第26話「一回を終える」
続けることを覚えたレイルが、次に学ぶのは”増やさずに終えること”。
正しい改善案を思いついても、今日の課題と明日の課題を分けなければ、何一つ完成しません。
翌朝、レイルは訓練開始より半刻早く作業小屋へ着いた。
早く着いた理由は、追加確認をするためではない。
体温を測る。
脈を数える。
指先の感覚を確かめる。
水を飲む。
開始時刻まで椅子に座る。
何もしない時間まで含めて、予定どおりに過ごすためだった。
窓の外では、リィナが木剣を振りながら四つ目のパンを食べていた。
「早く来たなら、先に始めればいいのに」
「開始時刻を変えると、昨日との比較条件が変わる」
「じゃあ何もしないの?」
「何もしない予定を実行している」
『リィナノ待機中摂取量、一食分ヲ超過シマシタにゃ』
「待機してない。訓練中なの!」
「昼食分は残っているのか?」
「別にあるよ」
「なら問題ない」
『肯定ハシテイマセンにゃ』
村の朝鐘が一度鳴る。
レイルは立ち上がり、石台へ向かった。
安全確認。
着火。
十呼吸の維持。
消火。
復旧。
五項目の記録。
そして最後に【終了】と書く。
昨日と同じ課題を、昨日と同じ順で行う。
「火よ。小さき熱を集め、灯芯へ宿れ――【種火】」
炎は芯の中央へ灯った。
十呼吸後に消し、石台を拭く。水桶の残量を確かめ、記録を一枚へ収めた。
皿の厚さは測らない。
風速の補足欄も作らない。
砂時計の砂が残っているうちに、紙の最後へ書く。
【終了】
「合格だ」
エルシアはそれだけ言った。
レイルは嬉しさより先に、不安を覚えた。
「一度では再現性を確認できません」
「だから明日もやる」
「今日のうちに二回目を行えば、同一体調下で比較できます」
「今日の予定は一回だ」
「魔力残量には余裕があります」
「余裕を使い切らず、次の日へ残すのも授業さね」
ニアの尾に【予定回数:一回】と表示される。
『本日ノ訓練回数、終了済ミデスにゃ』
「二対一は不公平です」
「道具は一票に数えないよ」
『判断代行機能ハ存在シマセンにゃ』
「では、なぜ発言するんですか?」
『記録補助ト警告ガ役割デスにゃ』
リィナが五つ目のパンを食べながら笑った。
「三対一だよ」
「食べながら票へ加わらないでくれ」
「食べ終わったら一票?」
「そういう問題ではない」
同じ一回は、それから毎朝繰り返された。
ただし目的は回数を増やすことではない。
今日の一回に思いついた改善を、今日の一回へ継ぎ足さない。
明日の記録欄へ移す。
予定した終了地点まで行ったら、残った余力を理由に再開しない。
それが新しい修行だった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
三日目。
安全確認をすべて声に出した結果、詠唱前に呼吸が乱れ、火は灯芯の横で崩れた。
レイルは失敗を隠さず、一つだけ原因を書く。
【音読による形成不良。次回から指差し確認】
指差し順序や声量まで検証したくなったが、羽根ペンを置いた。
【終了】
七日目は風が強かった。
炎は昨日より低かったが規定内に収まり、消火と復旧まで終えた。
「原因候補が三つあります」
「明日、一つ選びな。全部を今日へ足すな」
原因候補は逃げない。今日の一回を開き直さなくても、明日確かめられる。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
十日目。
炎はこれまでで最も安定した。
もう一度なら、さらに正確にできる。そう思いながら、レイルは杖を下ろした。
「終わります」
帰り道、リィナが焼き菓子を一つ差し出す。
「もう一回、やりたかった?」
「……少し」
「えらいえらい」
「君の分、残っていたのか?」
「レイルのために取っておいたの! 余計な確認したら食べるよ」
「ありがとう......受け取ります」
