第3話 悪気がないでは終われない ――鍋兜と幼なじみ――
謝れば、壊れた仕事が元へ戻るわけではありません。
それでも謝罪と説明から逃げれば、何も始められません。
レイルは鍋をかぶり、幼なじみに手を引かれ、最初の責任へ向かいます。
翌朝、レイルは頭へ鍋をかぶっていた。片手には原稿を入れた革鞄。腰には予備のインク瓶。上着の内側には紙、木炭、短い紐、布切れ、小さな薬草袋まで詰めている。祭礼係の家へ謝罪に行くだけの装備ではない。
「レイル」
母エナが、鍋の取っ手をつまんだ。
「それは朝食を作る道具よ」
「リィナの木剣対策だから」
「昨日は拳だったでしょう」
「攻撃手段が増える可能性を考慮した」
「まず私の鍋を返しなさい、ごはんが作れないでしょ」
兜を失ったレイルは、寝癖の立った灰褐色の髪を両手で押さえた。前世では、謝罪文の言い回しを考え続け、連絡そのものを翌日へ延ばしたことがある。今世では父が隣にいる。逃げる余地はなかった。
「言うことは覚えたか」
革前掛けを外したバルドは、普段よりきちんとした濃茶の上着を着ていた。左手親指の古い傷へ、木工仕事でついた新しい木屑が残っている。
「祭礼布の最後の糸が結べなくなりました。僕の原稿が同じ時に勝手に進みました。関係があるかもしれません。申し訳ありません」
「最後の一文はいらん」
「でも謝罪は必要じゃないの?」
「必要だ。だから、言葉だけで終わらせるな。調べて、直す。払う。できないなら働いて返す。そこまで話せ」
バルドは机の上へ、小さな木箱を置いた。蓋の蝶番が片方だけついていない。作りかけに見えるが、角は削り終え、表面も磨かれていた。
「これは?」
「お前の近くへ、完成前の仕事を持ち込まないための箱だ」
「未完成のまま使うの?」
「そのつもりだった」
蓋を載せると、固定されていない側が大きくずれた。
「父さん。これは未完成というより、使いにくい完成品では?」
「父さんにも限界はある」
バルドは真顔だった。母が鍋を抱えたまま、窓の方を向いた。肩が小さく揺れている。
「笑ってる場合じゃないよ」
「笑っていないわ」
「じゃあこっちを見て」
「今は無理......」
玄関の外から、木剣で扉を叩く音がした。
「レイルー! 逃げてない!?」
「謝罪へ行く人間に対する呼びかけじゃない!」
リィナが扉を開け、家の中を見回した。赤栗色の髪はいつもより丁寧に結ばれている。母親に整えられたのだろう。膝の擦り傷も布で覆われていたが、木剣だけは普段どおり腰にある。
「鍋は?」
「かぶっていかない」
「でも、かぶったんでしょ?」
「......かぶった、けど母さんに取り上げられた」
リィナは祭礼布を包んだ荷物へ目をやった。
「私も行く」
「遊びじゃないぞ」
「分かってる。昨日、私も見たから。最後の糸がどうなってたか聞かれたら話せる」
バルドは少し考え、頷いた。
「勝手な口出しはするな」
「レイルが逃げようとしたら殴っていい?」
「加減しろ」
「父さぁぁぁん!?」
エルデ村の朝は、焼き始めたパンと湿った土の匂いがした。
村の西側にはグラウ森林が迫り、東側には麦畑とハルツへ続く街道が延びている。森から木材と獣肉を得て、畑で麦を育て、余った品を町へ運ぶ。ラウゼン王国の地図へ記しても、点一つで終わるような村だったが、ここで暮らす者にとっては畑も窯も工房も、それぞれが家族の生活そのものだった。
祭礼まで五日。広場では男たちが木枠を組み、女たちは飾り紐を束ねている。レイルたちが包んだ祭礼布を運んでいると、何人かが手を止めた。
「あら、それエナの布じゃないか」
「今日、町へ出すはずだったろう」
「何かあったのか?」
バルドは「後で説明する」とだけ答えた。誰もまだ事情を知らない。その普通の視線が、かえって苦しかった。レイルは完成間近に見える物から距離を取った。パン屋の窯。組み上がりかけた屋台。最後の釘を打とうとしている看板。何が起きるか分からない以上、三歩以上離れる。避けるたびに進路が曲がり、祭礼係の家とは逆方向へ寄っていく。
「レイル、どこ行くの?」
「完成直前の物を避けている」
「そのままだと村を一周するよ」
「安全な経路が一つしかないとは限らない」
「謝りに行くのに迷子になったら、もう一件謝ることが増えるでしょ!!」
リィナがレイルの手をつかんだ。
「私が引っ張る」
「待て。手をつなぐ必要性は――」
「ある。あんた、放っておくと逃げ道を探しながら本当に逃げちゃうもん」
「逃げない。これは危険回避だ」
「逃げない日を作ってから言って」
