第2話 ほどける最後の糸 ――三銀貨の一針――
終わらないのは、たった一つの結び目。
けれど仕事の一針には、材料費も納期も家族の暮らしも結ばれています。
レイルは初めて、自分の中途半端が他人へ届く瞬間を見ます。
その後も銀糸は七回ほどけた。
エナは糸を替え、針も替えた。結び方を一重から二重へ変え、裏布を当て、蝋を薄く塗って滑りを抑えた。それでも、最後の結び目だけが締まらない。途中までは何の問題もなかった。糸は輪を作り、針は正しく通る。結び目も小さくなっていく。
あと髪の毛一本ほど締まれば完成する。その寸前で、必ず止まった。糸が切れるわけでもない。指が動かなくなるわけでもない。エナは何度でも結ぼうとし、銀糸もそのたび形を変える。ただ、完成だけが起きなかった。
「母さん、もうやめよう――」
レイルは仕事机の横で、両手を握りしめていた。
「指から血がそんなに出てる」
「今日中に仕上げれば間に合うわ」
「でも、八回目でできる理由がない」
「七回できなかったからといって、八回目もできないとは限らないでしょう?」
穏やかな声だった。けれど、エナは笑っていなかった。家の窓から差す昼の光が、彼女の目の下に薄い影を落としている。三週間、食事と睡眠の時間を削って仕上げた仕事だ。最後の一針を諦めれば、それまでの時間まで無駄になる。前世のレイルなら、その気持ちを知っていた。
八割まで作った資料。公開直前まで書いた小説。送信ボタンを押すだけのメッセージ。終わらせるのが怖くなり、「今日は疲れているから」と画面を閉じた夜を、何度も覚えている。
けれど母は逃げていない。終わらせようとしている。それなのに、終わらない。
「僕のせいかもしれないんだ」
エナの手が止まった。レイルは自分の原稿を胸へ抱えた。革紐の隙間から、一枚目の角がはみ出している。
「僕が書けなかったところが、母さんが叫んだ時に増えてた。扉を開けるところ。僕は書いてないのに、僕の字で」
「それだけなら、無意識に書いたのかもしれないわ」
「その時に、母さんの糸が結べなくなった」
口にすると、偶然だと言い張る方が難しかった。エナは息子と祭礼布を見比べた。疑う目ではない。かといって、すぐに「あなたは悪くない」と抱きしめることもしなかった。その代わり、血のにじむ指を水鉢へ浸す。
「お父さんが帰ったら、一緒に考えましょう」
「怒られるかな」
「怒られるかどうかより、起きたことを隠さない方が大切よ」
その答えには逃げ道がなかった。玄関の扉が勢いよく開いたのは、その直後だった。
「レイル! エナおばさん! 何か爆発した!?」
赤栗色の髪を振り乱し、少女が飛び込んでくる。腰には短い木剣。両膝には新しい擦り傷があり、片方の靴紐はほどけていた。
彼女は、幼なじみのリィナ・アルセイルだ。
「爆発などしてない」
「じゃあ魔物?」
「家の中に魔物がいたら、もっと早く叫んでるって」
「レイルなら魔物を見つけてから、危険性を十個くらい考えて叫ぶのが遅れそう」
「十個で足りる根拠は?」
「その返しができるなら元気だね!!」
リィナは木剣を壁へ立てかけ、エナの指を見て眉を寄せた。
「それ、レイルがやったの?」
「まだ分からない」
「分からない時のレイルって、だいたい自分が怪しいと思ってる時だよね」
六歳とは思えないほど、彼女は鋭く痛いところを突く。レイルが黙ると、リィナは原稿をひったくるように受け取った。文字を追う速さは遅い。難しい漢字のところでは唇が動く。それでも彼女は、前からレイルの物語を読みに来ていた。
「あれ、話進んでるね。扉、開いたんだ」
「そこだけ勝手に進んだ」
「じゃあ、勇者は帰ってきたの?」
「まだ。『ただいま』を言ってない」
「また止めたの?」
「止めたというか、最後の台詞には全体の主題を回収する役割があって、安易に書くと物語全体の評価が――」
「帰ってきたなら、ただいまでいいじゃん?」
リィナは原稿をレイルの胸へ押し返した。
「待ってる子がかわいそう」
