように隆起し、額には二本の短い角が生えている。尾の先には青白い火が灯り、枝から枝へ移るたび、雨粒だけが遅れて切り裂かれた。
虎の影は森の奥で足を止めた。
密猟者に追われた幼い魔獣たちが、倒木の下へ身を寄せ、息を殺して震えている。その背後から近づいてくる人間たちは、拘束用の鎖と魔導灯を持ち、獲物の値段について笑いながら話していた。
虎の影は幼獣たちを一度見たあと、侵入者へ静かに向き直る。
喉はまだ吠えていない。
それでも森中の鳥が一斉に空へ逃れ、密猟者の魔導灯から光が消え、地面を這っていた蔓が人間たちの足首へ絡み始めた。
次の瞬間、森そのものが、狩られる側から狩る側へ変わった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
海を越えた西方の夜都では、赤い月を背負った女性が、尖塔の先端へ立っていた。
黒いドレスの背から広がる蝙蝠の翼は片側だけで、銀色の長髪の隙間から覗く瞳は、血よりも薄く、夜明け前の薔薇に似た赤をしている。人間の血と吸血種の血を半分ずつ受け継ぎながら、どちらの社会からも完全な同胞とは認められなかった半血の女だった。
彼女の足元では複数の兵士が倒れていたが、全員が生きている。首筋の傷は浅く、奪われた血も命を脅かす量ではない。
女性は掌へ集めた血を一滴も飲まず、塔の中央に置かれた古い石棺へ注いだ。血を吸った石棺の表面には白い環が浮かび、ゆっくりと閉じようとするものの、最後の一線だけがどうしてもつながらない。
「また、失敗」
彼女は、嬉しそうにも泣きそうにも見える微笑みを浮かべた。
「それでいいわ。完成してしまったら、あの人まで”正しい死者”にされてしまうもの」
塔の下から、誰かが女性の名を呼んだ。
しかし夜都を渡る風が強まり、その名だけを攫って暗闇へ溶かした。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
さらに南の海底では、島と見紛うほど巨大な影が海溝から身を起こし、砂漠では死んだはずの大蠍が黄金色の王核を抱いて再び脚を動かしていた。
雪山では翼を折られた古竜が百年ぶりに片目を開き、地下都市では無数の小型粘体が一か所へ集まり、人間の形を真似るように細い腕を作り始めている。
彼らが人間を憎んでいるのか、領地を求めているのか、群れを守りたいだけなのか、それともただ自分が何者なのかを知ろうとしているのかは、まだ誰にも分からない。
元の種族も、知性も、願いも違う異形たちの内部で、同じ時代に幾つもの【王核】が生まれ始めていた。
世界は、その進化へ至った存在を一つの名で呼ぶ。
【魔王種】――と。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
ラウゼン王国の中央聖堂では、円形の議場へ設けられた七つの席を囲み、夜を越えて会議が続いていた。
席に座る者たちの顔は天井から降りる白光に隠され、まだ輪郭しか見えない。
白銀の鎧をまとい、背筋を一度も崩さない少年騎士。両手で聖印を包み、祈りの姿勢を続ける少女。身体より大きな盾を背負った巨漢。獣耳を持ち、長槍を膝へ預ける戦士。顔の下半分を布で覆った魔族の少女。弓を抱えたまま周囲を窺う小柄な少年。
最後の一席だけが、誰も座らないまま空いていた。
聖堂中央へ立つ老神官が、各地から届いた報告書を一枚ずつ机へ置く。
「北西部にて、オーク上位個体の王核形成を確認」
一枚目。
「東方森林にて、虎型魔獣を中心とする領域変質を確認」
二枚目。
「西方夜都にて、半吸血種による複数の結着阻害事例を確認」
三枚目。
「その他、南方海域、中央砂漠、北部雪山、地下都市においても未分類の異常個体あり。現在、確認されている魔王種候補は十三体です」
白銀鎧の少年が僅かに顔を上げた。
「討伐命令を」
その声には迷いがなかったが、老神官は静かに首を横へ振った。
「まだ出せません」
「国家級の脅威です」
「脅威であることと、敵であることは同じではありません」
「覚醒を待てば被害が増える」
「ならば、何をしたかで裁きなさい。何になったかだけで剣を向ければ、我々の方が王域へ飲まれます」
布で顔を隠した魔族の少女が、小さく笑った。