木剣で叩かれる時より、胸の辺りが落ち着かなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
十三日目。
体温は平常より高く、指先の感覚も鈍かった。一回ならできる。それでも固定した中止条件には触れている。
「今日は休みます」
「一回くらいできそうかい?」
「できます。ですが、実行できることと、実行条件を満たすことは別です」
「合格。中止条件を守るのも今日の課題だ」
『休養条件、成立シテイマスにゃ』
その日は原稿も書かずに眠り、翌朝、空白の頁へ一行だけ残した。
【休止。続きを書くため】
戻る日を決めて休むことも、一つの工程だった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
もちろん、匿名少女との練習帳も往復していた。
【安全条件五項目は固定しすぎです】
【固定しなければ、都合の悪い危険を除外する可能性があります】
【中止条件だけ固定し、観測項目は目的に合わせてください】
腹立たしいが、正しい。
【採用します】
余白には反論する場所が残っていた。それでもレイルは、そこで筆を置いた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
季節が一つ進み、畑を渡る風から冷たさが抜けた頃。
エルシアは最終試験を告げた。
「蝋燭へ【種火】を灯す。三十呼吸維持。消火。周囲の復旧。記録は一枚。昼の鐘が鳴る前に、全部終える」
石台には蝋燭、水桶、濡れ布、砂箱、貸与されたオムニアが並ぶ。
白線の外では、リィナが水桶の取っ手を握っている。もう片方の手には、大きな昼食籠があった。
「試験中は食べないでくれ」
「食べないよ」
『開始前ノ昼食摂取量、既ニ一食分デスにゃ』
「これは二回目の朝後ごはん!」
「ごはんの区分を増やすと、一日の食事回数が不明になる」
「レイルまでニア側に来ないで!」
緊張が少しだけ薄れた。
ニアが猫型の尾を回し、石台へ術式表示を広げる。
『観測ヲ開始シマスにゃ』
『判断ト実行ハ使用者ノ担当デスにゃ』
「分かっています」
「始め!」
エルシアの声で、レイルは周囲を見る。
可燃物、退路、消火手段、体調、固定中止条件を順に確認する。
「火よ。小さき熱を集め、灯芯へ宿れ――【種火】」
火が灯った。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
十を越えたところで、風向きが変わった。
炎が右へ傾く。
リィナが水桶を半歩移動させた。白線の外側を通し、レイルの退路を塞がない位置へ置き直す。
普段なら移動理由を尋ねたくなる。
水面の揺れが観測へ与える影響も書きたい。
だが、固定した中止条件には触れていない。
レイルは炎から目を離さない。
二十呼吸。
ニアの前へ数値が浮かぶ。
『媒体温度、上昇中デスにゃ』
規定値の内側だ。
まだ警告ではない。
二十五。
二十六。
風がもう一度吹き、炎が高く伸びた。
『炎高、上限ヘ接近シテイマスにゃ』
『継続判断ヲ要求シマスにゃ』
レイルは炎、皿、残り呼吸数を見る。
中止条件には達していない。
追加検証も要らない。
「継続します」
二十七。
二十八。
二十九。
三十。
濡れ布をかぶせる。火が消えた。
レイルは芯の赤みが消えるまで確認し、蝋燭を砂箱へ戻した。石台を拭く。水滴を残さない。濡れ布を絞り、所定の場所へ置く。水桶を次回開始時の水位まで補充する。
記録紙へ書く。
【三十呼吸維持】
【風向変化二回】
【炎高、一時上限接近】
【中止条件未到達】
【消火・復旧完了】
紙の下には、余白が残っている。
炎高の誤差。水桶の移動。風向き。
同じ条件でもう一度試せば、より正確な記録が取れる。
指が空いた行へ下りかけた。
そして昼の鐘が鳴る。
その前に、レイルは最後の一語を書いた。
【終了】
鐘の音が村へ広がった。
「合格」
エルシアが言った。
