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未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――  作者: 勇者ヨシ君
第1章 最後の一文

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プロローグ 『未完の大魔導士』

 始めたものを終わらせることが、ずっと怖かった。

 だから少年は、完成直前のものばかりを抱え込んだ。

 これは、その少年が十七年後――三百二十四の未完と、最後まで残した一件を背負い、世界の結末を選ぶ場面である。


※お急ぎの方は第一話から読んでいただいても構いません。

 空を埋め尽くしていた白い軍勢が、同時に槍を掲げた。


 数は――もはや、数える意味がない。


 崩れた城壁の向こうから、罅割(ひびわ)れた地平線の果てまで。白磁の鎧をまとった神兵(ゴッド・ソルジャー)が、雪原のように隙間なく並んでいる。


 その頭上では、幾千、幾万もの光輪が回転し、重なり、噛み合い、空そのものを巨大な【世界術式盤(せかいじゅつしきばん)】へ変えていた。


 雲が消えた。


 風が止んだ。


 戦場から、赤も、青も、黒も失われていく。


 残るのは、すべてを一つの正解へ塗り潰す白だけ。


 世界そのものへ、ただ一つの結末を刻み込み、二度と選び直せなくするための光だった。


『【世界結着ワールド・フィナライズ】マデ――十二秒』


 未完の大魔導士レイル・アルヴァートの隣で、黒銀の髪が舞った。


 そこに立つのは、人間ではない。


 腰まで届く黒銀色の長髪。髪の間から伸びる猫科の耳。細身ながらも成熟した女性の身体を、半透明の精霊光と実体化した魔力繊維が形作っている。


 白い肌の一部には銀色の獣紋が走り、肘から先と膝下は、実体と粒子の境界で淡く揺らいでいた。


 腰から伸びる一本の環状尾は、戦闘演算へ入ると二条の光帯へ分かれ、無数の術式文字を空中へ描き出す。


 獣の肉体特性を持ちながら、精霊のように実体化の密度を選び、魔導器のように世界を演算する存在。


 半獣にして半精霊。


 かつては腕輪の上で丸くなり、黒銀の猫としてレイルを見上げていた疑似人格。


 【万式魔導環(オムニア)】が、十七年の記録と、【七環時獄(セプテム・クロノス)】で積み重ねた七年分の経験を経て獲得した最終形態。


 【|完全人型・半獣半精霊形態オムニア・アバター】――ニア。


 金色の瞳の奥で、閉じ切らない七つの環が高速回転した。


『神槍、右方三。第一槍、対魂。第二槍、対術式。第三槍、対使用者。――単独迎撃ヘ移行シマス』


 白い閃光が三本、空を裂いた。


 ニアが大地を蹴る。


 半透明だった脚が完全に実体化し、砕けた石床を踏み抜いた。黒銀の残光が跳ね、右手に形成された【精霊獣爪(せいれいじゅうそう)】が一本目の神槍を横から打ち払う。


 切断ではない。


 槍を構成する対魂術式の接続点だけを爪先で抉り、完成先を失わせた。


 二本目には、二条へ分かれた環状尾が巻きついた。


 尾の表面を走った術式文字が、神槍の構造を一瞬で読み取り、標的条件をレイルから上空の空間座標へ書き換える。


 神槍は軌道を折り、何もない空で爆ぜた。


 三本目だけがニアの頬をかすめ、レイルへ迫る。


「一発残ってるぞ」

『意図的デス』

「俺を囮にしたのか」

『否定。迎撃不要。アレハ――剣神ノ間合イデス』

「それ、リィナに言ったか?」

『言エバ反対シマス』

「言わずにやるのは、相談じゃない」

『使用者カラ学習シマシタ』

「そこを学ぶな」


 赤栗色の閃光が、二人の間を駆け抜けた。


 迫っていた神槍が斜めに両断される。切断面から遅れて紫電が噴き出し、白い破片を内側から吹き飛ばした。


「勝手に人の獲物を残さないで!」


 白銀の軽装鎧をまとったリィナ・アルセイルが、雷を帯びた長剣を肩へ担ぐ。


 濃紺の外套は何箇所も裂け、左頬に残る細い傷が白い光を受けて赤く浮かび上がっていた。


『最適配置デス』

「あとでその尻尾、ほどけないくらい固結びにしてやるから」

『脅迫ヲ記録シマシタ』

「今は戦闘記録だけ取って!」

『使用者及ビ剣神ノ会話傾向カラ、重要度ヲ高ク判定シマシタ』

「俺まで一緒にするな」

『レイルノ責任デス』

「そこだけ妙に流暢だな」

『十七年、学習シマシタ。貴方ガ責任ヲ取ラナイ場合、周囲ガ取ラサナケレバナラナイコトモ』

「それは私も覚えた」

「二人とも、今言うことか?」

「今じゃなきゃ、また倒れたふりして逃げるでしょ」

「倒れたふりじゃない。大体、本当に倒れてる」

「もっと悪い!」


 ニアの唇が、ほんのわずかに弧を描いた。


 機能として作られた表情ではない。


 それを笑顔と呼べるようになったのが、いつからだったのか。


