第39話「牙が届かない最後の一歩」
【未完】は時間停止スキルではありません。
牙猪は走り、筋肉を動かし、門へ届こうとし続けます。
ただ、衝突を完成させる最後の一歩だけが世界へ結着しません。
牙猪が侵攻してきている中、西門の内側で、避難を告げる大声が飛び交った。
「子どもを中央広場へ避難させろ!」
「荷車を道から退けるんだ!」
「弓を持て! 屋根へ上がれええええええ!」
高齢者と子どもが門から離され、家畜小屋の扉が閉じられる。自警団員は門上へ上がり、弓へ矢をつがえた。
だが、巨大牙猪の正面から矢を射たところで、そのブ厚い頭骨と脂肪へ阻まれる可能性が高い。傷つけるだけなら、さらに興奮させてしまう。
そして――門を閉める閂は、あと指一本の位置から動かない。
レイルは濡れた原稿をエナへ預け、門の構造と迫る牙猪を見比べた。
今、【未完】が奪っているのは、閂が溝へ完全に入る最後の一工程。
別の対象へ移れば、閂へ完成権が返る。
しかし、何へ移すか。それが問題だ。
牙猪の命そのものは理解できない。走るという行為全体も広すぎる。いつ始まり、何をもって終わるのかが曖昧だ。
それでも、目の前で完成へ向かう一つだけは分かる。
牙が門へ衝突する、そのための最後の踏み込み。
「父さん」
レイルは門脇の小扉を指した。
「僕を、牙猪へ触れられる位置まで出してください」
「駄目だ」
バルドは即答した。
「門を閉じるには、別の完成直前へ【未完】を移す必要があります」
「他の物では駄目なのか?」
「近くで、完成条件を理解できて、今まさに完成直前のものが必要です」
「成功したことはあるのか」
「いえ......ありません」
「なら駄目だ」
「何もしなければ、牙猪が門へ届いてしまいます!」
バルドの拳が固く握られる。
「門前で倒せたとしても、今の閂は閉じません。次の魔物が来ても、夜になっても、村を守れない」
「だから子どもを出すのか」
「僕にしか移せない可能性があります」
「可能性でお前を死なすわけにはいかん」
低い声だった。
父親として止めたい。
自警団員として村を守らなければならない。
その両方が、バルドの顔へ出ていた。
リィナが二人の間へ入る。
「私が先に向きをずらします」
「木剣で止められる相手じゃない」とバルドが言う。
「止めないよ。レイルが触れる場所を作るだけ」
レイルは牙猪までの距離を見た。
「腰へ命綱を二本。一本は父さん、一本は門内の柱へ固定。リィナは正面に立たず、欠けた牙側から鼻先をずらす。僕は接触後、すぐ引き戻してもらう」
「三本目はないの?」
リィナが尋ねた。
「二本だけでいい」
「あれ、珍しいね」
「三本目が絡む事故は、さっき起きたからな」
状況が状況でなければ、リィナは笑ったかもしれない。
今は一度だけしっかりと頷いた。
そこへ、村の屋根を飛び越えて風が来た。
風は避難する人々を一人も転ばせず、土煙だけを左右へ押し分ける。大きな外套を翻し、エルシアが西門前へ降り立った。
「状況を三行で言いな、バカ弟子」
「原稿の安全装置が外れ、門の最後の閂へ【未完】が移りました。
牙猪の衝突へ移せば門は閉じる可能性があります。
接触指定は一度も成功していません」
「ほう、三行に収めたのは成長だね。内容は最悪じゃがな」
エルシアは門へ手を触れ、閂へ流れ込む未完圧力を読む。
「風で牙猪を止めることはできませんか?」とレイルが尋ねた。
「止めるだけならできる。だが、お前の【未完】が門を抱えたままだ。牙猪を吹き飛ばしても、門は閉じない。しかも強引な外力で完成条件が崩れた時、お前の力が次に何へ移るか分からない」
エルシアの琥珀色の瞳が細くなる。
「試す価値はある。じゃが、安全とはとても言えんのう」
通常なら「バカ弟子」と呼ぶ彼女が、ここで一度だけ名を呼んだ。
「レイル。触れた瞬間に失敗すれば、死ぬよ」
「触れなければ、門の内側にいる人が危険です」
「英雄みたいなかっこつけた言い方をするんじゃない。お前が選ぶのは、間違いのない成功だけにおし」
「はい」
「バルド。命綱は二本。私が風で足場を支える。リィナは接触位置だけを作れ。レイルは移ったと感じた瞬間、粘らず戻れ」