「炎高に誤差があります」
「あるね」
「再試験を行えば――」
そこまで言い、レイルは口を閉じた。
今日の課題は、決めた条件で一回を終えることだ。
「……今日は終わります」
「やっと自分から閉じたか」
エルシアは石台のオムニアを持ち上げた。
腕輪の表面では、七つの環がどれも閉じ切らずに淡く光っている。
「無詠唱で一つ撃つだけなら、天才はできる」
指先で腕輪を回す。
「完成直前の魔法を十個並べるなら、歴史上の大魔導士にもできない。普通は術式の方が待てないからね」
レイルは黙って聞いた。
「でも、バカ弟子」
エルシアが閉じない環の向こうから、真っ直ぐレイルを見る。
「お前は魔法を待たせるんじゃない。いつか、世界から【最後の一工程】を預かるかもしれない」
褒め言葉でも、今すぐ試せという許可でもない。
「その前に、普通の魔法をもっと終わらせます」
「そうしな」
ニアが尾の環を小さく閉じるように動かした。輪は最後まで閉じず、一箇所だけ光を残した。
『最終試験、全工程ノ終了ヲ確認シマシタにゃ』
「ありがとう」
『礼ノ必要性ハ未設定デスにゃ』
少し間が空く。
『……受領シマシタ、ニャン』
リィナが笑い、昼食籠を持ち上げた。
「じゃあ、お祝いしよう。お腹空いた」
「二回目の朝食を食べていたはずでは?」
「あれから試験一回ぶん動いたから!」
「消費量と摂取量が釣り合っているか――」
「終わった試験へ条件を足さない!」
レイルは口を閉じた。
正しい指摘だった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
試練の後日、レイルは七歳になった。
誕生日の食卓には、エナが焼いた肉料理、野菜の煮込み、丸パン、果実の菓子が並んだ。
リィナはレイルより先に祝いの言葉を言い、レイルの三倍食べた。
ニアは途中から食事量の表示を止めた。
『測定値ノ有用性ヲ再検討シマスにゃ』
「もう諦めた?」
『比較対象ノ選定ガ困難デスにゃ』
誕生日に増えたのは固有律の保持数ではない。
【種火】の回数、魔力制御、異常を申告する習慣、決めたところで訓練を終える経験。
小さなものばかりだった。
けれど、前世で何も終えられなかった自分には、その一つ一つが重い。
誕生日の夜。
レイルは父バルドの古い道具箱から、折り畳まれた紙を見つけた。
木材の仕入れ先と、村周辺の作業道が記された古い地図。
端には、崩れた山腹へ続く一本の線がある。
【エルデ旧坑道】
この場所は、廃坑になって久しい。
表層だけなら、猟師や採取人が雨宿りに使うこともあると聞いた。
レイルは地図を机へ広げた。
魔法が使えない状況。
足場が崩れる場所。
風向きも魔物も予定どおりにならない場所。
【種火】を百回終えても、石が落ちた瞬間に足が動くとは限らない。
「表層を確認するだけなら……」
口にした瞬間、自分の言葉が危ういことは分かっていた。
確認だけ。
見るだけ。
報告は帰ってから。
前世でも、都合の悪い工程を先送りする時に使った言葉だ。
それでもレイルは新しい紙を取り出した。
【旧坑道・表層確認準備表】
一項目目へ、退路。
二項目目へ、照明。
三項目目へ、縄。
四項目目へ、三日分の食料。
そこで手が止まった。
自分一人なら一日分で足りる。
だが、リィナに見つかった場合は――。
「食料は多めに必要だな」
机の下へ地図を隠した時、窓の外で小さな影が動いた。
リィナは何も言わず、カーテンの隙間から消えた。
レイルが想定していないのは、彼女が見つける可能性ではない。
最初から一緒に行くつもりでいることだった。
この修行時点でレイルが使えるのは通常詠唱の【種火】と、決めた一回を終える技術です。
【未完】は一件保持・対象選択不能・任意解除不能の第一段階。オムニアもエルシアからの貸与品で、ニアは観測と補助しか行えません。
次章、予定どおりに動かない現場――【エルデ旧坑道】へ進みます。