 レイルには思い出せなかった。思い出せないほど長く、当たり前に隣へいた。


『【世界結着ワールド・フィナライズ】マデ――十一秒』


 黒髪の女性――【未完目録官(みかんもくろくかん)】フィア・レコードが、宙に浮かぶ記録板を指で弾いた。


 無数の札が開き、レイルの左腕から胸へ伸びた術式痕と呼応して赤く明滅する。


「戦術未完記録、三百二十四件。第一番から第三百二十三番まで、結着条件を確認。即時完成可能です」

「第三百二十四番は?」

「未確定です。ノア・エルグラム設計、【広域因果焼却術式こういきいんがしょうきゃくじゅつしき――天墜獄炎(てんついごくえん)】。第一触媒が、先ほど消失しました」

『消失ではありません! 予定より早く、燃焼工程を終えただけです!』


 通信越しに、ノアの抗議が響いた。


 レイルは血の混じった息を吐く。


「正常な術式は、使う前に燃え尽きない」

『燃え尽きたのではありません! 必要な仕事を、必要以上の情熱で終えたのです!』

「それを燃え尽きたって言うんだ」

『残り〇・〇一パーセントなど、誤差です!』

「その誤差が、世界を焼くか俺たちを焼くかの違いだろ」

『だからこそ、最後の一工程を貴方が持っているのです! 私の魔法は不完全なのではありません。完成する相手を選んでいるのです!』

「初めて聞いた言い訳だな」

「訂正」


 フィアが無表情のまま記録板を操作する。


「同種の発言は過去に二百七十一回。今回は表現のみ新規です」

『フィアさん!?』

「記録官に言い訳するな。全部残るぞ」

『ならば正確に記録してください! 私の術式は、理論上は常に完璧です!』

「理論の外に現実があることを、そろそろ認めろ」

『現実の方が、私の理論へ追いついていないのです!』

「追いつく前に世界が終わるぞ」


 別の通信が割り込んだ。


『口論している余裕があるなら、第二十七術式群の位相を確認してください! レイル、貴方が勝手に解放順を変えたせいで、五群目と十一群目が干渉しています!』


 凛とした女性の声。


 【並列術式官(へいれつじゅつしかん)】セレネ・グランツだった。


「変更したのは一件だけだ」

『一件を勝手に動かせば、後ろの三百二十二件がずれるのです!』

「一件くらい余白があった方が安全だ」

『ありません!』

「即答だな」

『貴方が十七年間、余白を勝手に増やし続けた結果です! 今度という今度は、一文字たりとも残っていません!』

「世界の終わりにまで余白管理か」

『世界の終わりだからです! それと、貴方は自分が死にかけると急に手順を省略します。今回は省略させません』

「死にかけてる時に手順が増える方がおかしくないか?」

『増やしたのは貴方です』

「俺か」

『貴方です』

『レイルノ責任デス』

「ニアまで重ねるな」


 レイルは小さく息を吐き、フィアへ目を向けた。


「第三百二十四番を完成できる条件は?」

「三つです。術式群の再配列。代替触媒の確保。そして、指定結着位置の形成」

「代替触媒は?」

『理論があります!』

「物を聞いてる」

『……ありません』

「正直でよろしい」

『屈辱です!』

「指定結着位置は?」

「剣神リィナ・アルセイルが、世界術式盤の中枢へ到達する必要があります」


 リィナが剣を肩から下ろした。


「要するに、あそこまで斬ればいいんでしょ」

「簡単に言うな。前方神兵、推定二万以上。光輪防壁が七層。魂固定槍と空間縫合槍が混ざってる」

「で?」

「到達率は――」

「数字を聞いてない」

「リィナ」

「レイル。私が聞いてるのは、行けば終わらせられるのかってこと」

「……行ければ、第三百二十四番を完成できる」

「じゃあ行く」

「返事が早すぎる」

「あんたの説明が長すぎるの。心配なら道を作って」

「最初からそのつもりだ」

「なら、ちゃんと言って」

「何を」

「“行ってこい”って」

「命令みたいになるだろ」

「こんな時まで言い方を考えないで!」


 白い槍の群れが、城壁を越えて迫る。


 リィナは笑った。


 幼い頃、朝練へ三分早く来ただけのレイルを、遅刻だと言って走らせた時と同じ顔だった。


「私が前を見る。あんたは、後ろと横を見て」

「……分かった」


 レイルは杖を持ち上げた。


「行ってこい、リィナ。道は俺たちがつなぐ」

「うん。絶対、置いていかないでよ」

「それは俺の台詞だ」

「じゃあ、二人とも守ればいい」


 リィナが大地を蹴った。


 神兵の前列から、数百本の白槍が突き出される。


 槍の穂先には、異なる術式が刻まれていた。


 炎を消す槍。


 雷を奪う槍。


 空間を縫い止める槍。


 魂へ直接、終わりを刻む槍。


 リィナは止まらない。


 長剣を斜めに振り下ろす。


 だが、刃は最後まで振り抜かれなかった。


 斬り下ろしの途中で手首が返り、刃先が突きへ変わる。突きは神兵の胸へ届く直前に横薙ぎへつながり、横薙ぎは身体を沈めた回転斬りへ移る。


