第30話「計画どおりに逃げない」
罠も配置も正しくても、魔物が予定した方向へ動く保証はありません。
最初の実戦でレイルが学ぶのは、作戦の続きを考える前に、まず身体を動かすことでした。
レイルたちと対峙した角兎は逃げるのではなく、前へ飛んだ。地面を蹴った灰色の身体が、短い角をレイルの腹へ向けて一直線に迫ってくる。
レイルは右壁へ投げるはずだった小石を握ったまま、次の行動を探した。計画では角兎が音に驚き、左へ跳ぶ。正面から突進した場合の対応は、リィナが入口側にいることを前提としていない。条件が違う以上、作戦を組み直さなければならない。
「レイル!」
リィナの声が、思考を切った。
身体を横へ動かす。朝の稽古で繰り返したとおり、足を交差させず、地面から目を離さず、それでも敵の肩と腰を見る。だが、革鞄の重さが動きを遅らせ、角は服の端を掠めた。完全には避けられないと判断した瞬間、リィナが間へ入った。
木剣を大きく振りかぶらず、身体の近くから短く差し出す。剣の平が角の側面へ当たり、正面へ向いていた力を斜めへ滑らせた。角兎は壁へ衝突する寸前で脚を捻り、石壁を蹴って向きを変える。リィナはそこで振り抜かず、剣を戻すより先に左足を引き、角兎とレイルの間へ再び立つ。朝に教わった動きを、狭い坑道で使える形へ変えていた。
「入口を塞いで!」
今度はリィナが指示を出し、レイルは計画との差を考えず、入口側へ一歩動いた。角兎が逃げようとすれば、真正面には自分がいる。脅せば奥へ向かう可能性もあるため、完全に道を塞いではならない。
小石を角兎の耳の横へ投げると、石が壁で鳴り、その視線が僅かに逸れた。
「今だ!」
リィナが踏み込み、角兎へ当てるためではない横払いで、その左側の空間を塞いだ。木剣が壁へ触れる前に動きを止め、空いた入口方向へ柄を向ける。
角兎は二人の間を抜け、蹄の音を遠ざけながら外の光へ走った。静けさが戻ってからも、リィナはすぐに木剣を下ろさなかった。入口、奥、足元を順番に見て、二匹目がいないことを確認する。レイルも短杖の灯りを周囲へ向け、壁の亀裂や別の影を探した。
『周辺ノ移動反応、検出ナシデスにゃ』
ニアの報告を聞いて、二人はようやく息を吐いた。
「逃げた」
リィナはまだ下ろしていない木剣を見つめ、手首へ残る痺れを確かめた。
「作戦は失敗した」
「追い出せたよ」
「正しい次の手を考えている間に、僕は止まった。あのままなら、リィナがいなければ角の攻撃を受けていた」
「正しくなくても、”まず避ければいい”んだよ。避けた後で考えれば、次もあるから」
リィナの答えは単純だったが、実戦の最中にはその単純なことができなかった。完璧な修正案を作るより先に、間違っていても生き残れる一歩を選ぶ。その一歩を作るために、彼女の剣があった。
「当初の配置も、投石位置も使えなかった。角兎の初動を読み違えた」
「でも、最後は入口から出たでしょ」
「それはリィナが即座に対応したからだ。僕は最初の数瞬、動けなかった」
レイルは自分の服を確認した。腹の横に細い裂け目があるが、皮膚には届いていない。角があと指一本内側なら、怪我をしていた。
記録紙を取り出そうとすると、リィナがその手首をつかんだ。
「先に身体」
「負傷はない」
「服が切れてる。自分で見えないところも確認する」
「ここで脱ぐ必要は――」
「背中を見るだけ!」
レイルは革鞄を下ろした。背中と脇腹へ傷がないことをリィナが確認し、次にレイルがリィナの腕を見る。木剣で角を流した時、手首へ衝撃が伝わったはずだ。
「痛みは?」
「少し痺れたけど、もう平気」
「指を順番に動かして」
「一本、二本、三本、四本、五本。ほら」
「握力は?」
「レイルの腕で試す?」
「必要ない」
