第23話「知らない誰かの練習帳」
紙代の節約から、名前も顔も知らない少女との筆談が始まります。
整いすぎた術式と、余白を埋める危険予測。
最初に知るのは名前ではなく、互いの考え方です。
「紙は高い」
エルシアは、朝の挨拶より先にそう言った。
「知っています」
「知ってる人間の使い方じゃないね」
机の上には、レイルが書いた安全対策表、訓練記録、術式の失敗図、追加検証案が積み上がっている。
片面だけ使った紙。追記用として広い余白を残した紙。
表題だけ書き、本文が一行もない紙。
「後から追記する可能性があります」
「追記されてない紙が二十枚ある」
「可能性は残っています」
「その可能性のために家計を終了にする気かい」
レイルは黙った。
ニアは自作小説の革表紙へ丸く収まり、前脚の間から紙の山を見ている。
『未使用余白ノ総面積、本文使用面積ノ一・七倍デスにゃ』
「余白は情報です。将来の修正可能性を保持します」
『修正予定ノ未登録領域ガ多数存在シマスにゃ』
「君はどちらの補助役なんだ」
『事実ノ補助役デスにゃ』
昨日と同じ回答だった。
エルシアは革鞄から、薄い練習帳を一冊取り出した。
上質な紙を糸で綴じたもので、表紙には名前がない。
「通信で教えてる子の古い練習帳だ。表は使ってある。裏と余白だけ使いな」
「他人の記録へ書き込んでいいんですか?」
「内容は新しい帳面へ写し終えてる。捨てるよりましだ」
「個人情報は?」
「名前は剥がした」
「筆跡から本人を推定できる可能性が――」
「会ったこともない相手を筆跡で探し当てられるなら、学院へ行かず探偵系冒険者にでもおなりな」
レイルは練習帳を開いた。
最初の頁には、火球術式が驚くほど整然と書かれていた。
始動句。
形成句。
結着句。
魔力配分は細い線で正確に分けられ、火球の直径、飛距離、温度、空気抵抗による減衰まで計算されている。
文字の高さは揃い、訂正跡はほとんどない。
「これ……きれいだ」
「悔しいかい?」
「いいえ。参考になります。ただ、実地運用の記録がありません」
「まぁ、ただの練習帳だからね」
その日の昼前、リィナが布包みを抱えて作業小屋へ来た。
中身は肉を挟んだ黒パンが三つ、芋の焼き菓子が二つ、エナが持たせた小さな果実だった。
「リィナ、昼食には多すぎませんか?」
「朝から剣を振ったから」
『リィナノ昼食予定量、同年代推定ノ三・一倍デスにゃ』
「今日は踏み込みを百回やったの」
『消費量トノ照合ハ未実施デスにゃ』
「食べ終わってから測ってね!」
『順序ガ逆デスにゃ』
リィナは笑いながら、自分の布包みを机の端へ置いた。レイルの紙へ油がつかないよう、下へ木皿まで敷いている。食べる量は多いが、食事も道具も雑には扱わない。レイルは子供心ながらに、美しいという感情をわずかに抱いていた。その美しいが、はっきりと自分で自覚できるようになるのは、まだ少し先の話である。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
レイルは練習帳の表側を傷つけないよう、頁の裏へ【種火】の記録を書き始めた。
ところが、火球術式の余白にある一行が目へ入る。
【想定使用場所:屋内訓練室】
羽根ペンが止まった。
屋内。
火球。
壁材は何か。
天井高は。
換気は。
見学者は。
術者が転倒した場合、形成中の火球はどこへ向くのか。
気づけば、余白へ細かな文字を書き込んでいた。
【室内使用時の消火方法が未記載】
【煙の排出経路を確保すること】
【第三者が射線へ入った場合の中止条件が必要】
【術者転倒時、形成位置を床面より上へ固定】
【退路は最低二方向】
【水属性術者または砂箱を配置】
余白は一頁で足りず、次の頁の端まで続いた。
二つ目の黒パンを食べ終えたリィナが、背後から覗き込む。
