第35話「最後の研ぎが終わらない」
安全装置として持ち歩いていた自作小説は、書き続ければよいものではありません。
物語を進める意思が薄れた時、レイルの【未完】は別の完成直前へ移ります。
ハルツの鍛冶工房は、朝から熱と鉄の音に満ちていた。炉では赤く焼けた地金が光り、壁際には大小の金槌、鋏、鑢が並んでいる。レイルとリィナへ任されたのは、裏口から炭袋を運び、指定された棚へ工具箱を置くことだけだった。
確認した条件は、作業台へ近づかないこと、納品剣へ触れないこと、鍛冶師の指示があるまで荷物を勝手に動かさないことの三つだった。レイルは三つの条件を声に出して確認した。
「一回で分かるよ」
「工房内は音が大きい。聞き落としを防ぐ必要がある」
「じゃあ三回目は私が言う。作業台へ近づかない、剣へ触らない、勝手に食べない」
「最後はリィナだけの条件じゃないか!」
「工房では食べないよ!」
『火気周辺デノ飲食ハ非推奨デスにゃ』
「ニアまでそんなこと言うのー!」
奥で金槌を振っていた男が、短く笑った。鍛冶師ガルドは、肩幅の広い大柄な男だった。顔と腕には古い火傷があり、炉の前へ立つ姿は岩壁のように見える。その隣で水桶を運んでいる少年が、ドルガだった。
彼はレイルより少し年上で、太い革手袋をつけている。右腕には新しい火傷を覆う布が巻かれ、視線だけがこちらへ鋭く向いた。
「親父、こいつが例のあいつか」
「仕事中だ、ドルガ」
「でも」
「炭を運ぶ者と、剣を打つ者の場所は分けてある。決めた位置を守るなら仕事は仕事だ」
ガルドはレイルへ向き、床に引いた線を指した。
「おいお前、赤線より内側へ入るなよ」
「分かりました」
「剣へ何か起きたら、隠さず言え」
「はい」
床には、作業台を囲む赤い線が引かれていた。レイルは距離を測った。最も近い場所でも五歩以上ある。【未完】がどこまで影響するか正確には分からないが、自作小説が保持対象となっている限り、新しい完成へ移る可能性は低い。
そう考えながら、原稿鞄の留め具へ触れる。中には昨夜書いた十二行があるが、勇者は森の出口へ進まず、三つ目の結び目を試しているだけだった。それでも午前の仕事は問題なく進んだ。
炭袋を棚へ積み、工具箱の数を確認し、水桶のそばへ乾いた布を運ぶ。リィナは力仕事でレイルの倍近く運び、休憩時間には持参した丸パンを四つ食べた。ニアが炉の温度を表示し、危険範囲へ近づくたび警告する。
『右側床面、火花飛散ヲ確認シマシタにゃ』
「避ける」
『水桶周辺、転倒危険デスにゃ』
「分かっている」
『使用者候補、原稿鞄ノ確認頻度ガ上昇シテイマスにゃ』
「安全装置の状態確認だ」
『文字情報ノ進行量ハ、昨日比デ低下シテイマスにゃ』
レイルは返事をせず、意識を目の前の仕事へ戻した。昼を過ぎた頃、ガルドは壁に掛けていた一振りの剣を作業台へ置いた。
装飾の少ない長剣だった。派手な宝石も紋章もない。しかし刃の線は真っ直ぐで、光を受けるたび水面のように滑らかに輝く。納品先は街道警備を担う商隊長だという。
代金が入れば、工房は冬の鉄材と炭を買える。ドルガの新しい革手袋も用意できる。残っているのは最後の研ぎだけで、ガルドは砥石へ刃を当てた。
一定の角度、一定の圧力で、根元から先端へ滑らせる。水と金属が擦れる音が、工房の金槌より細く響いた。一往復、二往復、三往復と同じ動作を重ねたところで、ガルドの手が止まった。
「親父?」
「むう、返りが消えん」
刃の先に、髪より細い金属の返りが残っていた。ガルドは砥石を変えた。水を替え、角度を僅かに調整し、もう一度研ぐ。
返りは消えない。削れて刃は確実に薄くなっているのに、それでも最後の一筋だけが整わず、研ぎという作業が終わらない。レイルの胸の奥で、何かが動いた。
