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未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――  作者: 勇者ヨシ君
第2章 魔女と万式魔導環(オムニア)

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第25話「完成直前は置いておけない」

完成直前まで作った魔法を、必要な時まで残しておけないか。

未来の大魔導士へつながる発想は、今のレイルにはまだ触れてはいけない危険物でした。


 作業小屋の外では、木剣が朝の空気を切っていた。

 踏み込む。止める。返す。


 リィナは同じ動きを繰り返しながら、石垣の上に置いた朝食籠へ時折手を伸ばしていた。厚切りの黒パン、焼いた卵、干し肉、蜂蜜を塗った丸パン。エナがレイルとリィナの二人分として用意したはずだが、すでに残っているのはレイルの黒パン一枚だけである。


 昨夜、謝罪のために渡した蜂蜜パン二つも、リィナは話を聞きながら両方食べた。

 つまり、少なくとも食欲がなくなるほど怒ってはいない。


 レイルはそう判断したが、それを口に出せば再び怒らせる予感だけはあった。


「ねぇリィナ」


 木剣が止まった。


「何よ?」

「昨日は、ごめん」

「昨日も聞いたから」

「一度の謝罪で、完全に許されたと判断する根拠がない」

「じゃあ、何回謝るつもり?」

「回数で決まるなら、必要数を――」


 リィナは木剣を地面へ突き立てた。


「また答えを数字にしようとしてる」

「確認しているだけだ」

「私はもう追いかけてきた時に許したよ。パンもおいしかったし」

「二個で足りたのか?」

「そこなのぉぉぉぉ!?」

「謝罪品として不足していた可能性が」

「朝ごはんまで食べたんだから足りてる!」


 黒銀の猫型ホログラムが、作業小屋の窓枠へ現れた。


 昨日、リィナが仮入力用の術式紙へ描いた猫の落書きを基に形を得た、【万式魔導環(オムニア)】の疑似案内人格――ニアである。


 環状の尾が一度回り、リィナの空になった籠へ小さな数字を投影した。


『朝食摂取量、同年代推定ノ二・八倍デスにゃ』

「んもう!毎回数えなくていい!」

『訓練量トノ照合ニ必要デスにゃ』

「私は元気!」

『元気判定ハ食事量ダケデハ確定不能デスにゃ』

「じゃあ黙ってて!」

『沈黙ハ推奨項目ニ存在シマセンにゃ』


 レイルは黒パンを半分に割り、片方をリィナへ差し出した。


「追加するか?」

「食べるけど、今の話とは関係ないからね」


 リィナは受け取ると、二口で半分まで食べた。


 仲直りの条件は分からないままだったが、少なくとも同じ籠から食べ物を分けられる程度には戻ったらしい。


「十回だけ振るよ」

「僕も?」

「謝って終わりにしないため。昨日よりちゃんと合わせて」


 レイルは木剣を拾った。

 十回の打ち合わせを終えて作業小屋へ入ると、屋外の石台に授業の準備が整っていた。


 耐熱皿。短い蝋燭。砂箱。水桶。濡れ布。白い石灰で引かれた安全線。見学位置と退避方向まで指定されている。


「先生、準備が多くありませんか?」

「お前にだけは言われたくないね、バカ弟子」


 エルシアは銀黒色の腕輪を石台へ置いた。


 閉じ切らない七つの環が淡く浮かび、その上へニアが投影される。猫型の前脚が耐熱皿へ触れたように見えたが、実体はなく、皿は動かない。


『周辺安全条件、成立シテイマスにゃ』


「今日の授業は、お前が余白魔導士へ書いた質問の答えだ」


 エルシアが指を一本立てた。


「完成直前まで作った魔法を、必要な時まで置いておけるか」


 レイルは頷いた。


「詠唱を最後の一語で止めれば、発動までの時間を短縮できます」

「誰でも一度は考える。大抵は一度試して懲りる」

「先生も?」

「私は二度やった」

「一度で学習していません」

「二回目は一回目の結果を疑った確認実験さ」


 リィナが黒パンを噛みながら呟いた。


「似てる」

「誰とですか?」

「二人とも」


 エルシアは聞こえなかったふりをして、蝋燭へ右手を向けた。


「火よ。指先に集い、灯芯へ形を――」


 魔力が細い糸となって指先から伸びる。


 まだ火は生まれていない。だが、灯芯の周囲へ熱が集まり、空気が透明に揺らぎ始めた。


 始動。

 形成。


 そして現象を世界へ確定する、結着の直前。

 エルシアは最後の言葉を止めた。


 静かなはずの石台から、耳の奥を押されるような圧迫感が広がった。

 見えない何かが出口を求め、術式の内側から世界へ爪を立てている。

 ニアの前へ、途中で切れた環状術式が展開された。


『結着圧、上昇中デスにゃ』

『媒体温度、許容値ヘ接近シテイマスにゃ』

『維持ハ非推奨デスにゃ』


 蝋燭の芯が、火もないのに赤くなる。

 耐熱皿の表面へ髪の毛ほどの亀裂が走った。


 エルシアは指一本動かしていない。それでも額には薄い汗が浮かび、呼吸も普段より僅かに深い。


「止めているだけでも、魔力を消費するんですか?」

「止まってないからね。術式は結着しようと進み続ける。私は出口を塞いで、形が崩れないよう押さえてる」


「集中を切った場合は?」

「完成する。崩れる。歪んだ条件で飛び出す」

「三種類ですか」

「周囲の風、媒体、術者の姿勢、別の魔法との干渉まで入れれば、失敗の種類はまだ増えるよ」


 エルシアは最後の一語を唱えた。


「――灯れ」


 ぼっ、と低い音が鳴った。