「人のノートまで避難計画にするの?」
「火球を屋内で使うなら必要だ」
「これを書いた人、怒らないかなあ?」
「内容に誤りがあれば、訂正してほしい」
「そうじゃなくて。勝手に書かれたことへ怒るかも」
レイルの羽根ペンが止まった。
安全を重んじると言いながら、帳面の使用許可はエルシアにしか確認していない。
元の使用者がどう感じるかまでは、考えていなかった。
「……返送時に、無断使用への謝罪を添えておこう」
「そこまで書いたら、また余白がなくなるよ」
「別紙を使います」
「紙代を節約する話、どこ行ったの?」
エルシアは練習帳を取り上げ、余白を読んだ。
数秒の沈黙の後、口元が楽しそうに歪む。
「よし。このまま返そう」
「返すんですか?」
「添削結果と一緒にね」
「僕の書き込みだと伝えますか?」
「名前は伏せる」
「相手の年齢と立場は?」
「伏せる」
「返答が来る可能性は?」
「さあねえ......」
エルシアは練習帳を通信封筒へ入れた。
ニアが封筒を見下ろし、尾を左右へ揺らす。
『余白使用率、九十二パーセントデスにゃ』
「まだ八パーセントあります」
『追記ハ非推奨デスにゃ』
数日後。
練習帳は再び、作業小屋の机へ置かれた。
レイルが開くと、自分の黒いインクの下へ、赤いインクで整った文字が加えられていた。
【術式の目的は火球の発動です。逃走経路の設計ではありません】
レイルは三度読み返した。
腹が立つより先に、相手が自分の書き込みを読んだことへ、妙な安堵を覚える。
無断で余白を埋めた以上、返事がなくても仕方がないと思っていた。
赤い文字は厳しい。
だが、無視ではない。
「……逃走ではなく、撤退です」
「そこ?」
リィナは三つ目の黒パンを食べながら、呆れた顔をした。
「それに、消火方法が未記載である事実への回答がありません」
「怒ってるの?」
「論点を整理しています」
「怒ってる顔だよ。わたしにはわかるもん」
エルシアは口を挟まず、甘い菓子を一つ齧った。
赤い文字は続いている。
【煙は換気術式で処理します】
【第三者が射線へ入るのは訓練管理者の責任です】
【術者転倒を前提にすれば形成精度が落ちます】
【余白を使いすぎです】
最後の一文だけ、僅かに筆圧が強い。
レイルは新しい羽根ペンを取り出した。
「返事を書くの?」
「誤解があります」
「どっちに?」
「相手にです」
レイルは赤い文字の下へ、できる限り小さく書き始めた。
【換気術式が失敗した場合の手順がありません】
【管理者の責任でも、火傷するのは第三者です】
【転倒を想定しても精度を落とさない訓練が必要です】
【発動後に生き残るところまでが魔法です】
残った余白は、あと指一本ぶんしかない。
『余白残量、危険域デスにゃ』
「危険ではありません」
『文字判読性ノ低下ヲ確認シマシタにゃ』
「次からは文字を一割小さくします」
『改善方向ガ不適切デスにゃ』
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
同じ頃。
エルデ村から遠く離れた石造りの屋敷で、一人の少女が返送された練習帳を開いていた。
淡い金髪を肩の後ろへ流し、机上の魔導灯を一定の明るさへ調整してから、黒い書き込みを一行ずつ読む。
整えていた余白が、見知らぬ誰かの細かな文字で埋め尽くされている。
少女は眉を寄せた。
けれど、破り捨てはしなかった。
「発動後に生き残るところまで……」
小さく読み上げ、赤いインクの蓋を開ける。
名前も顔も知らない誰かとの最初の議論は、紙の端から始まった。
匿名の少女は、まだレイルの名前も顔も知りません。
レイルも相手の立場を知らず、先に筆跡と思考だけを知っていきます。
次回、余白を巡る筆談が、互いの弱点を突く論争へ変わります。




