第24話「余白魔導士と完璧主義者」
正しさの違う二人が、文章越しに互いの弱点を突き始めます。
安全を守る準備も、期限を守る完成も、どちらか一方では足りません。
その頃、リィナは別の問題を気にしています。
余白でやり取りをしている匿名の人からの赤い返事は、三日後に届いた。
【臆病です】
たった五文字だった。
レイルはしばらく無言で眺め、黒いインクをつける。
【死ぬよりましです】
次の返事は二日後。
【火力が足りなければ、危険対象を止められません】
【火力を上げるほど、誤射時の損害が増えます】
【精度を上げればよいのです】
【精度が百パーセントである根拠は?】
【訓練で百パーセントへ近づけます】
【近づくだけなら、失敗は残ります】
やり取りは、練習帳の余白だけでは収まらなくなった。
紙は高いと言っていたエルシアは、なぜか細長い継ぎ紙を何枚も貼り足した。
帳面を開くと両側へ紙片が垂れ下がり、練習帳なのか小さな巻物なのか分からない。
「先生、なんか、楽しんでいませんか?」
「教育効果を観察してるだけさ」
「表情が笑っています」
「若いのが本気で喧嘩するのは面白い」
「喧嘩ではありません。術式の危険性に関する議論です」
『応酬回数、十四往復デスにゃ』
「回数は関係ありません」
『平均返答時間、到着後十三分デスにゃ』
「期限が不明だから、早期回答が合理的です」
『優先度設定ノ偏リヲ確認シマシタにゃ』
ニアの尾が、作業机の上でゆっくり揺れた。
黒い文字と赤い文字は、火力、精度、煙、退路、失敗時の損害を巡って何往復もする。
【火球の直径を大きくすれば、命中許容範囲が広がります】
【周辺への延焼範囲も広がります】
【標的周囲を事前に空けます】
【標的が移動した場合は?】
【追尾補正を加えます】
【第三者を追尾した場合は?】
【そのような誤差は設計段階で除外します】
【除外できるなら、除外方法を書いてください】
次に戻ってきた赤い文字は、いつもより僅かに乱れていた。
【あなたは余白へ危険ばかり増やします。術式が見えなくなります】
その下へ、二重線で囲まれた呼び名がある。
【余白魔導士】
レイルは眉を寄せた。
「......失礼では?」
「見事に合ってるじゃない」
リィナは、エナが持たせた昼食籠から肉入りの焼き菓子を取り出した。
すでに二つ食べている。今日も食欲旺盛なようだ。
「僕は魔導士ではありません。まだ【種火】しか使えないし――」
「気にするところ、そこなんだ。なんかヘン」
レイルは返答欄へ書いた。
【安全条件を書かず、術式の美しさだけを守る完璧主義者へ】
その日から、赤い文字の相手は【完璧主義者】になった。
完璧主義者は、期限と目的を重んじる。
余白魔導士は、事故と退路を重んじる。
完璧主義者は、目的を達成する最短の術式を示す。
余白魔導士は、その最短経路が崩れた時の道を増やす。
二人の文章は噛み合わない。
それでも返事だけは、必ず届いた。
そんなやり取りが続いたある午後。
リィナが作業小屋へ来ると、レイルは机へ顔がつくほど練習帳を覗き込み、届いたばかりの赤い返事を読んでいた。
リィナは籠を机の端へ置く。
中には、焼いた芋が二つ、肉入りのパンが三つ、甘い木の実菓子が一つ。
紙へ油が飛ばないよう、いつもどおり木皿も入っていた。
「また、その子から?」
「性別は聞いていない」
「先生、女の子って言ってたよ」
レイルの視線が、ゆっくりエルシアへ向く。
「うーん、言ったかねえ」
「通信教育中の少女が使った練習帳だと、最初に説明していました」
「覚えてたか」
リィナは肉入りのパンを一つ食べ終え、二つ目へ手を伸ばした。
いつもどおり速いが、今日は妙に咀嚼が強い。
『摂取速度、通常時ヨリ一割上昇シテイマスにゃ』
「数えなくていい」
『食事量計測ハ体調観測ノ一部デスにゃ』
「今は元気!」
『機嫌ノ低下ヲ確認シマシタにゃ』
「それも言わなくていい!」
レイルは二人のやり取りを見比べた。
「空腹なら、僕の予備食を――」
「もう二つ食べた!」
「では、量の問題ではない?」
「そうだよ!」
リィナは机の上の練習帳を指した。
「知らない女の子と、何日も手紙を交換してるんだ」