彼女の手は昨日と同じく温かかった。レイルは周囲を確認し、声を潜める。
「こうして毎日手をつなぐなら、将来の契約も検討して――」
木剣の柄が脇腹へ入った。
「ばかあああああああああああああ!」
「手を離さず攻撃する技術だけ上がってない!?」
「逃げるから離さないの!」
「僕は謝罪へ向かってる!」
「じゃあ余計なこと言わず歩く!」
前を歩くバルドは振り返らなかった。ただ、肩が一度だけ揺れた。
「父さんまで笑ってるだろ!」
「歩け」
祭礼係の女性は、広場の近くで染料と飾り布を扱う店を営んでいた。事情を聞くと、彼女は包みを開き、完成しない銀糸を何度も確かめた。怒鳴らなかった。レイルの頭を撫でて「子どものしたことだから」と済ませることもしなかった。
「町の仕立て組合へ、今日の荷馬車で見本を送る約束だったの」
女性は布の端に縫い込まれた納品印へ指を置いた。
「この布が届けば、来年からエナへ町の仕事を回せるかもしれなかった。今回の三銀貨だけではないのよ」
母が夜更かしを続けたのは、次の仕事へつなげるためだった。自分の原稿が二文字進んだ代わりに、母は金だけでなく信用まで失うかもしれない。
「僕が......」
言葉を作ろうとすると、前世の癖が頭を出した。僕は知らなかった。わざとじゃなかった。まだ僕のせいと決まったわけではない。
どれも事実だ。そして、どれも最初に言えば逃げ道になる。
「ごめんなさい」
レイルは頭を下げた。
「僕に関係があるかもしれません。原因を調べます。直せる方法も探します。お金は今すぐ払えないけど、父さんと母さんだけに払わせません。僕もできる仕事をします」
六歳にできる仕事など、薪運びや掃除くらいしかない。それでも、途中で言い訳を挟まず最後まで言った。
「悪気はなかったんです」
その一文だけ、後から小さく足した。祭礼係の女性の表情は変わらなかった。
「ええ。そうでしょうね。でも、悪気がなくても、エナの仕事が戻るわけではないわ――」
レイルの肩が縮む。隣でリィナが手を離した。代わりに、背中を一度だけ押した。
「わざとじゃなくても、謝らなくていい理由にはならないよ」
リィナは代わりに謝らず、祭礼係へ怒りもしない。起きたことから逃げないよう、後ろに立っているだけだ。
「......うん」
バルドは修理と賠償の条件を話した。今日の荷馬車には間に合わない。町へは事情を記した手紙を送る。祭礼布が完成しなければ、材料費と違約分はアルヴァート家が働いて返す。原因が分かるまで、レイルを納品前の仕事場へ近づけない。祭礼係の女性は、すぐに許すとは言わなかった。
「まず神殿で調べてちょうだい。この村の仕事を、これ以上止めないために」
帰り道、誰も長く話さなかった。広場では釘を打つ音が響き、パン屋から焼き上がったパンが運び出されている。世の中の物事は、当たり前のように始まり、進み、終わっていく。自分の近くにあるものだけが、そうならないのかもしれない。家へ戻ると、レイルは机へ向かった。
新しい紙の上へ、今日起きたことを書き始める。時刻。場所。母が試した糸の種類。
自分の原稿が変化した瞬間。祭礼布の金額と納期。紙の上へ、失敗を一つずつ固定していく。書かなければ、都合の悪い部分から忘れてしまう気がした。リィナは隣の椅子へ逆向きに座り、背もたれへ顎を載せた。
「その話、また途中でやめないよね?」
「これは報告書だ」
「報告書も話でしょ。最後まで書く?」
レイルは羽根ペンを止めた。断言するのが怖かった。完成させられなかった時、嘘になるからだ。それでも、父と母は今から賠償の相談を始める。祭礼係は町へ謝罪の手紙を書く。誰も結果が怖いからと、途中で投げてはいない。
「書く」
レイルは答えた。
「今日の分は、今日中に終わらせる」
リィナが満足そうに笑い、原稿の一行を指でなぞった。
「じゃあ、勇者の方も帰してあげなよ」
「それは全体構成をもう一度確認してから」
「また“もう少し”って言うつもり?」
「......報告書を先に完成させる」
「逃げた」
「優先順位を決めたんだ」
窓の外で、神殿の鐘が鳴った。明日、レイルはそこで、自分の魂に刻まれたものを調べる。
この時の彼はまだ知らない。
鑑定そのものが、最後まで終わらないことを。
謝罪は被害を消しませんが、レイルが責任から逃げないための最初の一歩になりました。
この時点の【未完】は一件保持・対象選択不能・任意解除不能です。現在は母エナの祭礼刺繍が完成できない状態にあります。
次回、神殿の鑑定は予定どおり――終わりません。