「人間の聖堂にも、話の分かる者がいるのですね」
「勇者候補へ求めるのは、魔王を殺す火力だけではありません。王の理へ呑まれず、自分の選択を保つこと。命令が誤りなら立ち止まり、敵対する必要がない相手とは剣を収め、必要ならば魔王種と並んで別の災厄へ立ち向かえることです」
白銀鎧の少年は納得していない様子だったが、命令が出ていない以上、席から立ち上がろうとはしなかった。
老神官は最後に残された薄い報告書を開く。そこには勇者候補の名も、魔王種の名も記されていなかった。
【辺境部・完成阻害現象】
【対象規模:小規模】
【発生回数:継続調査中】
【勇者適性:対象外】
【危険度:未認定】
「これは?」
獣耳の戦士が問うと、補佐官が資料を確認した。
「ラウゼン王国辺境、エルデ村から届いた事故記録です。八歳の少年が関係している可能性はありますが、勇者候補としての推薦ではありません」
「......ならば候補資料から外しなさい。未分類異常の保管棚へ」
報告書は七つの席へ配られず、勇者候補名簿へ綴じられることもなく、監視対象と事故記録を収めた棚へ送られた。
この時、聖堂にいた誰一人として、紙の端へ小さく記された【レイル・アルヴァート】という名を覚えなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
大陸の地図にも、王国の記録にも存在しない白い都市では、誰も眠っていないのに、すべてが夢の中のように静止していた。
広場の噴水から落ちる水滴は、何度繰り返しても同じ形で弾け、窓辺の少女は同じ角度で顔を上げ、同じ言葉を口にし、同じ歩数で部屋の奥へ戻っていく。老人は死なず、子どもは育たず、夫婦は争わず、職人は寸分違わぬ品を毎日完成させる。
誰も間違えない代わりに、誰も昨日と異なる明日を選ばない。
都市中央の神殿には、空間そのものを貫くほど巨大な七つの白い環が浮かび、一つ目から順番に、音もなく閉じていった。
一つ。
二つ。
三つ。
六つ目まで完全な円を作った時、最後の一環だけが動きを止める。
残された隙間は、指一本分。
エルデ村の西門へ届かなかった牙先と、よく似た距離だった。
白い光の奥で、人に似た輪郭がゆっくりと顔を上げた。目も口も存在しないのに、都市全域へ届く声だけが響く。
『完成阻害ヲ確認』
神殿の床へ大陸を模した光が広がり、北西の谷、東方森林、西方夜都、南方海域、中央砂漠、北部雪山、地下都市へ黒い点が灯った。
その中で一つだけ、ラウゼン王国辺境に白い点が明滅している。
『原因ヲ照合』
【対象:不明】
【固有律:不明】
【完成条件:解析不能】
【終了予測:算出不能】
白い人影は、理解できないものを初めて見た子どものように、僅かに首を傾げた。
『未完成』
その一語が、変わらない都市の空へ長く反響する。
『故ニ、観測ヲ継続スル』
七つ目の環は、最後まで閉じなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
夜が薄れ始めた頃、ユノとカインはエルデ村から離れた分かれ道へ立っていた。
【異邦残響羅針盤】の針は途中から二つへ割れ、一方は王都へ続く大街道を、もう一方は森と山を越える古い脇道を指している。
「二つとか聞いてない。はぁ、だる……こういう選択肢、だいたい片方が罠なんだよね。てか両方罠まである」
カインが石板へ文字を刻む。
【選べ】
「なにそれ。もっと相談に乗って。こういう時、物語の主人公なら重要そうな方を直感で選ぶんだろうけど、私は面倒じゃない方がいいの」
【勇者候補】
「今日は三割勇者だから。......ワンチャン明日になったら四割あるかも」
王都へ続く大街道には、宿場、組合支部、教会、補給所があり、道の状態も地図へ記録されている。一方の古道には、魔物、崩落、毒草、壊れた橋があり、街道標識には何年も人が通っていないと書かれていた。
ユノは一秒も迷わず、大街道を指差した。
「表から行く。人に聞けるし、ご飯あるし、最悪お金で解決できる。裏道は誰かが勝手に攻略してくれたら助かるんだけど」
【他人任せ】
「役割分担って言って。私が表で情報集めてる間に、裏で面倒な罠とか魔物とか全部処理してくれる、暗くて慎重で、友達少なそうな人がどこかにいるかもしれないじゃん」