真顔で断ると、リィナが笑った。緊張が解けたのだろう。笑った後、彼女は木剣を握り直し、先ほどの動きをゆっくり再現した。
「こうやって、角を止めるんじゃなくて横へ流した。最後まで振らないで、すぐ次へ戻った」
「有効だった。力で受けていれば木剣か手首が負けていた可能性が高い」
「稽古、役に立ったね」
レイルは先ほどの動きを頭の中で追い直した。最初の横払いを最後まで振り切らず、角兎が壁を蹴った時にはもう左足を引いていた。剣を一度の攻撃として終わらせず、次に必要な位置へ身体ごとつないでいる。まだ形の決まった剣技ではないが、草地で何度も繰り返した基礎が、予定外の状況で別の働きをしたのだ。
「リィナの判断が速かったからだ」
「褒めてる?」
「事実を言っている」
「じゃあ、もう一回言って」
「再現確認は必要だが、角兎を探して同じ状況を――」
「そうじゃない!」
リィナの木剣の柄がレイルの額へ向かいかけ、途中で止まった。実戦後に余計な打撃を加えない判断らしい。
レイルは記録紙を広げ、起きたことを順番に書き込んだ。
【初動予測:失敗】
【角兎が正面突進】
【計画修正前に身体停止】
【リィナが木剣の平で角度変更】
【投石で注意誘導】
【入口方向へ撃退】
【負傷なし】
最後に【作戦失敗】と書いたところで、リィナが横から覗き込み、その文字を指で叩いた。
「これ、違うんじゃない?」
「当初作戦は成立していない」
「目的は、角兎を追い出して、二人で帰ることだったよね」
「まだ帰っていない」
「じゃあ、帰ったら成功に直して」
レイルは筆を止めた。”作戦の手順”と”目的”を同じものとして扱っていた。決めたとおりに進まなかったから失敗なのではない。”目的を失わず、手段を変えられたかどうか”が重要なのだ。
「【手順変更】に修正する」
「うん」
「成功かどうかは”帰還後”に確定する」
「そこはレイルらしいね」
記録を終え、二人は入口方向へ向かった。
しかしレイルは、先ほど角兎が飛び出してきた暗がりへ目を向ける。地図にない分岐の手前までしか進んでいない。角兎がどこに潜んでいたのか、他の個体がいるのか、逃走経路は安全か。確認しておくべき項目が残っている。
「入口から二十歩だけ追加確認する」
「帰るんじゃないの?」
「角兎が入口側に巣を持つなら、帰路で再接触する可能性がある。安全な帰還のための確認だ」
「時間は?」
レイルは砂時計を見た。予定滞在時間にはまだ余裕がある。
「砂が半分落ちるまで。それ以上は進まない」
「怪我があったら?」
「即時撤退」
「分かった。私が前」
リィナは、先ほど角兎がいた場所へ戻った。
泥の上には、蹄跡が二方向へ伸びている。一つは入口へ。もう一つは壁際の狭い亀裂へ続いていた。亀裂は子どもでも通れないほど細いが、その奥から冷たい空気が流れている。
「ここから出てきたのかな」
「角兎なら通れる。別の空洞につながっている可能性がある」
レイルが灯りを近づけると、亀裂の下に透明な粘液が付着していた。
水ではない。油のように光を反射し、ゆっくりと石の表面を流れている。
奥から、濡れた布を引きずるような音がした。
『未知ノ移動音ヲ検出シマシタにゃ』
リィナが木剣を身体へ引き寄せる。
「あと二十歩、行く?」
レイルは砂時計と亀裂を見比べた。
「音の発生源だけ確認する。接触は避ける」
「それ、二十歩で終わる?」
「終わらせる」
言い切って、レイルは灯りを前へ向けた。
最初の作戦は崩れましたが、目的まで捨てる必要はありません。
リィナは「止める剣」ではなく、敵の向きと次の間合いを作る剣を使い始めました。
次回、水、音、匂いを読みながら進んだ二人は、帰還予定時刻という別の危険を見落とします。