自作小説を保持している時に感じる、終わりへ近づきながら届かない圧力。それが原稿鞄から薄れ、作業台の剣へ流れている。
「止めてください」
震える声を聞いたガルドは、すぐ砥石から剣を離した。
「何が起きた」
「【未完】が、剣へ移った可能性があります」
「原稿に預けていたんじゃないのか」
「確かに預けています。ですが……」
レイルは赤線を越えずに原稿鞄を開き、最後の頁を読んだ。勇者は縄と火と荷物を確認しているが、その先へはどこにも進んでいない。書き続けていたつもりだった。
実際には、安全装置を維持するためだけに文字を増やし、物語を終わらせる意思から逃げていた。【未完】にとって、それは未完成ではなく、完成を目指さない放棄へ近づいていたのかもしれない。
「戻せるのか」
ドルガが作業台の向こうから聞いた。
「対象を選んで移すことはできません。原稿を、”本当に進めれば”……戻る可能性はあります」
「可能性?」
「確実ではありません」
「じゃあ、剣はどうなる」
「今のまま研ぎ続ければ、刃だけが減り続けます」
ガルドは剣を台へ置き、短く命じた。
「書け」
「親父!」
「他に方法がないなら、やらせる。全員、剣から離れろ」
レイルは床へ座って膝の上へ原稿を置き、何を書けば物語が進むのかを考えた。縄の種類ではない。火の位置でもない。勇者が森から出るために、何を選ぶかを書かなければならない。
前世では、選んだ後に間違いだと分かるのが怖かった。だから世界観を足し、道具を足し、敵を足し、主人公を同じ場所へ立たせ続けた。
今、その逃げ方が他人の剣を壊そうとしている以上、もう同じ場所へ主人公を立たせ続けることはできない。レイルは筆を取った。
「勇者は、”準備が足りないまま森を出た”」
書き終えたところで手が止まった。不完全な一文だった。何を見つけるかも、誰に会うかも決めていない。それでも勇者は、同じ場所から一歩進んだ。胸の圧力が変わり、作業台の剣から原稿へ何かが戻ってくる。
「移った」
レイルが顔を上げた瞬間、剣が高く細い音を立てた。ガルドは砥石から離していた。誰も触れていない。それでも剣へ蓄積していた研ぎの結果が、一度に完成へ向かう。
刃先から白い線が走り、先端が指二本分ほど折れた。金属片が作業台へ落ちる音を最後に工房は静まり返り、レイルは立ち上がれなかった。剣は残っている。折れたのは先端だけだ。打ち直すことも、短く作り替えることもできるかもしれない。
しかし、それはもう納品する予定だった長剣ではなく、約束した期日にも間に合わない。ガルドは折れた先端を拾い、刃の亀裂を確認した。怒鳴らない。その沈黙が、バルドに叱られた時と同じように重かった。ドルガが革手袋を外すと、その目元は赤くなっていた。
「どうするんだよ、お前ッ」
レイルは詰まった喉を無理に動かした。
「……ごめんなさい」
「それで剣が戻るのか」
「戻りません」
「冬の炭が買えるのか」
「買えません」
「親父の信用が戻るのか」
「戻りません」
ドルガは折れた先端を握ろうとして、ガルドに手を止められた。
「ドルガ、素手で触るな」
「分かってるよオヤジ」
少年は唇を噛み、レイルを睨んだ。
「”今日、俺が泣いたこと”を、いつまでも忘れるな」
レイルは目を逸らさなかった。
「はい......忘れません」
今のレイルには、それ以外の言葉を口にする資格がなかった。
原稿を持ち歩くだけでは、安全装置にはなりませんでした。
物語を進める意思から逃げた結果、納品剣の最後の研ぎへ【未完】が移り、工房は冬越しの報酬を失います。
次回、謝罪、材料費、納期、信用。それぞれ別の損害として、返済の方法を決めます。