カインは何も書かず、ユノの顔を見た。
「何。その”お前と同類だろ”みたいな顔」
男は石板を向ける。
【何も書いていない】
「顔に書いてある。まじウザ……」
ユノは羅針盤を外套へ戻し、大街道へ向かって歩き始めたものの、数歩進んだところで足を止めた。
「まあ、会わなくていいけど」
「……」
「本当に会わなくていいし。人間関係増えると管理コスト上がるし、期待されるのも面倒だし」
「……」
「でも、私が探してるものを先に見つけて、何も言わずにいなくなるのは嫌。そういうの、普通に病む」
カインはしばらく少女を見たあと、石板へ一言だけ書いた。
【探す】
ユノは外套の奥で目を細め、ほんの少しだけ歩調を軽くした。
「……うん。じゃ、探す」
二人が王都へ向かった、その背後。
エルデ村では、レイル・アルヴァートが新しい計画帳を開き、次の見習い依頼へ必要な条件を書き出していた。
【依頼内容:荷車一台の短距離護衛】
【想定危険:街道魔物、盗賊、車輪破損、橋梁崩落、急な降雨、食料不足、御者の体調不良】
【退路:三本】
計画帳を横から覗き込んだリィナの眉が、項目を読むごとに上がっていく。
「荷車一台を隣町まで運ぶだけだよ?」
「一台しかないから、破損した場合の代替手段が必要になる」
「だから予備の車輪を四つ積むの?」
「前輪と後輪で大きさが違う。予備の予備まで含めれば不足ではない」
「それ、もう別の荷車を持っていった方が早くない?」
「予備荷車を運ぶ方法は検討中だ」
「検討しなくていい!」
世界はまだ、彼らを知らない。
帰る場所を探しながら、他人と関わることを恐れている勇者候補の少女も。
声を失い、少女の代わりに危険だけを引き受け続ける剣士も。
魔物から王へ至ろうとしている幾つもの影も。
閉じない環を見つめ、初めて理解不能を知った白い神も。
村の外を旅する二人と、村の中で計画帳を増やす少年が出会うのは、まだ遠い未来のことである。
それまで彼らは、同じ事件の表と裏を、互いの名を知らないまま何度も通り過ぎていく。
第4章開始前の幕間です。
レイルがエルデ村周辺で修行を続けている一方、世界各地では複数の【魔王種候補】と【勇者候補】が動き始めました。
ユノとカインは、レイルたちが去った場所へ遅れて到着したり、反対に二人が表側で集めた情報の裏側をレイルたちが解決したりしながら、長いニアミスを重ねていきます。
【今回の登場人物】
・ユノ・アステル
異世界の記憶を持つ、根暗で省エネルギーな勇者候補。気分の上下が激しく普段は面倒くさがりだが、探している残響を見つけると令和ギャル語のまま別人のように早口になる。
・カイン・ヴェルド
喉の傷によって声を失った寡黙な剣士。石板と行動でユノを支え、沈みすぎても走りすぎても放置しない護衛役。
・各地の魔王種候補
オーク、虎型魔獣、半吸血種、海洋魔物、古竜、小型粘体などから【王核】を生みつつある存在。敵か味方か、その願いさえまだ定まっていない。
・勇者候補たち
白銀騎士、聖女、盾使い、獣人、魔族など、異なる勢力と価値観から集められた広域危機への対応候補者。
・白い観測者
閉じない七つ目の環と、エルデ村で発生した完成阻害現象を観測し始めた正体不明の存在。
・レイル・アルヴァート
世界規模の動きを知らないまま、荷車一台の護衛へ三本の退路と予備荷車を検討し始めた少年。
・リィナ・アルセイル
レイルの護衛計画が荷車そのものを増殖させる前に、全力で止めに入った幼なじみ。
【今回の能力・設定メモ】
【魔王種】は、魔族だけが到達する種族ではありません。
オーク、獣型魔物、吸血種、竜、海洋魔物、小型魔物など、元の種族を問わず【王核】を形成した個体が魔王種へ進化する可能性を持ちます。
魔王種であるという事実だけでは、敵対者や討伐対象とは判断されません。今回登場した影の中にも、人間へ敵対する者、群れを守る者、失った誰かを取り戻そうとする者、何かを完成させないために動く者が混在しています。
【次回】
第4章「昨日唱えた魔法」。
レイルは数年にわたる見習い依頼と修行へ進みます。
世界が勇者と魔王を探し始める中、本人が探しているのは、荷車へ積載可能な予備車輪の上限でした。




