第38話「原稿鞄が流された日」
準備は事故を減らしますが、すべての事故を消すわけではありません。
何重にも固定した原稿鞄はリィナを救う助けとなり、同時に水路の罠へ絡まる原因にもなります。
ざあああああああああああああああ―――――――。
前夜の雨で、エルデ村西門脇の水路は濁っていた。
普段は子どもの膝ほどしかない流れが、今日は腰の高さ近くまで増している。上流から流れてきた枝や枯草が古い害獣罠へ絡まり、水を堰き止めていた。
このまま放置すれば、水は西門前の道へあふれ、低い畑へ流れ込む。
レイルとリィナへ任されたのは、バルドと自警団の監督下で枝を外し、罠を撤去する補助作業だった。
「原稿鞄、防水布二重、確認。」
レイルは留め具を引いた。
「肩紐、腰紐、落下防止紐三本。接続点は別々。一本が切れても残り二本が保持する」
「増やしすぎて、動けなくならない? 見てるだけで体が重いよ」
「前回までの水没想定を改善した」
「前回、水没してなくない?」
「起きてからでは遅い」
『固定箇所増加ニヨル、引ッ掛カリ危険モ上昇シマスにゃ』
「三本を別方向へ逃がしている」
『危険要因ノ消失ハ確認デキマセンにゃ』
「危険は消すものではない。管理するものだ」
隣でリィナが大きな籠から丸パンを取り出した。
「おい、作業前に食べるのか?」
「水の中でお腹が空いたら、力が出ないでしょ」
『作業前摂取、二個目デスにゃ』
「これは小さいから一個半でカウントして!」
「リィナ、個数の定義を変えないでくれ」
「じゃあ、レイルの付属資料も本文に数えるけどいい?」
「それは分類が違う」
「同じだって!」
門上で作業していたバルドが、深いため息を落とした。
「二人とも、食料と紙の分類は後にしろ。水位が上がる前に終わらせるぞ」
「はい」
「はーい!」
レイルは胸元の小刀を確認した。
縄が罠へ絡んだ場合、自分の身体側ではなく、罠へ近い一本だけを切るためのものだ。三本すべてを一度に切れば、今度は水へ流される。
「リィナが落ちた場合、右腕をつかむ。左腕は鉤棒を持っている可能性が高い」
「私がレイルをつかむ時は?」
「原稿鞄ではなく、身体を」
「レイルは軽いからね」
「肩だと衣服が破れる可能性がある。手首か、肘の内側が――」
リィナが手を差し出した。
「じゃあ今、確認しておく?」
「何を」
「つかむ場所」
レイルは数瞬迷ってから、差し出された手首へ指を添えた。
細い手首の下で、脈が速く打っている。自分の指先まで妙に熱く感じた。
『双方ノ体温上昇ヲ確認シマシタにゃ』
「作業前の緊張だ」
「私は違うけど?」
「では個別原因の特定は後にする」
「もうばかあああああああああ!」
木剣ではなく、鉤棒の柄がレイルの靴先へ軽く当たった。
「水路へ落とすなよ」と、バルドが言った。
「落としません!」
「どちらをだ」
「両方です!」
答えたレイルの方が、なぜか一番顔を赤くしていた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
西門では、水路の作業と並行して、新しい閂の開閉確認も行われていた。
雨で木が膨らみ、溝へ入りにくくなっている。自警団員二人が油を塗り、バルドが鉋で表面を僅かに調整していた。
門の下を通る水路から閂までは、数歩しか離れていない。
レイルは水際へ腰を落とし、縄で身体を柵へつないだ。リィナは一段下へ降り、長い鉤棒で枝を押さえる。
「大きい枝から外す。小さい物を先に抜くと、水圧が一箇所へ集中する」
「分かった。これ?」
「待って。根元が罠の鉄輪へ絡んでいる」
レイルは小刀を入れる角度を変えた。
枝を切り、水草を剥がし、錆びた罠の留め金を探す。リィナは鉤棒で流木を押さえたまま、片手で別の枝を引き抜いた。
「重くないのか」
「平気」
『リィナノ出力、朝食量ト相関アリト推定シマスにゃ』
