第29話「角兎一匹に必要な装備」
慎重な準備は、実戦で誰かを救うことがあります。
ただし、入口まで運べない準備は、まだ役に立ちません。
旧坑道の入口には、冷たい風が流れていた。
外気より温度が低く、湿気と土、それに古い木材の匂いが混じっている。風が外へ出ているということは、坑道のどこかに別の開口部がある可能性が高い。退路になり得る一方、奥の空気や魔物も流れてくる。
レイルは入口から三歩離れた場所へ荷物を下ろし、点検を始めた。
「油灯一個。予備灯二個。火口箱二組。水筒二本。縄十五歩分。短縄三本。包帯、止血布、添え木、消毒酒。解毒薬は植物毒、動物毒、鉱石毒、原因不明時用の四種」
「四匹目がいるの?」
リィナは丸パンを食べながら尋ねた。
「毒の種類だ」
「角兎を見るだけじゃなかった?」
「角兎しかいないと決まったわけではない。一匹見つかったことは、一匹しかいない証明にならない」
「まだ一匹目も見つけてないよ!」
「だからこそ、未知の個体を想定する必要がある」
レイルは革鞄の底から、折り畳んだ布を取り出した。四隅へ縄を通せば簡易担架になる。さらに、小型の鍋、乾燥薬草、雨具、予備靴紐、石灰粉、呼子笛、木炭筆、地図用紙が続く。
リィナは食べ終えた丸パンの袋を自分の布袋へしまい、次に焼き芋を取り出した。
「レイル、引っ越しじゃないんだよ?」
「予定どおり帰れない場合の準備だ」
「荷物が重くて、予定どおり歩けなくなってたじゃん」
「問題は現地へ到着する前に判明し、荷物配分で解決した」
「私が持ってるだけで、別に減ってないけどね」
ニアはレイルの鞄とリィナの布袋を見比べ、尾へ数字を表示した。
『レイルノ荷重、体重比三十八パーセントデスにゃ』
「許容範囲は?」
『長距離移動ヲ想定スル場合、非推奨デスにゃ』
「坑道内は百歩だけだ」
『帰路ガ計算カラ除外サレテイマスにゃ』
「除外していない。帰路では水と食料が減る予定なんだ」
『負傷者発生時ノ運搬重量ガ加算サレテイマセンにゃ』
レイルは簡易担架へ目を落とした。負傷者を運ぶための道具を持ちながら、負傷者を運ぶ余力は計算していなかった。
「鍋を置いていく」
「解毒薬は?」
「原因不明用を除く三種へ減らす」
「予備灯は?」
「一つへ減らす。ただし主灯が破損し、予備も湿った場合――」
「その時は”帰る”」
リィナが即答したため、レイルは反論しかけたものの、灯りを二つ失った状況で探索を継続する理由はない。予備の予備を用意するより、撤退条件を決める方が荷物は減る。
「分かった。予備灯は一つ」
『撤退条件ノ追加ヲ記録シマシタにゃ』
荷物を減らした後、レイルは入口の腐った木枠を調べた。触れずに小石を投げ、振動で木屑が落ちないかを見る。天井へ細い亀裂はあるが、石粉が新しく崩れた形跡はない。地面の泥には、靴跡と角兎らしき小さな蹄跡が残っている。
「人が入ってる」
「猟師か採取人だろう。靴底の端が丸く減っている。村で使われる作業靴に近い」
「知ってる人?」
「断定できない。足跡は昨日の雨より後だが、今朝より前。入口へ入った跡と出た跡が両方ある」
「戻ってきたんだ」
「少なくとも、この人物は」
その言葉に、リィナの表情が僅かに固くなった。
中へ入れば、自分たちも戻らなければならない。昨夜までは当たり前だったはずのことが、入口を前にすると重みを持つ。
レイルは短杖の先へ油灯を固定し、【種火】を唱えた。
「火よ。小さき熱を集め、灯芯へ宿れ――【種火】」
灯芯へ小さな炎が生まれる。風に揺れたものの、対象を外さず、一度で着火できた。ニアの尾へ【発動成功】が表示される。
