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未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――  作者: 勇者ヨシ君
第3章「旧坑道の慎重勇者」

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第31話「明かり、水、音、匂い」

坑道では、目に見える敵だけが危険ではありません。

慎重な二人は足元も天井も調べますが、調べる項目が増えるほど、

時計の砂は静かに減っていきます。

 透明な粘液(ねんえき)は、亀裂(きれつ)から数歩先まで細く続いていた。


 レイルは直接触れず、木の枝の先へ少量だけ取った。粘液は重く垂れ、灯りへ近づけても燃えない。鼻を寄せると、湿った土に似た匂いがある。


小型粘体(こがたねんたい)の可能性が高い。毒性(どくせい)は低い種類が多いが、衣服や靴へ付けば動きを阻害(そがい)する」

「斬れるかなあ?」

「核があれば壊せる。ただし木剣が粘液へ絡め取られる可能性がある。”戦う理由はない”な」

「じゃあ避けよっか」


 リィナは即座に壁際から離れた。


 レイルは石灰粉(せっかいこ)を一つまみ取り、粘液の手前へ細い線を引く。帰路(きろ)で流れ出した範囲が増えていれば、奥にいる粘体が移動したと判断できる。


『接触回避ヲ推奨シマスにゃ』

「同意する」

『記録シマシタにゃ』


 ニアは猫型のままレイルの肩付近を浮遊し、粘液の温度と僅か(わずか)な魔力反応を表示した。探索用の犬型へ変形すれば匂いや足跡(あしあと)照合(しょうごう)能力は上がるが、その領域(りょういき)はまだ正式に解放されていない。今のニアにできるのは、レイルが見つけたものを測り、危険候補として示すことだけだった。


 二人は亀裂を避けて、入口側へ進んだ。


 油灯(あぶらび)の明かりは足元と壁を同時には照らせない。レイルが低く持てば石や穴は見えるが、天井の亀裂が暗くなる。高く掲げれば先は見えるものの、足元の水溜まりへ影が落ちて見えづらくなる。


 取り決め通り、リィナが前方を見て、レイルが足元と天井を交互に照らす。役割を決めても、坑道(こうどう)は確認対象を次々に増やした。


「止まって」


 リィナの声に、レイルは足を止めた。


 少し先の地面へ、黒い粒がまとまって落ちている。角兎(つのうさぎ)のものより小さく、細長い。壁際には穀物(こくもつ)の殻と、硬い木の実を削った跡があった。


洞窟鼠(どうくつねずみ)だ。糞の量から一匹ではないな」

「四匹目?」

「最低でも五匹以上。巣は近いかもしれない」

「戦うの?」

「論外だ。リスクはもちろん、避ける。洞窟鼠は追い詰めなければ人を襲いにくい。食料の匂いを漏らさないようにする」


 リィナは自分の布袋(ぬのぶくろ)を確認し、口を二重に縛った。食料を守るためというより、魔物を引き寄せないためである。レイルも蜂蜜菓子(はちみつがし)の包みを油布(あぶらぬの)へ入れ直す。


『食料臭ノ漏出、低下シマシタにゃ』

「食べながら歩くのは駄目?」

非推奨(ひすいしょう)デスにゃ』

「分かった。外へ出てから食べるね」


 食事に関して素直に従うリィナを、レイルは少し意外に思った。しかし彼女は自分の食欲と、共有の危険を分けている。大食いだからといって、いつでも食料を優先するわけではないのだ。


 洞窟鼠(ケーブラット)の痕跡を避けるため、二人は壁の反対側へ寄った。


 そこで、レイルの油灯がふっと弱くなる。


 灯芯(とうしん)は残っている。油もある。風が急に強くなったわけではない。火口の周囲を見ると、細かな水滴が付着(ふちゃく)していた。天井から落ちた雫が、偶然灯りへ入ったらしい。


「予備灯」


 レイルは革鞄(かわかばん)へ手を入れたが、すぐには取り出さなかった。


「主灯はまだ消えていない。火を移せば、魔力を使わずに済む」

「でも、途中で消えたら?」

「濡れた灯芯へ無理に火を保つ方が危険だ。いったん消し、乾いた予備へ移す」


 自分で決めた撤退条件(リトリート・ルール)では、主灯と予備灯の両方を失った場合に戻る。今は予備がある。焦って探索を続ける必要も、即座に引き返す必要もない。


 レイルは油灯へ蓋をかぶせ、火が消えたことを確認した。暗闇(くらやみ)が二人を包む前に、リィナがレイルの袖をつかむ。


「ここにいるよ」

「位置確認のためなら、手首の方が――」

「今、それ言う?」

「……袖でいい」


 完全な暗闇では、前世(ぜんせ)の記憶にある夜より何も見えない。地上なら月や家の明かりがあるが、坑道には手を伸ばした先さえ存在しないような黒さが満ちている。


 レイルは予備灯を出し、火口箱(ほくちばこ)を開いた。火打石(ひうちいし)を使えば魔力を温存できる。しかし手元が見えず、火花(ひばな)を油布へ落とす危険がある。


「......【種火】を使う」

「うん」

「火よ。小さき熱を集め、灯芯へ宿れ――【種火(たねび)】」


 短杖(たんじょう)の先から生まれた火が予備灯の芯へ灯り、周囲へ光が戻る。リィナはレイルの袖を離し、何もなかったように前を向いた。レイルも顔の熱を体温上昇(たいおんじょうしょう)の記録へ加えるべきか考えたが、魔力使用によるものか別の原因か判別(はんべつ)できないため、記録を保留した。