 一つの技が完成する前に、次の一撃が始まる。


 終わらない。


 だから、途切れない。


 それが【無終剣(むしゅうけん)】。


 かつて、レイルの傍では剣技の最後が完成しなかった。


 ならば、最後まで振り抜かなければいい。


 斬撃の終わりを、次の斬撃の始まりへ変えればいい。


 最弱の少年の隣で戦うために生まれ、十七年の鍛錬と、七環時獄で積み重ねた敗北を越え、神さえ斬る剣へ至った、リィナだけの剣術だった。


「レイル――風を寄越して!」

「未完記録、第七十二番――【蒼嵐付与(そうらんふよ)】。完成!」


 リィナの長剣を、蒼い風が包んだ。


 本来なら直線へ飛ぶはずだった風の斬撃が、終わらない剣の軌道へ引かれて螺旋を描く。前方の神兵十体が、白磁の鎧ごと宙へ巻き上げられた。


「まだ軽い! 次!」

「第九十一番――【紫電纏刃(しでんてんじん)】。完成!」


 風の螺旋へ紫電が走る。


 浮き上がった神兵を雷が連鎖し、頭上の光輪を内側から焼き切った。


 リィナは雷をまとった剣を振り切らず、刃を地面へ突き立てる。余剰の雷撃が地中へ流れ、白い軍勢の足元を網の目のように走った。


「足を止める! 冷却!」

「第百三番――【白凍結界(はくとうけっかい)】。完成!」


 熱と流動を組み合わせた冷却術式が大地へ広がった。


 白い霜が神兵の足元を覆い、雷で制御を失った関節を一気に凍りつかせる。


 リィナは凍結した戦列の中央へ飛び込んだ。


 斬る。


 突く。


 蹴る。


 身を沈めて槍をかわし、剣の腹で腕を跳ね上げ、返す刃で首元の光輪だけを切り飛ばす。


 斬撃を完成させないまま、風圧、雷撃、冷却、熱――異なる現象を次々と剣へ受け入れ、一つが尽きるより先に次の術式へつなげていく。


 魔法剣でありながら、一つの属性へ固定されない。


 剣術と魔法が互いの終わりを奪い、次の始まりへ変換し続ける。


 【無終魔法剣・連環むしゅうまほうけん・れんかん】。


『前方、神兵密度二百七十。剣神、右斜メ前方ヘ七歩。最短突破経路ヲ表示シマス』


 ニアの環状尾が二条の光帯へほどけ、戦場に黒銀の線を描く。


「七歩もいらない!」

『六歩デハ包囲サレマス』

「五歩で全部斬る!」

『理論上、不可能デス』

「なら、理論の方を置いていく!」

『――再演算。剣神ノ無謀ヲ前提条件ニ追加』

「無謀じゃない! 最短!」

『一般的ニ、ソレヲ無謀ト呼称シマス』

「ニア。リィナは行く」

『把握シテイマス』

「止めないのか」

『停止勧告ハ、既ニ十七年間無視サレテイマス』

「それも俺のせいか?」

『半分ハ』

「残り半分は?」

『剣神本人デス』

「聞こえてるからね!」


 リィナが五歩で踏み込んだ。


 一歩目。


 神槍の穂先を剣の腹で滑らせる。


 二歩目。


 槍の柄を蹴り、反動で身体を反転。


 三歩目。


 回転の途中で剣へ熱を宿す。


「レイル! 燃やせ!」

「第百七十九番――【獄炎魔剣(ごくえんまけん)】。完成!」


 刀身を紅蓮の炎が包んだ。


 四歩目。


 リィナが炎の剣を横薙ぎに振るう。


 だが、斬撃は終わらない。


 途中で刃を立て、炎を前方ではなく、これまでに刻んだ剣閃の軌跡へ流し込む。


 五歩目。


 神兵の胸へ剣を突き込み、リィナは叫んだ。


「遅れて咲け――私が斬った全部の傷から!」


 剣を引き抜いた瞬間、数百体の神兵を貫いていた過去の斬撃痕が、一斉に紅蓮へ変わった。


 白い戦列の内側から、無数の火柱が噴き上がる。


『指定結着位置マデ、残距離百八十七』

「まだそんなにあるの!?」

『剣神ガ推奨経路ヲ無視シタ結果デス』

「近道したのに増えてる!」

「敵を斜めに押し込んだ。中枢が後退したんだ」

「逃げる中枢って卑怯じゃない?」

「世界を一つに固定する術式が、正々堂々を守ると思うか?」

「じゃあ追いかける!」

『ソノ結論ハ予測済ミデス』


 ニアがレイルの隣から消えた。


 黒銀の粒子となって神兵の頭上へ転移し、次の瞬間には完全実体化して白い槍の柄へ足を乗せている。


 一本、二本、三本。


 槍を足場に駆け、両手の獣爪で術式接続部だけを切り裂く。白槍が次々と制御を失い、リィナへ届く前に地面へ落ちた。


『剣神。前方ヲ開ケマス』

「単体行動するなら、もっと早く来て!」

『使用者ノ生命維持ト優先度ガ競合シマシタ』

「レイル、また何か隠してるの?」

「何も」

『生命結着留保ヲ除ケバ、現時点デハ』

「ニア!」

「あとで聞く!」


 リィナの声が一段低くなった。


「絶対、あとで聞くから。そこで死んで逃げたら許さない」

「死なないために留保してる」

「そういう言葉遊びをするなって言ってるの!」

「今は前を見ろ!」

「帰ったら全部話して!」

「帰ったらな」

「約束!」

「……約束する」


 その一言を聞くまで、リィナは次の一歩を踏み出さなかった。


