第1話 勇者は扉の前で止まっている ――未来の大魔導士、六歳――
三百二十四件の未完を操った大魔導士にも、何一つ終わらせられなかった頃がありました。
六歳のレイルが止めていたのは、世界ではなく自分の物語です。
そして最初に被害を受けたのは、彼を一番大切にしていた人でした。
母の悲鳴が上がった。レイルの指から羽根ペンが滑り落ち、机の上を転がった。黒いインクが原稿の端へ細い川を作ったが、六歳の彼は拭うことも忘れて椅子から飛び降りる。
「母さん!?」
隣の仕事部屋では、母エナが大きな布を膝へ広げていた。祭礼の日、村の広場へ掲げるための祭礼布だ。青い糸で夜空を、銀糸で星を、赤い糸で村を囲う麦の穂を描いている。三週間かけて縫い上げた布は、あと一針で完成するはずだった。その最後の糸が、結べない。
「おかしいわね......」
エナは細い指で糸を輪にし、針先をくぐらせた。結び目が締まる寸前、銀糸が生き物のようにするりと逃げる。もう一度。今度は二重に輪を作る。指先へ力を込め、ほどけないよう爪で押さえる。それでも結び目は最後のところで止まり、輪だけを残して緩んだ。
「手を刺したの?」
「少しだけよ。驚かせてごめんなさい」
母は針傷の浮いた指を布の下へ隠した。隠すのが一瞬遅かった。赤い雫が、銀色の星の横へ落ちていた。レイルは布へ近づこうとして、足を止めた。胸の裏側へ細い糸を通されたような感覚があった。引けば切れそうなのに、放っておけばいつまでも引かれ続ける。そんな落ち着かない圧力だった。
「糸が悪くなったのかもしれないわ。別のものに替えてみるから、レイルは戻っていて」
「でも――」
「大丈夫。あなたのお話、もう少しで終わるのでしょう?」
終わる。その言葉だけで、胃の奥が冷えた。レイルは返事をせず、自分の部屋へ戻った。机の上には、革紐でまとめた原稿がある。
題名は『名もなき勇者の帰還』。魔王を倒した勇者が、故郷へ帰るだけの物語だ。六歳の子どもが書いたにしては文字が整い、戦闘の構成も妙に細かい。なぜなら中身を書いているのは、六歳の子どもだけではなかったからだ。
レイル・アルヴァートには、前世の記憶がある。
彼が転生で生まれ直したのは、ラウゼン王国北西部にあるエルデ村だった。西のグラウ森林と、東へ広がる麦畑の間に作られた小さな村で、住民の多くは畑仕事、木工、刺繍のいずれかで暮らしている。
この世界で紙とインクは安くない。それでも母は、仕事で余った布包みの紙や、町へ出た際に買った小瓶のインクを少しずつ渡してくれた。父は文字を書ける机を作った。
二人が用意した場所で、レイルは前世と同じことを繰り返している。
レイルの前世の名は、間宮玲司。三十五歳。異世界転生小説を何作も書き始め、何作も途中で止めた男だった。勇者が追放されたところで止まった話。
悪役令嬢が断罪をひっくり返したところで止まった話。ダンジョン配信が軌道に乗り、読者が増え始めた途端に止まった話。設定資料だけなら、どれも最後まで世界を救えそうな厚さだった。けれど、玲司は最後を書かなかった。
評価が伸びなければ、別の題材の方が向いていると思った。感想で矛盾を指摘されれば、修正してから続きを書こうと考えた。新しい導入を思いつけば、今度こそ完結できると信じた。
完成させなければ、失敗作だと確定しない。
途中までなら、まだ可能性がある。そうやって作品だけでなく、仕事も、勉強も、友人への返信も、伝えるはずだった言葉さえ残したまま――人生まで途中で終わった。死んだ夜も、机の上には完成直前の原稿があった。
画面の隅では、数年前から返していない友人のメッセージが未読のまま残っていた。スマートフォンには、かつて一番近くにいた女性へ送ろうとした文章がある。
『久しぶり。
あの小説、ようやく最後まで――』
そこから先を決められず、下書きへ保存した。明日なら書ける。休みの日なら落ち着いて送れる。作品を完成させてから連絡した方が格好がつく。そうやって用意した明日は、一度も来なかった。転生した時、レイルは思った。
今度こそ、何か一つくらい最後までやろう。だから六歳の誕生日に、この物語を書き始めた。導入は一日で書けた。旅立ちも、仲間との出会いも、魔王との決戦も書けた。前世で散々書いてきた部分だから、手は止まらなかった。そして勇者は故郷へ帰った。
扉の向こうには、ずっと待っていた少女がいる。あとは扉を開けて、「ただいま」と言わせるだけだった。三日間、その一文が書けていない。
「ラストは決まってるんだ」
誰に言うでもなく呟いた言葉に、前世の古い声が重なった。
『玲司の“もう少し”は長いからなあ――』
顔を思い出す前に、レイルは記憶から目をそらした。笑っていた声だけが、妙に残っている。
「......今度こそ書く」
レイルは羽根ペンを拾った。そこで、原稿の変化に気づいた。先ほどまでの最後の一行は、こうだった。
『勇者は、懐かしい家の扉を開け――』
今は違う。
『勇者は、懐かしい家の扉を開けた。』
最後の二文字が増えていた。見間違いではない。文字の癖も、インクの色も、レイルのものだった。しかも書き足された部分だけが、まだ濡れている。右手を見る。指先にインクがついていた。
「僕が......書いた、のか?」
書いた覚えはない。けれど、先ほど羽根ペンを握っていたのは自分だ。母の悲鳴が上がった瞬間まで、自分は最後の一文を恐れていた。隣の部屋から、金属皿が床へ落ちる音がした。
「どうして......どうして結べないの............」
母の声には、今度こそ隠しきれない焦りが混じっていた。レイルは原稿と壁を交互に見た。自分の物語は、一歩だけ進んだ。代わりに、母の仕事が最後の一針で止まっている。
胸の内側で、見えない糸が強く引かれた。それは偶然だと考えるには、あまりにも自分に似た現象だった。終わるはずだったものが、終わらない。そして、終わらせられなかった自分の物語だけが進んでいる。
「まさか......」
六歳のレイルは、完成した扉の一文を見つめた。扉は開いた。それでも勇者は、まだ「ただいま」と言えていなかった。
未来では戦場を止める力も、最初は母の仕事を止めるだけの迷惑な現象でした。
レイル自身も、まだ固有スキルが発現したとは理解していません。
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