 蝋燭へ灯った炎は、通常の【種火(たねび)】より高く、細く尖っている。エルシアは即座に濡れ布をかぶせ、完全に消えたことを確認した。


 ニアの尾が亀裂を囲む。


『媒体損傷ヲ確認。再使用ハ非推奨デスにゃ』


「魔法を残している間、術者は手を離せない。媒体には負荷が溜まる。周囲の魔力と混ざる。別の術式を近くで組めば、形を引っ張られる」


 エルシアは亀裂の入った皿を持ち上げた。


「長く待たせた分だけ便利になるんじゃない。暴発の条件が増えるのさ」


 レイルは石台に残った術式の残光を見つめた。それは完成したがっていた。

 最後の一工程を求め、世界へ押し出されようとしていた。

 その圧力には覚えがある。


 革鞄の中の自作小説。

 結末へ向かって進みながら、最後の一文だけがどこにも存在しない物語。


「押さえ続けるから負荷がかかるのなら、押さえなければいい」

「火を出す授業で、火を出さない結論へ行くな」

「そうではありません。術式は完成直前まで進める。ただ、最後の一工程だけを術式の外へ出すんです」


 エルシアの目が細くなった。

 からかいではない。弟子の言葉を一つも取りこぼさない、術式研究者の目だった。


「ほう。......続けな」

「術式の中に結着する権利が残っているから、完成しようと圧力が生まれる。最後の一工程そのものが最初から欠けていれば、完成できないまま形だけを残せるかもしれない」

「お前の原稿みたいに?」

「はい。似ています」


 リィナが蝋燭とレイルを交互に見る。


「それなら、火を何個も置いておけるの?」

「今の僕には一個も無理だ」


 レイルは即答した。


「僕は欠けさせる対象を選べない。保持できるのは一件だけだ。今は原稿がその一件を使っている。別の対象へ移れば、原稿へ何が起きるか分からない」


「じゃあ、試さないんだね」

「というより、試せない」

「違うよ。やりたいけど、やらないんだね」


 レイルは一瞬だけ言葉を失った。


「……そうだ」


 エルシアが割れた皿を置く。


「仮に【種火】の最後だけを欠けさせられたとする。作った時には蝋燭がここにある。風は弱い。周囲に人はいない。だが、完成権が戻る時に蝋燭が倒れていたら? 誰かが持っていたら? お前が眠っていたら?」


 返せる答えはない。

 今の【未完】は対象を選べない。

 任意に解除できない。

 安全装置の原稿を保持したまま、別の魔法を未完化することもできない。


「可能性があることと、許可できることは別だ」


 エルシアの声から、いつもの笑いが消えた。


「できるかもしれないから禁止する。成功した時の方が、次に止められなくなるからね」


 レイルは石灰の安全線を見つめた。

 反論は浮かばなかった。


「分かりました。【未完】は使いません」

「返事が早いね」

「危険条件が明確ですから」

「なら普通の魔法をやりな。未完成の火を残す前に、完成した火を百回、最後まで終えろ」


 エルシアは新しい耐熱皿を石台へ置いた。


「今日の課題は一回。安全確認、着火、十呼吸の維持、消火、復旧、記録。砂時計が落ち切る前に全部終える」


 レイルは紙を取り出した。


「風速も記録すべきです」

「記録は五項目まで」

「湿度は炎高へ影響します」

「だから、五項目」

「先ほど皿の個体差が判明したため、厚さの測定を――」


 リィナが砂時計をひっくり返した。


「で、やるの?」


 砂が落ち始める。

 レイルは反射的に蝋燭へ向き直った。


「火よ。小さき熱を集め、灯芯へ宿れ――【種火(たねび)】」


 今まで何十回何百回とやった術式だ。

 火が灯る。

 一呼吸。二呼吸。三呼吸。


 十まで数え、濡れ布をかぶせた。火が消えたことを確認し、皿を砂箱へ戻す。石台の煤を拭き、濡れ布を広げ、水桶の残量を確かめる。


 記録紙へ結果を書く。


【発動成功】

【炎高、規定内】

【十呼吸維持】

【消火確認】

【復旧完了】


 五項目を書き終えた。

 そこで割れた皿と新しい皿の厚さの差が気になった。


【追加確認――】


 最初の四文字を書いた時、砂時計の最後の粒が落ちた。


「時間切れ。不合格」


 エルシアが告げる。


「魔法そのものは成功しています」

「課題は失敗だ」

「追加確認には、次回以降の事故を減らす意味があります」

「記録を増やすなとは言ってない。今日の一回を終えてから、明日の課題として始めろと言ってる」


 レイルは紙に残った【追加確認】を見つめた。


 火を出した。

 消した。

 片づけた。


 それでも自分は、終わった一回へ新しい条件を継ぎ足し、再び未完成へ戻した。


「……明日の朝、もう一度受けます」

「よし」


 エルシアは砂時計を起こした。


「今のお前が覚えるのは、魔法を待たせる方法じゃない。一回を終わらせる方法だよ、バカ弟子」


 ニアが記録紙の下へ、小さな閉じない環を表示した。


『本日課題、結着条件未達デスにゃ』

「分かっています」

『明日ノ再実行ヲ推奨シマスにゃ』

「それも、分かっています」

『理解確認、完了ニャン』


 猫の尾が満足そうに揺れた。なぜか少し腹が立った。


完成直前の術式は止まっているのではなく、術者が完成圧力を押さえ続けています。

【未完】なら異なる保存法へ到達できる可能性はありますが、現在のレイルは対象選択も任意解除もできません。

次回、成功した一回へ新しい課題を足さず、決めた場所で終了させる修行です。

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