 レイルが言い切ると、彼女はようやく剣を構え直す。


「ニア。道!」

『了解。剣神ノ直感ヲ、最優先演算項目ニ変更シマス』

「最初からそうして!」

『精霊演算器トシテ、強ク抵抗ヲ感ジマス』

「相棒として信じなさい!」

『……了解。相棒トシテ、貴女ヲ信頼シマス』


 ニアが両腕を広げた。


 銀の獣紋が輝き、環状尾が巨大な術式帯へ変わる。


 迫る白槍を、自らの爪で切り払う。


 魂を固定する光輪へ身体ごと飛び込み、半透明化で中心をすり抜け、内部から実体化した指を食い込ませた。


『術式中枢、把握』


 ニアが両手を左右へ引き裂く。


 光輪の構造が歪み、一瞬だけ白い軍勢の中央に空白が生まれた。


「今デス!」


 リィナが一歩、前へ出た。


 白槍が頬をかすめる。


 二本目が左肩へ迫る。


 それを剣の鍔で跳ね上げ、三本目の穂先へ足を乗せた。


 槍の上を駆ける。


 四本目が腹部を狙う。


 リィナは身を捻り、紙一重でかわした。外套だけが切り裂かれ、赤栗色の髪が風へ舞う。


 ニアの予測より、一歩深い。


 だが、その一歩が神兵の隊列を内側へ引き寄せ、中央に小さな空白を生んだ。


 リィナはその空白へ剣を突き立て、全身の魔力を刃へ流し込む。


「ここが――あんたの魔法が終わる場所だ!」


 剣を振り上げる。


 光輪の中枢まで、一直線の裂け目が走った。


「道、開けた! レイル!」

「見えてる!」

「だったら迷うな! あんたは世界の最後まで準備した! 残ってるのは、選ぶことだけでしょ!」


『【世界結着ワールド・フィナライズ】マデ――八秒』


 フィアの声が響く。


 レイルは杖を握り直した。


 黒灰色の多層式魔導外套たそうしきまどうがいとうの下では、折れた肋骨が肺へ食い込んでいる。脇腹を貫いた白い槍は抜け落ちていたが、傷口から流れる血は止まっていない。


 心臓は三度、すでに動きを止めかけていた。


 止まっているのは――死へ至る、最後の一工程だけだ。


『生命維持率、二・一パーセント』


 ニアが転移でレイルの正面へ戻った。


 金色の瞳が、至近距離から彼を見つめる。


『心肺損傷、拡大。魔力経路、十八パーセント断裂。左肺、機能停止。心筋収縮率、危険域。保持環、第六及ビ第七、限界寸前デス』

「あと八秒なら持つ」

『ソレハ生存計画デハアリマセン』

「【勝利計画(ウィニング・プラン)】だ」

『勝利後ノ帰還工程ガ未設定デス』

「終わってから考える」

『ソノ回答ハ、十七年間、一度モ信用ニ値シテイマセン』

「一度くらいあっただろ」

『記録検索――該当ナシ』

「検索が速すぎる」

『貴方ノ無計画ハ、最優先参照項目デス』

「成長したな」

『使用者ガ成長シナイタメ、代替処理シマシタ』


 ニアはそう言って、レイルの血に濡れた右手へ自分の手を重ねた。


 精霊体でありながら、今の彼女は触れられる。


 指先は人間と同じ温度ではない。


 それでもレイルには、不思議と温かく感じられた。


「レイル」


 機械的だった声から、一瞬だけ抑揚が外れた。


「私ハ、貴方ガ勝ツ確率ヲ計算デキマス。貴方ガ死ヌ確率モ、世界ガ残ル確率モ、全テ数値ニ変換デキマス」


 ニアの獣耳が伏せられる。


「デモ――貴方ガ帰ッテクル未来ダケハ、計算デハ足リマセン」


 金色の瞳が揺れた。


「命令デハアリマセン。演算結果デモアリマセン。相棒トシテ、私自身ノ意思デ要求シマス」


 血に濡れた手を、強く握る。


「勝ッテ。生キテ。私ノ隣ヘ帰還シテクダサイ、レイル」


 レイルは答えなかった。


 答えれば、声が震える気がした。


「《《レイル》》」


 銀灰色の髪を風に揺らし、【不眠聖女(ふみんせいじょ)】ミレア・ノクスが背へ手を添えた。


 紫の瞳の下には、濃い隈が刻まれている。


「ふわぁぁ......眠いです。でも――意識を固定します。あと八分です。眠った瞬間、あなたごと戦場が完成します」

「八分もあれば十分だ」

「あなたの“十分”は、一般人の遺言と同じ程度に信用できません」

「ニアと意見が合うようになったな」

「私たちの意見が一致したのではありません。あなたの無茶が、全員の共通敵になっただけです」

『同意シマス』

「二対一は卑怯だろ」

「安心してください。リィナとセレネとフィアも同意見です」

『当然です!』

「賛同を記録済み」

「多数決か」

「いいえ」


 ミレアの目が細くなる。


「患者に拒否権がないだけです」


 ミレアの術式が脊髄を焼いた。


 固有律【覚醒(かくせい)】。


 意識が強引に引き上げられる。


 薄れかけていた痛覚が戻り、折れた骨、裂けた肺、焼けた魔力経路、そのすべてが鮮明になった。


 レイルの喉から潰れた息が漏れ、右目に浮かんでいた閉じ切らない輪が大きく開く。


「眠らせません」


 ミレアは静かに告げた。