「火を消す時は、濡れ布か蓋を使う。坑道内で油をこぼした場合は――」
「今は入るところ」
「手順の確認だ」
「終わらせる時にまた言って」
リィナが先へ進み、レイルは半歩後ろから続いた。
入口から十歩ほどは外の光が届いていたが、そこから先は油灯だけが頼りになる。壁には採掘跡が横筋となって残り、古い支柱の間から水が滴っている。足元には大小の石が散らばり、草地で覚えた足運びをそのまま使えば簡単に躓くだろう。
リィナは木剣を両手で握らず、右手だけで身体の近くへ構えた。天井が低いため振り上げられず、横へ払えば壁へぶつかる。大きく振る剣ではなく、短く押し、斜めへ流す形が必要になる。
「剣を振れる幅は、肩の左右一尺半程度だ」
「見れば分かるよ」
「戦闘中に確認するより先に――」
「レイル」
低い声を出したリィナの視線は、前方の泥へ向いていた。油灯の光が届く境目に、小さな黒い粒が落ちている。
レイルは近づく前に屈み、短杖の光を低くした。
「――これは、角兎の糞に近いな。乾燥していない。今朝か、昨日の夜にしたものだろう」
「近くにいる?」
「可能性は高い。壁際に毛がある。白ではなく灰色だから、坑道へ適応した個体かもしれない」
「毒は?」
「角に毒を持つ変異例は記録上二件だけだが――」
「解毒薬を減らさなきゃよかったって顔してる」
「原因不明用解毒薬は残してある」
リィナは溜息をついたが、木剣を握る手に力を入れすぎなかった。朝の稽古どおり、振った後に次へ動ける余裕を残している。
さらに十五歩進むと、坑道は左右へ緩く分かれていた。
右は古い木材で塞がれ、左だけが通れる。地図では分岐は描かれていない。崩落か、採掘後に追加された坑道かもしれない。
「未知の分岐だ。ここで引き返す」
「まだ百歩も歩いてないよ」
「”距離”ではなく”条件”で決める。地図にない分岐へ入らないと決めた」
「左の道も駄目?」
「左右どちらが地図上の本道か確認できない」
リィナは残念そうに前を見る。それでも勝手に進まず、レイルの横へ戻った。
撤退判断が受け入れられたことに、レイルは小さく息を吐いた。
その時、二人の背後で石が跳ねた。
振り返ると、入口側の暗がりから灰色の影が飛び出している。長い耳、丸い胴体、額から伸びた短い角。掌より大きく、普通の兎より脚が太い。
角兎は逃げるのではなく、二人と入口の間へ立っていた。
「いた。一匹目」
そう言ってリィナは木剣を構えた。
「一匹しかいないとは――」
「その話、今する?」
角兎が前脚で地面を掻くのを見て、レイルは油灯を掲げ、退路と角兎の位置を見比べる。狭い坑道では横へ避ける空間が少ない。追い払うには、こちらが奥へ下がり、入口側へ逃がす必要がある。
「”倒す必要はない”。入口へ追い出す」
「どうする?」
「僕が右へ小石を投げる。音へ驚けば左へ逃げる。リィナは左を塞いで入口方向へ向ける」
「分かった」
「振り切らないでくれ。倒せなくても、向きを変えればいい」
「それ、朝の続き?」
「実戦で再現できなければ稽古の意味がない」
リィナが一度だけ頷くのを確認し、レイルは足元から小石を拾った。角兎の耳が動き、その赤い目が石を持つ手へ向いた。
計画どおりなら、右の壁へ石が当たる。角兎は反対側へ跳び、リィナが入口へ誘導する。ただし、その作戦には一つだけ致命的な問題があった。”角兎は、レイルが投げるまで待ってはくれなかった”。
装備を減らす代わりに、撤退条件を増やすことを覚えました。
リィナは狭い場所で大振りを捨て、短い受け流しと誘導を試します。
次回、角兎は作戦書に書かれた方向へ逃げてくれません。