「灯りが戻った。続ける」

「待って」


 リィナが上を指すと、光へ驚いた灰色の影が天井から一斉に飛び立った。灰羽蝙蝠(はいばこうもり)の数は十を超える。眠っていた群れが灯りへ反応し、狭い坑道を出口方向へ飛び始めた。


「伏せて!」


 レイルが叫ぶより早く、リィナは木剣を振らずに身体を低くした。剣を頭の上へ斜めに置き、空いた腕で顔を守る。壁際へ寄れば蝙蝠と衝突するため、坑道の中央で小さくなる。


 レイルも革鞄を抱え、油灯を地面近くへ下げた。光源(こうげん)が低くなると、蝙蝠は頭上の暗い空間を選んで通り過ぎる。


 きききききぃ、きぃ、とやかましい羽音(はおと)と風が、しばらく二人を包んだ。


 最後の一匹が入口側へ消えてから、リィナはゆっくり立ち上がった。


「剣は”振らなかった”よ」

「振れば別の個体へ当たり、群れが散る。正しい判断だ」

「広いところなら追い払えたのになぁ」

「戦う場所がリィナの得意に合わせてくれるとは限らないだろ?」

「レイルも、暗いのによく火を出せたね」

「灯芯の位置は点火前に触れて確認した」

「褒めたんだけど、素直に受け取れば?」

「ありがとう」


 意外と素直なレイルに、リィナは少し驚き、それからくしゃくしゃの顔で笑った。


 レイルは蝙蝠の糞が落ちた位置、天井の窪み、灯りの切り替え地点を地図へ書き込む。小型粘体の粘液、洞窟鼠の巣の可能性、灰羽蝙蝠の群れ。表層(アウター)だけでも、明かり、水、音、匂いの管理が必要だった。ところが砂時計(すなどけい)を確かめると、砂は当初の予定より多く落ちている。


「帰るぞ」

「え、もう?」

帰還予定(きかんよてい)へ間に合わせるには、今すぐ戻る必要がある」


 リィナは頷き、今度は迷わず入口方向へ歩いた。


 帰路では、新しい発見があったとしても立ち止まらない。石灰線の位置まで粘液が増えていないことだけを確認し、角兎の亀裂も遠くから見る。主灯は回収し、濡れた灯芯を油布へ包む。残した物がないか数え、入口へ向かう。


 外の光が見えた時、二人は同時に歩調を速めた。


 旧坑道(きゅうこうどう)を出ると、日差しは入った時より高い位置から降り注いでいた。森の匂いが濃く、坑道の冷気に慣れた肌へ外気(がいき)が温かい。


「間に合う?」

「走れば予定時刻の直前に戻れる」

「荷物は?」

「帰路で水と食料が減った。移動速度(いどうそくど)は――」


 リィナが布袋から焼き芋を取り出した。


「まだほとんど減ってないけど?」


 レイルは食料重量を含めて計算を修正する。


「急ぐぞ」


 二人は山道(やまみち)を下り始めた。しかし、探索中に確認へ時間を使っただけではない。出発時点ですでに遅れていた。角兎との接触、灯りの交換、蝙蝠の群れ。それぞれは必要な対応だったが、積み重なれば予備時間を使い切る。


 途中で一度、レイルは足を滑らせた。リィナが腕をつかみ、転倒(てんとう)を防ぐ。走れば事故が増えるため、二人は速度を落とさざるを得なかった。


 帰還予定の鐘が、村の方角から聞こえた。


「鳴ったね」

「分かっている」

「帰ったら怒られるね」

「旧坑道へ入ったことが発覚(はっかく)しなければ、遅れた理由を――」


 リィナが足を止め、真っ直ぐレイルを見た。


「嘘つくの?」

「事実のうち、必要な範囲を説明する」

「それを嘘って言うんだけど」


 レイルも足を止めた。両親を心配させないために隠す。探索を続けるために報告を減らす。前世では、仕事が終わっていないことを隠し、聞かれた部分だけ答え、もっと準備が必要だと先送りした。


 今世では、失敗を隠さないと決めたはずだった。


「......そうだな。”全部話す”」

「うん。一緒に謝ろう」

「リィナは止めようとしていたと説明する」

「途中から一緒に入ったんだし、私の分もあるよ。二人で謝れば、怖くないし」


 責任を分ければ軽くなるわけではない。それでも、一人で言い訳を作るより、二人で事実を話す方が正しい。


 村外れへ着く頃には日は傾き始め、道の先には複数の人影があった。父バルド、母エナ、師匠のエルシア。さらに村の自警団員(じけいだんいん)が二人、縄と灯りを持って立っていた。


 捜索(そうさく)へ出る直前だったのだろう。


 バルドは怒鳴らなかった。泥だらけの二人を見て、怪我がないことを確かめるように視線(しせん)を動かし、それから短く告げた。


「......帰るぞ」


 低い声には、怒りより深い疲れが混じっていた。

 レイルは革鞄を背負い直した。旧坑道では、角兎にも粘体にも蝙蝠にも負けなかった。


 それでも探索は、”成功していない”。

 帰還予定を守れず、家族と村人を動かした。リィナが隣へ並び、小さく言った。


「二人で話そ」

「分かった」


 村へ向かうバルドの背中を追いながら、レイルは初めて、地図へ描けない危険の大きさを知った。

明かり、水、音、匂いを管理できても、時間の管理を失えば安全な探索にはなりません。

リィナは剣を振らない判断を、レイルは暗闇で【種火】を使う実践を経験しました。

次回、叱られるのは魔物と戦ったことではなく、何も告げずに消えたことです。

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