「壊れないようにするとは言っていません。痛みを消すとも、死なせないとも言っていません」


 背へ添えた手に力がこもる。


「私が保証するのは一つだけです。あなたが自分の意思で最後を選ぶ、その瞬間まで――意識だけは、絶対に手放させません」


『【世界結着ワールド・フィナライズ】マデ――六秒』


 空が白く染まった。

 光輪の中央から、都市全体を覆う神光が降る。

 触れたものを焼く光ではない。

 存在を一つの正しい形へ固定し、抵抗も後悔も未来も奪い去る、神の結末そのもの。


 その前へ、白銀の騎士が踏み出した。


「ここは俺が引き受ける」


 アルド・クロイツが大盾を突き立てる。

 地面が陥没し、神光が盾を削り、鎧を溶かし、白銀を赤熱させた。

 それでも、アルドの足は一歩も退かない。


 固有律【完遂(コンプ)】。


 一度始めた行動を、定めた目的へ届くまで運び続ける力。


「お前が途中で止めた攻撃を、俺が敵まで運んだ。お前が止めた崩落を、俺が避難の終わりまで支えた。お前が完成を恐れた時、俺はお前を臆病者と呼んだ」


 アルドの両腕から血が噴き出す。


 盾の縁が崩れ落ち、焼けた鎧が肉へ食い込む。


「だが、今なら分かる。始めたものを終わらせるだけでは足りない。誤った道なら途中で止まり、正しいと信じた道なら――手段を変えてでも、最後まで運ぶ」


 神光が一段強まった。


 アルドの膝が沈む。

 それでも、立ち上がる。


「レイル・アルヴァァァァァァァァァァァァート!」


 騎士は吠えた。


「お前が始めた勝利を、俺が最後まで運ぶ! 世界の終わりが降ってこようと、神が正解を押しつけようと、この盾の後ろへは一欠片たりとも通さん!」


 大盾を、さらに深く地面へ突き立てる。


「だからお前は迷うな! 完成させろ! お前が十七年かけて選び続けた、俺たちの未来を!」


「人の台詞を勝手に決めるな」

「十七年来の付き合いだ。お前より、お前の決断を知っている」

「付き合いの長さなら、私の方が上だもんね!」


 神兵の海を切り裂き、リィナが駆け戻ってくる。


 長剣には熱、冷却、雷撃、風圧、光――複数系統の魔法残滓がまとわりつき、互いを食い合うように明滅していた。


「道は私が開いた!」


 リィナは長剣で迫る白槍を弾き飛ばす。


「あんたが怖がって、迷って、立ち止まって、それでも捨てずに持ってきた全部を――私たちがここまで運んだ!」


 次の槍を斬る。


 返す刃で神兵を崩し、熱をまとった蹴りで白磁の胸を砕く。


「あんたは昔から、失敗しない準備ばっかりしてた! でも今は違う! 失敗しても、壊れても、私たちと一緒に直すための準備をしてきた!」


「簡単に言うな!」

「簡単じゃないから、十七年も隣にいたの!」


 リィナが叫ぶ。


「また『もう少し準備してから』なんて言ったら、世界より先に私があんたを斬る!」

「脅しになってるぞ!」

「脅しじゃない! 約束!」

「約束の使い方がおかしい」

「死なないって約束よりは、あんたに効くでしょ!」


 言われなくても、準備は終わっている。


 剣撃。

 転移。

 治癒。

 結界。

 熱。

 冷却。

 雷撃。

 風圧。

 光。

 地質固定。

 流動制御。

 空間断絶。

 魂の保護。

 契約の破棄。

 光輪の分断。


 そして、七つの環を代表する者たちが、それぞれ異なる未来を選び取った【受諾破棄】。


 仲間たちが命を削って形成し、レイルが最後の一工程だけを奪った三百二十三の現象。


 そのすべてが、魂の内側で完成を求めて軋んでいた。


 祈りが流れ込む。

 殺意が流れ込む。


 焦り、恐怖、怒り、帰りたいという願い、死にたくないという声。

 三百二十三の未完が、三百二十三の結末を要求している。


 レイルの血管が浮き上がる。

 左腕から胸へ走る術式痕が赤熱し、皮膚の下で無数の環が回転した。


「保持媒体、第三層亀裂!」


 通信越しに、ドルガの怒声が響く。

『レイル! その杖は壊れる前提で作った! だが、壊していいとは言ってねえぞ!』

「矛盾してないか?」

『壊れる場所を俺が決めたって意味だ! 勝手な場所から壊すな!』

「注文が細かい」

『職人だからな! 俺の仕事まで未完にしたら、神を殴り終わった後でお前を殴る!』

「全員、俺を殴る予定があるのか?」

『生きて帰った後の予定を作ってやってんだ! ありがたく帰ってこい!』


『保持環、全基接続』


 ニアの下半身が光へほどけた。


 黒銀の女性型半獣精霊が、無数の文字と七つの巨大な環へ変わっていく。


 第一環、【基礎現象(ベーシック)】。

 第二環、【実戦術式(アドバンスド)】。

 第三環、【複合術式(コンビネーション)】。

 第四環、【精神・空間・契約マインド・スペース・コントラクト】。

 第五環、【生命・魂ライフ・アンド・ソウル】。

 第六環、【未完目録(ノット・コンプリート)】。

