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未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――  作者: 勇者ヨシ君
第3章「旧坑道の慎重勇者」

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第29話「角兎一匹に必要な装備」

慎重な準備は、実戦で誰かを救うことがあります。

ただし、入口まで運べない準備は、まだ役に立ちません。

 旧坑道(きゅうこうどう)の入口には、冷たい風が流れていた。


 外気(がいき)より温度が低く、湿気(しっけ)と土、それに古い木材の匂いが混じっている。風が外へ出ているということは、坑道(こうどう)のどこかに別の開口部(かいこうぶ)がある可能性が高い。退路(リトリート・ルート)になり得る一方、奥の空気や魔物も流れてくる。


 レイルは入口から三歩離れた場所へ荷物を下ろし、点検を始めた。


油灯(あぶらび)一個。予備灯二個。火口箱(ほくちばこ)二組。水筒二本。縄十五歩分。短縄三本。包帯、止血布、添え木、消毒酒。解毒薬(げどくやく)は植物毒、動物毒、鉱石毒、原因不明時用(げんいんふめいじよう)の四種」

「四匹目がいるの?」


 リィナは丸パンを食べながら尋ねた。


「毒の種類だ」

角兎(つのうさぎ)を見るだけじゃなかった?」

「角兎しかいないと決まったわけではない。一匹見つかったことは、一匹しかいない証明にならない」

「まだ一匹目も見つけてないよ!」

「だからこそ、未知の個体を想定する必要がある」


 レイルは革鞄(かわかばん)の底から、折り畳んだ布を取り出した。四隅へ縄を通せば簡易担架(かんいたんか)になる。さらに、小型の鍋、乾燥薬草(かんそうやくそう)、雨具、予備靴紐(よびくつひも)石灰粉(せっかいこ)呼子笛(よびこぶえ)木炭筆(もくたんふで)地図用紙(ちずようし)が続く。


 リィナは食べ終えた丸パンの袋を自分の布袋(ぬのぶくろ)へしまい、次に焼き芋を取り出した。


「レイル、引っ越しじゃないんだよ?」

「予定どおり帰れない場合の準備だ」

「荷物が重くて、予定どおり歩けなくなってたじゃん」

「問題は現地へ到着する前に判明し、荷物配分で解決した」

「私が持ってるだけで、別に減ってないけどね」


 ニアはレイルの鞄とリィナの布袋を見比べ、尾へ数字を表示した。


『レイルノ荷重、体重比三十八パーセントデスにゃ』

「許容範囲は?」

『長距離移動ヲ想定スル場合、非推奨(ひすいしょう)デスにゃ』

「坑道内は百歩だけだ」

帰路(きろ)ガ計算カラ除外サレテイマスにゃ』

「除外していない。帰路では水と食料が減る予定なんだ」

負傷者(ふしょうしゃ)発生時ノ運搬重量(うんぱんじゅうりょう)ガ加算サレテイマセンにゃ』


 レイルは簡易担架へ目を落とした。負傷者を運ぶための道具を持ちながら、負傷者を運ぶ余力は計算していなかった。


「鍋を置いていく」

「解毒薬は?」

「原因不明用を除く三種へ減らす」

「予備灯は?」

「一つへ減らす。ただし主灯が破損し、予備も湿った場合――」

「その時は”帰る”」


 リィナが即答したため、レイルは反論しかけたものの、灯りを二つ失った状況で探索を継続する理由はない。予備の予備を用意するより、撤退条件(リトリート・ルール)を決める方が荷物は減る。


「分かった。予備灯は一つ」

『撤退条件ノ追加ヲ記録シマシタにゃ』


 荷物を減らした後、レイルは入口の腐った木枠を調べた。触れずに小石を投げ、振動で木屑(きくず)が落ちないかを見る。天井へ細い亀裂(きれつ)はあるが、石粉(せきふん)が新しく崩れた形跡(けいせき)はない。地面の泥には、靴跡と角兎らしき小さな(ひづめ)跡が残っている。