「ほら!」
「そこは認めるのか……」
作業は予定より順調に進んだ。
最後の太い枝へ手をかけた時、水の下で何かが折れた。
鈍い音。
泥へ埋もれていた古い杭が、水圧に耐えきれず根元から倒れる。
罠の鉄輪が横へ回転し、鉤棒を持つリィナの足元を払った。
「リィナ!」
彼女の身体が水路へ傾く。
レイルは原稿鞄ではなく、リィナの腕をつかんだ。
腰へ結んだ一本目の紐が罠へ絡む。二本目がレイルの身体を止め、三本目へ荷重が移った。複数の固定がなければ、二人とも濁流へ落ちていた。
だが、強く引かれた紐の一つが、原稿鞄の肩留めを岩角へ押しつける。
革が裂けた。
レイルが振り返った時には、鞄が水へ落ちていた。
「――原稿!」
防水布は二重だった。
しかし、罠の金具が外側の布だけでなく、内側まで引き裂いている。濁流へ呑まれた鞄は、門下の鉄格子へ引っかかり、激しく揺れた。
バルドと自警団員が縄を引き、二人を水際から引き上げる。
リィナは咳き込みながらも、自分の足で立った。
「私は平気。レイル、鞄を!」
レイルは格子へ身を乗り出した。バルドに腰を支えられながら腕を伸ばし、流れに逆らって鞄を引き上げる。
中の原稿は完全には流されていない。
だが、水を吸った頁は互いに貼りつき、文字が滲んでいた。
勇者が森を出た後の場面。
戻る場所。
最後に言うはずだった言葉。
頁の順番が崩れ、どの文章が結末へ続くのか、レイル自身にも分からない。
胸の奥から、いつも感じていた弱い圧力が消えた。
「まずい。安全装置が……」
自作小説を完成させたいという意思はある。
それでも今のレイルは、濡れた紙のどこまでを一つの物語として扱い、何をもって完成とするのか理解できない。
完成条件を理解できない対象は、【未完】の保持先にならない。
原稿が保持枠から外れた。
直後、頭上で木が軋んだ。
「押せ!」
バルドたちが、西門の閂を溝へ入れようとしている。
あと指一本。
そこまで入れば門扉は固定され、施錠確認の鐘を鳴らせる。レイルは父の仕事を何度も見ていた。閂が閉じる条件を、はっきり理解している。
濡れた原稿を抱えたまま、レイルは反射的に思った。
”門だけは、閉じてくれ”。
その瞬間だった。
三人が力を込めても、閂があと指一本の位置から進まなくなった。
木は折れない。
溝にも異物はない。
押す力も足りている。
それでも、最後まで入らない。
胸の内側へ、新しい完成圧力が流れ込んだ。
「僕の【未完】が、門へ移った」
バルドが振り返る。
「戻せそうか?」
「原稿の完成条件が分かりません。別の完成直前へ移すことも、まだ意図して成功したことは――」
見張り台の鐘が、激しく鳴り響いた。カンカンカンカンカンカン!
「森から牙猪が来てるぞおおおおおおおっ!」
西の街道へ視線が集まる。
木々の間から、黒褐色の巨体が現れた。
通常の牙猪より二回り以上大きい。片方の牙は途中で欠け、肩から腹へ古い傷が走っている。増水と罠の破断音に興奮したのか、頭を低くし、西門へ一直線に走っていた。
「門を閉めろ!」
「閉まらない!」
村人が叫び、門の内側から荷車を退かし始める。
閂は、あと指一本で止まっている。
牙猪は土を蹴り、距離を詰める。
リィナが濡れた髪を払い、木剣を抜いた。
「門まで、どれくらい?」
「二分もない」
「じゃあ、考えながら動いて!」
レイルは濡れた原稿を胸へ抱え、立ち上がった。
防水布は破れた。
固定紐は罠へ絡んだ。
それでも、その紐がリィナを水から引き上げた。
準備は無意味ではない。
ただ、準備だけでは、目の前の牙を止められない。
初期の【未完】は、レイルが完成条件を理解できる近距離の対象へ移ります。
原稿の構造を見失った直後、数歩先で完成直前だった西門の閂が、新しい保持対象となりました。
次回、レイルは初めて、触れた対象へ意図的に【未完】を移そうとします。