 第七環、【世界術式(ワールド・スキル)】。


 七つの環はレイルの背後で重なり、大魔導杖と左腕の術式痕へ接続された。

 それでも、ニアの上半身だけは彼の隣に残っている。


 金色の瞳は、レイルだけを見つめていた。


『完成順、フィア・レコードノ目録ト同期』

「同期確認。第一群から第二十六群、全件接続」

『セレネ・グランツ、並列形成を維持します! レイル、私が崩れる前に終わらせてください!』

『ノア・エルグラム、第三百二十四番を再構築中! 触媒はありませんが、理論はあります!』

「理論だけで撃つな」

『理論があれば魔法は撃てます!』

『通常は触媒も必要です!』

「セレネ、後でノアを止めろ」

『今止めたら術式が落ちます!』

「じゃあ今は褒めろ」

『ノア、よくやりました! 帰ったら反省文です!』

『扱いが理不尽です!』


 フィアが記録板を閉じる。


「第一番から第三百二十三番。完成順、確定しました」


 彼女は初めて、数字から顔を上げた。


「訂正します。安全に完成できる記録は、ありません」

「最初から期待してない」

「追加訂正。生存可能性を示す記述も撤回します」

「それは残しておけ」

「根拠がありません」

「俺たちが根拠だ」

「非数値的回答です」

「たまには数字の外を見ろ」

「……記録します」


 フィアは、ほんの少しだけ目を細めた。


「未確定要素――仲間を信頼することで発生する、計算不能の余白」

「その余白は認めるのか」

「今回のみ、特例です」


『使用者、心拍低下』

「ミレア」

「固定しています」

『剣神、指定位置到達』

「いつでも!」

『完遂騎士、防御限界マデ一・四秒』

「構うな!」

『全術式、結着待機』

『二十六群、整列完了!』

『第三百二十四番、再構築率九十九・九パーセント!』

『杖は、あと二回なら耐える!』

世界結着ワールド・フィナライズまで――三秒」


 ニアの声が、戦場全体へ響いた。

 レイルは杖を地面へ突き立てる。


 砕けた大地の下へ、閉じ切らない輪が広がっていった。

 一人では届かなかった。

 一人なら、とっくに眠っていた。


 フィアが順番を記録した。

 セレネが術式群を束ねた。

 ノアが完成しない大魔法を設計した。

 ドルガが壊れる場所まで決めた媒体を鍛えた。

 ミレアが意識をつないだ。

 アルドが完成を運ぶ。

 リィナが完成する場所を斬り開いた。


 ニアが十七年分のすべてを、今、この一瞬へ接続している。


 だからこそ。だからこそだ――。

 最後の判断だけは、他の誰にも渡さない。


「未完記録、第一番から第三百二十三番――」


 白い光が都市へ触れ、

 アルドの盾が砕けた。

 ミレアの指から血が流れた。

 フィアの記録板へ亀裂が走る。

 セレネの通信から、苦痛を堪える息が聞こえる。

 ノアの第三百二十四番が、今にも崩れようと震える。

 ドルガの杖が内部から軋む。

 リィナが剣を構える。

 ニアの環状尾が、戦場を包む巨大な環となった。


「《《レイル》》」


 ニアが、最後に囁く。


「貴方ガ選ンダ結末ヲ――私ガ世界ヘ接続シマス」


 レイルは右目を見開いた。


「【連環完成(れんかんかんせい)】――開始!」


 三百二十三の未完が、同時に結着へ向かった。


 炎が天を焼いた。

 雷が光輪を内側から打ち砕いた。

 冷却術式が神兵の関節を奪い、風圧が砕けた白磁を空へ巻き上げる。

 転移した斬撃が、地平線の向こうまで走る。


 空間断絶が神兵の増援路を切り落とし、契約破棄が神兵と完成神をつなぐ白い糸を断ち切った。


 そして七つの【受諾破棄】が、それぞれ異なる未来を宣言する。


 一つは、人間だけの未来を拒んだ。

 一つは、魔王種だけの未来を拒んだ。

 一つは、精霊だけの完成を拒んだ。

 一つは、帰れない異邦人へ一つの故郷を強制することを拒んだ。

 一つは、契約を永遠に閉じることを拒んだ。

 一つは、死者の選択を生者が決めることを拒んだ。


 そして最後の一つは――全員が同じ幸福へ至ることを、幸福とは認めなかった。


 世界術式盤が軋んだ。

 白い光輪の回転が、一斉にずれる。


 フィアの記録板へ、赤い表示が走った。


【七環受諾:不一致】

【唯一未来:定義不能】

【世界完成条件:不成立】


世界結着ワールド・フィナライズ――中断】


 世界を覆っていた白へ、初めて無数の色が戻った。


「止めた......!」


 リィナが息を呑む。


「でも――まだ終わってない!」


 レイルが叫ぶ。


 世界結着は止まった。

 だが、神兵軍は残っている。


 完成神との接続を断たれた白い軍勢が、命令を失ったまま一斉に暴走を始めた。


『神兵全軍、最終自壊命令ヘ移行!』

「自爆する気!?」

『推定爆発範囲、都市全域』

「第三百二十四番は!」

『再構築率、九十九・九九!』