「人が入ってる」

「猟師か採取人だろう。靴底(くつぞこ)の端が丸く減っている。村で使われる作業靴(さぎょうぐつ)に近い」

「知ってる人?」

「断定できない。足跡(あしあと)は昨日の雨より後だが、今朝より前。入口へ入った跡と出た跡が両方ある」

「戻ってきたんだ」

「少なくとも、この人物は」


 その言葉に、リィナの表情が僅か(わずか)に固くなった。


 中へ入れば、自分たちも戻らなければならない。昨夜までは当たり前だったはずのことが、入口を前にすると重みを持つ。


 レイルは短杖(たんじょう)の先へ油灯を固定し、【種火】を唱えた。


「火よ。小さき熱を集め、灯芯(とうしん)へ宿れ――【種火(たねび)】」


 灯芯へ小さな炎が生まれる。風に揺れたものの、対象を外さず、一度で着火できた。ニアの尾へ【発動成功】が表示される。


「火を消す時は、濡れ布か蓋を使う。坑道内で油をこぼした場合は――」

「今は入るところ」

「手順の確認だ」

「終わらせる時にまた言って」


 リィナが先へ進み、レイルは半歩後ろから続いた。


 入口から十歩ほどは外の光が届いていたが、そこから先は油灯だけが頼りになる。壁には採掘跡(さいくつあと)が横筋となって残り、古い支柱(しちゅう)の間から水が滴っている。足元には大小の石が散らばり、草地で覚えた足運びをそのまま使えば簡単に躓く(つまずく)だろう。


 リィナは木剣を両手で握らず、右手だけで身体の近くへ構えた。天井が低いため振り上げられず、横へ払えば壁へぶつかる。大きく振る剣ではなく、短く押し、斜めへ流す形が必要になる。


「剣を振れる幅は、肩の左右一尺半程度だ」

「見れば分かるよ」

「戦闘中に確認するより先に――」

「レイル」


 低い声を出したリィナの視線(しせん)は、前方の泥へ向いていた。油灯の光が届く境目に、小さな黒い粒が落ちている。


 レイルは近づく前に屈み、短杖の光を低くした。


「――これは、角兎の糞に近いな。乾燥していない。今朝か、昨日の夜にしたものだろう」

「近くにいる?」

「可能性は高い。壁際に毛がある。白ではなく灰色だから、坑道へ適応した個体かもしれない」

「毒は?」

「角に毒を持つ変異例(へんいれい)は記録上二件だけだが――」

「解毒薬を減らさなきゃよかったって顔してる」

「原因不明用解毒薬は残してある」


 リィナは溜息をついたが、木剣を握る手に力を入れすぎなかった。朝の稽古どおり、振った後に次へ動ける余裕を残している。


 さらに十五歩進むと、坑道は左右へ緩く分かれていた。


 右は古い木材で塞がれ、左だけが通れる。地図では分岐は描かれていない。崩落(ほうらく)か、採掘後に追加された坑道かもしれない。


「未知の分岐だ。ここで引き返す」

「まだ百歩も歩いてないよ」

「”距離”ではなく”条件”で決める。地図にない分岐へ入らないと決めた」

「左の道も駄目?」

「左右どちらが地図上の本道か確認できない」


 リィナは残念そうに前を見る。それでも勝手に進まず、レイルの横へ戻った。


 撤退判断(リトリート・ジャッジ)が受け入れられたことに、レイルは小さく息を吐いた。


 その時、二人の背後で石が跳ねた。


 振り返ると、入口側の暗がり(くらがり)から灰色の影が飛び出している。長い耳、丸い胴体、(ひたい)から伸びた短い角。(てのひら)より大きく、普通の兎より脚が太い。


 角兎は逃げるのではなく、二人と入口の間へ立っていた。


「いた。()()()


 そう言ってリィナは木剣を構えた。


「一匹しかいないとは――」

「その話、今する?」


 角兎が前脚(まえあし)で地面を掻くのを見て、レイルは油灯を掲げ、退路と角兎の位置を見比べる。狭い坑道では横へ避ける空間が少ない。追い払うには、こちらが奥へ下がり、入口側へ逃がす必要がある。


「”倒す必要はない”。入口へ追い出す」

「どうする?」

「僕が右へ小石を投げる。音へ驚けば左へ逃げる。リィナは左を塞いで入口方向へ向ける」

「分かった」

「振り切らないでくれ。倒せなくても、向きを変えればいい」

「それ、朝の続き?」

実戦(フィールド)で再現できなければ稽古の意味がない」


 リィナが一度だけ頷くのを確認し、レイルは足元から小石を拾った。角兎の耳が動き、その赤い目が石を持つ手へ向いた。


 計画どおりなら、右の壁へ石が当たる。角兎は反対側へ跳び、リィナが入口へ誘導(ゆうどう)する。ただし、その作戦には一つだけ致命的(ちめいてき)な問題があった。”角兎は、レイルが投げるまで待ってはくれなかった”。

装備を減らす代わりに、撤退条件を増やすことを覚えました。

リィナは狭い場所で大振りを捨て、短い受け流しと誘導を試します。

次回、角兎は作戦書に書かれた方向へ逃げてくれません。

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