理由もなく、その言葉が前世の古傷へ触れた。レイルが原稿を抱き直していると、リィナは突然、彼の右手を握った。
「な、何だよ?」
「エナおばさんの怪我がレイルのせいなら、触ると何か分かるかもしれないでしょ」
「危険性を考えると、先に棒か紐を使うべきだ。人体へ影響する可能性も――」
「もう握ってる、遅い」
「......温かい」
「手だからね」
日に焼けた手は、レイルの手より少し大きかった。前世では女性の手を握る自然な口実を探し続け、結局一度も使わなかった。今世では相手から握られている。六歳の頭では、どう返せば自然なのか処理が追いつかなかった。
「この手なら、将来の結婚相手としても――」
ごつん、と額へ拳が落ちた。
「ばかあああああああああああああああああああああああああ!」
「最後まで聞いてから判断して!」
「聞いたらもっと殴る気がする!」
「握ったのはリィナの方だろ!」
「調べるため! 変なこと言わせるためじゃないし!」
エナが口元を押さえた。笑いかけたのだろう。けれど膝の祭礼布へ目を落とすと、その表情はすぐに消えた。リィナも布の異常を理解したらしい。木剣を使って離れた位置から銀糸をつつき、真面目な顔になる。
「本当に、最後だけできないんだ」
「僕の話が進んだ代わりに、母さんの仕事が止まったのかもしれない」
「じゃあ、話を元に戻せば?」
レイルは原稿の「た。」へ何本も線を引いた。文字は黒く潰れ、文章として読めなくなる。それでも、エナの銀糸は結べなかった。書いたものを消すことと、書かなかったことにするのは違うらしい。
「紙を汚しただけだね」
「結果が確定した後では戻せないのかもしれない」
「じゃあ何?」
「分からない」
「またそれ」
リィナは頬を膨らませたが、帰ろうとはしなかった。夕方、父バルドが木屑まみれの革前掛けをつけたまま帰宅した。広い肩を玄関へ通し、妻の指と祭礼布を見る。息子の説明を途中で遮らず聞き、原稿の変化も確かめた。それから、仕事机の端へ置かれた納品札を手に取る。
「代金は三銀貨だ」
低い声が、部屋の空気を仕事のものへ変えた。
「銀糸と染料で一銀貨と七銅貨。今日のハルツ行きの荷馬車へ載せられなければ、町への運賃がもう一度かかる。祭礼に間に合わなければ、違約で一銀貨だな」
ハルツは、エルデ村から荷馬車で半日ほどの場所にある最寄りの町だった。村で作られた布や木工品、余った麦は、週に二度来る共同荷馬車へ積まれ、ハルツの市場や職人組合へ運ばれる。
個人で別の荷馬車を雇えば、それだけで村の一家が数日暮らせるだけの銅貨が飛ぶ。
レイルは数字を頭の中で並べた。保存パンなら百個以上。冬用の薪と麦粉を買える金額だ。
「僕が払う」
「六歳のお前に三銀貨は払えん」
「じゃあ、大人になったら」
「それまで母さんの指と、祭礼の日は待ってくれん」
「それに、ハルツの仕立て組合へ、今日の荷馬車で見本を送る約束だったの」と母が言う。
バルドは責めるためではなく、起きたことの重さを測らせるために言っていた。
「まず今夜、できることを全部試そう。明日の朝、祭礼係へ事情を話す」
「僕も行く」
「もちろんだ。引きずってでも行かせる」
父は即答した。
「お前が起こしたと決まったわけではない。だが、お前に関係がある可能性を隠す理由にもならん」
父はつまるところそういう男だった。起こした責任から逃げず、きちんと向き合う。
レイルは原稿へ視線を落とした。物語の勇者は、扉を開けたところで止まっている。母の刺繍は、最後の結び目で止まっている。そして自分は、謝りに行く前から、できれば別の原因であってほしいと願っていた。
前世と同じだった。結果が確定する直前で、逃げ道を探している。
祭礼布の損害は、家庭の冬支度へ直接響く金額です。
コメディを挟みつつも、リィナはレイルの行為を無条件には正当化しません。
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