「また〇・〇一か!」

『今回は本当に誤差です!』

「ノアの誤差は信用できない!」

『私を信用してください!』

「術式を信用できる根拠を出せ!」

『私が百二十年、諦めなかったことです!』


 通信の向こうで、ノアが息を吸った。


『今度こそ完成させます。私一人ではありません。セレネが並べ、フィアが記録し、ドルガが媒体を作り、ニアが計算し、リィナが場所を作り、貴方が最後を返す』


 いつもの大げさな声ではなかった。


『私の百二十年を――私たちの魔法として、世界へ証明してください』


 レイルは返事をしなかった。


 代わりに、リィナへ視線を向ける。


「最後の位置を作れるか」

「作る」

「今までの連環は、全部使い切った」

「剣は残ってる」

「付与は?」

「いらない」


 リィナは長剣を両手で握った。


「これは、私一人の剣だから」


 無終剣は、技を終わらせない剣だ。

 終わらせないから、次へ進める。


 だが、リィナは十七年かけて知った。

 すべてを終わらせなければいいわけではない。

 次へ進むために、今ここで終わらせるべき一撃もある。


 神兵軍が白い光を膨張させる。

 都市を呑み込む自壊が始まる。


 リィナは一歩、踏み込んだ。


 斬り下ろし。

 横薙ぎ。

 突き。

 返し。

 回転。


 これまで終わらせずにつないできた全ての型を、一つの剣へ戻していく。


 レイルの能力を借りない。

 魔法付与も受けない。

 リィナ自身が始め、リィナ自身が運び、リィナ自身が終わらせる。


「これが――私だけで完成させる、最後の無終剣!」


 刀身が、透明な光を帯びた。属性ではない。


 十七年分の踏み込みと、受け流しと、斬り返し。

 七環時獄で何度敗れても、同じ正解へ屈しなかった記憶。


 自分が選んだ道を、自分の足で最後まで進む意思。


「【無終剣・最終奥義むしゅうけん・さいしゅうおうぎ】――」


 リィナが、長剣を振り抜いた。


「【終天・万象帰刃しゅうてん・ばんしょうきじん】ッ!」


 初めて。

 ただ一度だけ。


 無終剣の一撃を、最初から最後まで、リィナ一人の意思で完成させた。

 地平線が割れた。

 暴走する神兵軍の中央へ、一本の斬線が走る。


 白い軍勢は斬られたことにも気づかず、自壊の光を膨らませ続ける。

 次の瞬間。

 数万の神兵を貫いていた斬線が、同時に開いた。


 軍勢の中央から世界術式盤の残骸まで、一直線の空白が生まれる。


 第三百二十四番が完成するための、唯一の結着位置。


『指定座標、完成!』

『第三百二十四番、再構築完了!』

「レイル!」


 リィナが振り返る。


「私の剣は終わらせた! 次は、あんたの番!」


 レイルは杖を掲げた。


「未完記録、第三百二十四番――」


 杖の内部で、最後の破断板が開く。


 ドルガが決めた位置から亀裂が走り、余剰魔力が外へ逃げる。

 セレネが二十六群の術式を一本へ束ねる。

 フィアが完成条件を確定する。

 ニアが両腕を広げ、世界へ接続する。

 ノアの百二十年が、ようやく現実へ追いついた。


「【天墜獄炎(てんついごくえん)】――完成!」


 空が燃えた。

 天から落ちた炎ではない。


 リィナが切り裂いた空間そのものが灼熱へ変わり、暴走する神兵軍を因果ごと焼き尽くす。


 白い軍勢が、空間ごと消滅した。


 遅れて襲った爆風を、幾重もの結界が受け止める。


 一枚。

 二枚。

 十枚。

 百枚。


 透明な壁が次々と砕け、そのたびに衝撃が弱まっていく。


「アルド!」

「俺が――運ぶ!」


 盾を失ったアルドが両腕を広げ、最後の結界へ【完遂】を重ねた。


「この勝利は、誰一人置いていかん! 爆風も、破片も、神の残骸も――最後まで俺が押し返す!」


 崩れかけた結界が再び前へ進む。

 爆風が城壁の外へ押し返され、空の彼方で消えた。


 最後の結界が砕けた時。

 轟音も、光も、風も止んだ。

 地平線まで続いていた白い軍勢は――一体も残っていなかった。


 空には、白だけではない色が戻っていた。


 赤い夕焼け。

 紫の雲。

 青黒い夜の入り口。

 不揃いで、混ざり合い、どれか一つへ決められない空だった。


「戦術未完記録、全件消失」


 フィアが告げる。


 亀裂の入った記録板に、最後の数字が刻まれた。


「三百二十四件――全件、結着を確認」


 アルドが盾の残骸を落とし、片膝をついた。


 ミレアの手が震える。


 通信越しにセレネが大きく息を吐き、ノアが泣き笑いの歓声を上げ、ドルガが杖の損傷を罵っている。


 リィナは息を切らしながら、剣を地面へ突き立てた。


 ニアの【オムニア・アバター】が再構成される。


 だが、先ほどまでの完全な姿ではない。


 右の獣耳が欠け、片腕は肘から先が光の粒となって崩れていた。環状尾も途中で途切れ、閉じない半円となって揺れている。