バルドはしばらく息子を見つめた後、自分の手で縄を結んだ。
「一度触れたら、すぐ引く」
「はい」
「失敗したら、二度目へ行かない」
「はい」
「帰ってこい」
最後の言葉だけは、自警団員ではなく父親の声だった。
「ちゃんと、帰ります」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
小扉が開く。
土を蹴る音が、腹の内側まで響いた。
牙猪はすでに、西門から数十歩の距離まで迫っている。目は血走り、口元から泡を飛ばしていた。正面から受ければ、人間の身体など木片と変わらない。
リィナが走る。
彼女は木剣を両手で握り、欠けた牙側へ回り込む。
牙を受けない。
力比べもしない。
牙猪が次に踏み込む場所へ木剣の先を差し入れ、土を跳ね上げる。
目へ泥を浴びた牙猪の頭が、ほんの僅かに傾いた。
「今だよ!」
バルドと自警団員が縄を緩める。
レイルは門外へ踏み出した。恐怖で足が止まりかける。
接触位置を、もう半歩変えた方がよい。
牙の角度。
縄の張力。
地面の石。
リィナの退路。
確認すべきことはいくらでもある。
だが、牙猪は待ってくれない。
レイルは、次の一歩を踏み込んだ。
伸ばした右手が、欠けた牙へ触れる。
それはすごく冷たかった。
次の瞬間、牙の根元から伝わる振動と、巨体すべてを前へ運ぶ力が腕へ流れ込んだ。
レイルは牙猪そのものを止めようとしなかった。
理解するのは、一つだけ。
この牙が門へ届くための、最後の一歩。
「門へ届く、その一歩だけを――終わらせない!」
右目へ、閉じ切らない輪が浮かぶ。
胸の中にあった閂の圧力が消え、代わりに牙猪の踏み込みが流れ込んだ。
門上で轟音が鳴る。
閂が最後まで溝へ入り、西門が閉じた。
「引けええええええい!」
バルドたちが縄を引く。
レイルの身体が土の上を滑り、小扉の内側へ戻される。リィナも転がるように門内へ飛び込んだ。
小扉が閉じる。
直後、牙猪が西門へ到達した。
誰もが衝突音を覚悟した。
だが、音は来なかった。
牙の先端は、門板から指一本分の位置にある。
牙猪の時間が止まったのではない。
前脚は地面を蹴る。
後脚の筋肉は収縮する。
鼻息が門板を濡らす。
蹄が土を抉る。
巨体は前へ進もうとし続けている。
それでも、牙が門へ触れる最後の距離だけが埋まらない。
「止まった……?」
自警団員の一人が呟く。
「違う!」
レイルは右腕を押さえた。
「走り続けています。衝突だけが完成していないんです!」
牙猪が踏み込むたび、その力が胸へ流れ込む。
一度。
二度。
三度。
完成しようとした力は消えずに蓄積する。門前の土が深く抉れ、牙猪の蹄から血が滲み始めた。
レイルの右腕も震えた。
自分の筋肉ではない。
牙猪の焦り、怒り、前へ進みたいという圧力が、骨の内側を押してくる。
「レイル!」
リィナが肩を支える。
「門は閉じた。もう原稿へ戻していいの?」
「駄目だ」
今【未完】を別の対象へ移せば、牙猪へ奪われていた最後の一歩が完成する。
門へ向いたまま、蓄積した突進が一気に返る。
「先に、牙猪の向きを変える必要がある」
「どれくらい?」
「門が正面から外れるまで」
ニアが赤い術式表示を展開した。
『完成圧力、継続上昇中デスにゃ』
『使用者候補ノ魔力経路、負荷増大デスにゃ』
『長時間保持、中止ヲ推奨シマスにゃ』
「中止方法がないんだよ!」
『安全条件、未成立デスにゃ』
正しい警告だった。それでも、今解除すれば門は壊れてしまうだろう。
エルシアは門板へ手を触れ、外の振動を確かめた。
「吹き飛ばすのは駄目だ。完成条件が崩れて、どこへ力が返るかが読めんぞ」
「では、どうします?」
「全員で、少しずつ道を変えるのさ」
リィナが木剣を握り直した。
「次の道は、私が作る」
レイルは痛みに耐えながら頷いた。
門を閉じただけでは、まだ終わっていない。
レイルは第二段階の入口として、接触した「門へ届く最後の一歩」へ意図的に【未完】を移しました。
牙猪は停止しておらず、踏み込む力と焦燥は蓄積し続けています。
次回、方向を変えた後に短編へ【未完】を移し、突進を森への空振りとして完成させます。