「手紙ではない。術式上の危険性を議論しているだけだ」
「名前をつけ合ってるじゃん」
「識別のためだ」
「毎回、返事が来た日にすぐ書いてるし」
「期限が不明だから、早期返答が合理的だ」
「私には、一頁読むだけで確認書を書かせたのに!」
「契約書ではない。原稿を扱う際の安全確認書だ」
「全十二項目あった!」
「第三者が結末を書き足した場合、【未完】の保持が外れる可能性がある。必要な条件だ」
「この子には、名前も知らないのに何頁も書くんだ」
「火球事故は原稿より広範囲へ――」
木剣の柄が、机へごん、と置かれた。
「で、私よりその子と話す方が楽しいの?」
レイルの口が止まった。術式の話なら答えられる。
危険条件なら列挙できる。だが、今の質問が求めているものは、どの安全対策表にも書かれていない。
「比較条件が――」
「もういい!!」
リィナは昼食籠を持ち上げた。
残ったパンや菓子を放置せず、布で包み直してから外へ出ていく。
扉が閉まった後、エルシアは薬草茶を啜った。
「女の子は、魔法や魔物より難しいだろ」
「質問の完成条件が不明です」
「そうやって、何でも問題文にするからだよ」
ニアが机の端から扉を見る。
『対話失敗ヲ確認シマシタにゃ』
「ニア、記録しなくていい」
『早期改善ヲ推奨シマスにゃ』
「具体的な改善手順は?」
『判断ハ使用者ノ担当デスにゃ』
レイルは追いかけるべきか迷った。
迷っている間に、練習帳の新しい赤文字が目へ入る。
【目的を達成できなければ、どれほど安全でも魔法ではありません】
これまでで最も強い筆圧だった。
レイルは腹が立った。
安全を軽視している。
失敗した時に傷つく人間を、術式の外へ置いている。
自分は間違っていない。
そう反論する文章を、一頁ぶん書きかけた。だが、手が止まる。
机の上には、【種火】の次の課題案が積まれていた。
火力を上げる前の安全条件。
屋外実験の候補地。
風向き別の中止基準。
水桶の必要数。
予備の濡れ布。
追加観測項目。
どれも大切だ。どれも事故を減らす。
だが、その一覧を完成させることに夢中になり、次の魔法そのものを始める日を決めていない。
前世でも同じだった。
資料を集め、設定を作り、失敗しない方法を探し続けた。
準備が完全に終わる日は来ないと、どこかで知りながら。
「……僕は、安全対策を作ることで、本番から逃げていますか?」
エルシアはすぐに答えなかった。
茶器を置き、レイルが書きかけた一頁へ目を落とす。
「安全対策が逃げかどうかは、書いた後に本番へ行くかで決まる」
短い答えだった。
「お前の準備は役に立つ。だから余計に厄介だ。正しい準備を言い訳にしたら、誰も止めにくい」
レイルは書きかけの反論を見つめた。
それから余白へ、一行だけ記す。
【安全条件を五項目へ絞ります。その上で発動試験日を決めます】
少し迷い、もう一行加えた。
【ただし、退路は必要です】
最後の一文だけは譲れない。
エルシアが覗き込み、鼻で笑った。
「そこまで捨てろとは言ってないよ」
レイルは練習帳を閉じ、椅子から立った。
「どこへ行くんだい?」
「リィナへ、質問の意味を確認しに」
「謝りに行く、と言えないのかい」
「……謝りに行きます」
棚へ手を伸ばし、朝から取っておいた蜂蜜入りの丸パンを二つ布で包む。
リィナの食事量なら、一つでは足りないと知っている。
エルシアが片方の眉を上げた。
「準備が早いじゃないか」
「謝罪中に空腹で機嫌が悪化する可能性を――」
『余計ナ説明ハ非推奨デスにゃ』
「分かっています」
本当は、分かっていない。
だから、聞きに行く。
扉を開けると、外ではリィナが木剣を振っていた。
考えることは必要だ。
余白も、退路も、失敗した後の手段も必要だ。
けれど、余白を埋めるだけでは、物語も魔法も人との関係も進まない。
いつか名前を知ることになる完璧主義者の一文が、レイルを次の頁へ押した。
今回の気づき:正しい安全対策も、本番へ進まない言い訳になり得る。
退路を捨てるのではなく、条件を絞り、実行日を決めます。
次回、完成直前の魔法を残せるか――【未完】の理論へ踏み込みます。