『全保持環、緊急停止』


 ニアがレイルを振り返る。


『戦闘終了。帰還処理ヘ移行シマス』


 レイルの膝が沈んだ。


 ニアの残った腕が伸びる。


 光で作られた身体が完全に実体を持ち、倒れ込むレイルの肩を抱き止めた。


『生命維持率、〇・八パーセント』

「思ったより残ってるな」

『楽観的判断ヲ禁止シマス』

「禁止できるようになったのか」

『相棒権限ヲ、今、追加シマシタ』

「勝手だな」

『使用者カラ学習シマシタ』


 ニアの声が、わずかに震えた。


『戦術目標ハ達成シマシタ。次ハ、生存目標ヲ達成シテクダサイ』

「善処する」

『ソノ回答ヲ禁止シマス』

「じゃあ、努力する」

『不十分デス』

「要求が多いな」

『十七年分デス』


 ニアはレイルの身体を抱きしめるように支えた。


『帰還シテクダサイ、レイル。勝利ダケヲ完成サセテ、自分ノ人生ヲ未完ノママ捨テナイデクダサイ』


 駆け戻ってきたリィナが、レイルの外套をつかんだ。


「残りは?」


 フィアの記録板には、戦術記録は何も残っていない。


 三百二十四件。


 すべて完成している。


 だが、ニアの最深部と、ミレアの生命記録、フィアの封印欄には、戦術記録とは別の一件が赤く明滅していた。


生命結着留保せいめいけっちゃくりゅうほ:一件】


【対象:レイル・アルヴァート】


【完成条件:死亡】


【解除判断:本人】


 リィナの手に力がこもった。


「何を残してるの?」


 レイルは、胸に空いた穴へ目を落とした。


 血は流れている。


 肺は潰れている。


 心臓は、次に止まれば二度と動かない。


 それでも。


 死だけが、彼へ届かずにいる。


「戦術未完記録は、全部終わった」


 レイルは掠れた声で言った。


「残ってるのは、戦うための魔法でも、敵の攻撃でもない」


 リィナが息を呑む。


 ニアの閉じ切らない尾が、力なく揺れた。


「じゃあ、何を残してるっていうの?」


 レイルは笑った。


 今にも途切れそうな、弱い笑みだった。


「俺の――」


 心臓が一度、大きく脈打つ。


 次の鼓動へ移る直前で、止まる。


 停止ではない。

 まだ、終われない。

 死という結末だけが、世界へ届かない。


「《《死亡》》だ」


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 十七年前。


 六歳のレイル・アルヴァートは、原稿の最後の一行を前に、三時間もペンを握り続けていた。


 勇者は長い旅を終え、故郷の扉へ手をかけている。

 傷だらけの手を伸ばせば、扉は開く。


 その向こうでは、ずっと待っていた少女が立っている。

 あとは、扉を開き、「ただいま」と言わせるだけだった。


 だが、紙の上では勇者の指先が扉へ触れたまま、止まっている。

 六歳のレイルは、三日間、その続きを書けずにいた。


「......もう少し、考えてからにしよう」


 その瞬間。

 隣の部屋で、母の悲鳴が上がった。


【今回の登場人物】


・レイル・アルヴァート

 三百二十四件の戦術記録を完成させながら、自身の死亡だけを別枠で留保した未完の大魔導士。


・リィナ・アルセイル

 レイルの能力や魔法付与へ頼らず、単独の最終奥義【終天・万象帰刃】を完成させた剣神。


・ニア

 人型・接触・単独行動を可能とする【オムニア・アバター】へ成長し、戦闘と演算の両面から相棒を支えた半獣半精霊。


・アルド・クロイツ

 固有律【完遂】で、砕けた盾の先まで勝利と仲間の帰還を運び続けた騎士。


・ミレア・ノクス

 レイルが最後の判断を選ぶ瞬間まで、痛みごと意識をつなぎ止めた不眠聖女。


・フィア・レコード

 三百二十四件の戦術未完と、別枠の生命結着留保を記録した未完目録官。


・セレネ・グランツ

 膨大な術式群の順番と位相を並列管理し、一件の勝手な変更も許さなかった並列術式官。


・ノア・エルグラム

 触媒を燃やし尽くしても理論を捨てず、百二十年越しの【天墜獄炎】を仲間との魔法として完成させた術式研究者。


・ドルガ

 壊れる位置まで指定した杖を鍛え、戦場の外から弟子へ帰還後の予定を押しつけた職人。


 三百二十四件の未完記録も、最初はたった一行を書けなかったところから始まりました。本作の続きを一緒に完成へ運んでいただける方は、レビュー、ブックマーク、フォローで応援していただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
プロローグとは思えないほどの熱量で、一気に最後まで読んでしまいました。 「未完」というテーマが物語全体に貫かれていて、とても印象的です。特に、レイルが仲間たちと積み重ねてきた三十年の絆が会話や戦闘から…
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