第21話「昨日より一回だけ多く」
限界まで頑張った一日より、翌日も戻ってこられる一回を積み上げます。
記録するのは成功回数だけではありません。
休むべき日を休んで終えることも、修行の一部です。
レイルの訓練記録の最初の頁には、十二個の項目が並んでいた。
【起床時体温】
【安静時脈拍】
【指先の痛み】
【腕の痺れ】
【魔力使用回数】
【最終発動時の精度】
【訓練終了時体温】
【回復までの時間】
【食事量】
【睡眠時間】
【異常の有無】
【本人申告と観測結果の差】
「最後の項目は、僕を信用していないという意味ですか?」
「信用と確認は別だろ。お前がいつも言ってることじゃないかえ」
エルシアは記録帳を机へ置いた。
レイルの横では、黒銀の猫型ニアが前脚を揃えている。環状の尾には、本日の予定回数が表示されていた。
『本日ノ【種火】予定回数:六回デスにゃ』
「昨日は五回でした」
「だから今日は六回だ」エルシアが言う。
「昨日の回復時間を考えれば、七回でも問題ありません」
『追加一回ノ安全性ハ未確認デスにゃ』
「一回と二回の差は小さい」
「毎日その理屈で増やしたら、十日後には十回多いよ、バカ弟子め」
エルシアはレイルの額を杖の先で押し戻した。
扉が開き、温かい布を持ったエナが入ってくる。その後ろから、木剣を腰へ差したリィナも顔を出した。片手には焼いた芋が二つある。
「朝食は食べたはずでは?」
「剣を振ったらまた減ったんだもん!」
「胃の中の食物が剣術で直接消失するとは――」
『リィナノ朝食摂取量、同年代推定ノ二・四倍デスにゃ』
「え? こんなの普通だよ」
『比較対象ノ再設定ヲ要求シマスにゃ』
リィナは一つ目の芋を食べ終え、二つ目を半分に割った。
「レイルも食べる?」
「訓練直前の追加摂取は、体調観測へ影響する可能性がある」
「じゃあ私が食べちゃうねー」
返答を待つより早く、自分の分へ戻す。人の食べ物を奪うことはないが、余った食事を無駄にする気もないらしい。リィナは昔から思うがよく食べる。レイルはあまり食が太いほうではないので、リィナの食べっぷりを見ては、うらやましいと思っていた。
エナは苦笑しながら、レイルの指先へ温かい布を巻いた。
「決めた訓練を終えることと、勝手に増やすことは違います」
「母さん、早く上達すれば、周囲へ迷惑をかける期間を減らせるでしょ」
「無理をして倒れたら、看病する人、止められなかった先生、心配するリィナちゃんへ迷惑ごとを増やします」
「私も入ってるの?」
「もちろん。入っていますよ」
リィナが木剣の柄へ手を置いた。
「じゃあ、勝手に増やしたら木剣ね」
「訓練による痛みと打撃による痛みが混ざっちゃうんですが」
「訓練が終わった後にしよっか」
「問題が先延ばしになっただけでは??」
夕方、仕事を終えたバルドも条件を加えた。
「痛みや熱を一度でも隠したら、三日間訓練禁止だ」
「三日は長すぎますよ、父さん」
「隠さなければいいだけだ」
「微細な違和感を異常として申告する基準が必要です」
「迷ったら書け」
「訓練禁止の最終判断は誰が?」
「先生と母さんだ。俺は、お前が言い逃れを始めた時に扉を閉める役だ」
「父さんは僕の側では?」
バルドは太い指で、記録帳の端を押さえた。
「お前を守る側だ。お前の無茶へ味方する側じゃない」
条件は決まった。
魔力を完全に使い切らない。
異常が出た時点で終了する。
異常があった翌日は回数を増やさない。
異常がなければ、一回だけ増やす。
痛みや発熱を隠せば、三日間禁止。
レイルには、あまりに遅い進み方に思えた。前世の彼は、始める時だけは勢いがあった。
筋力訓練なら初日に限界まで。
勉強なら参考書を五冊。
小説なら本編を書く前に設定資料を何万字も。
そして三日後には、痛み、疲労、別の予定、もっと良い方法を理由に止めた。
一日目、【種火】を六回。
二日目、七回。
三日目、指先へ軽い痛み。増加なし。六回で終了。
四日目、休養。
レイルは休養欄へ丸をつける手を、しばらく止めていた。
「何もしていない日に、完了の印をつけるのは不正確では?」
「休むと決めて、余計な訓練をしなかった」とエナが言った。「今日やるべきことは終わっています」
五日目、六回。
そして――七日目。
レイルは同じ時刻に小屋へ入り、同じ順序で体温を測り、同じ蝋燭の前へ立った。
『六回目、結着ヲ確認。対象誤差、一指幅以内デスにゃ』
「昨日より誤差が増えているなぁ」
「今日は窓が開いてるからね」
「閉めれば同じ条件へ戻せます」
「風がある日にも火は使う。条件を消すだけが訓練じゃないよ」
エルシアは窓を閉じなかった。
十日目。
火はまだ小さく、不安定に揺れた。
詠唱を急げば始動が乱れ、視線が外れれば形成位置がずれ、結着の瞬間に息を吐けば芯の横を焦がした。
それでも、決めた回数だけは終えた。
十二日目の夕方、リィナは剣術訓練の後で、エナの煮込みを三杯食べた。パンも四つ消えた。
『リィナノ訓練後摂取量、成人推定ノ一・八倍デスにゃ』
「今日は走り込みもしたから、余計おなかすいちゃった!」
『説明トシテ成立シテイル可能性ヲ保留シマスにゃ』
「ニアも食べる?」
『物理的摂取機能ハ存在シマセンにゃ』
「あーあ残念。おいしいのに」
そう言いながら食べるリィナは、翌朝にはまた木剣を振っている。
食べて、休んで、次の日に動く。
それはレイルが記録帳へ書いていることを、身体で当然のように繰り返していた。
十三日目の朝。
レイルの体温は、平常より僅かに高かった。
「誤差の範囲です」
『直近十二日間ノ平常値カラ逸脱。訓練中止ヲ推奨シマスにゃ』
「本人は動けると申告しています」
『本人申告ト観測結果ノ差、拡大中デスにゃ』
「僕の身体です」
「だから、お前の感覚だけで決めないために記録してるんだよ」
エルシアはその日の欄へ、迷わず【休養】と書いた。
レイルは一日ぶん遅れる感覚に耐えられなかった。だが、翌朝には体温が戻り、十五日目の火は休む前より安定した。
休養は、訓練を止める穴ではない。次の一回へ戻るための工程だった。
二十日目。
訓練を終えたレイルは家へ戻り、夕食の後に自作小説を開いた。
勇者は森を越え、古い橋の前へ立っている。
橋の向こうには新しい町がある。前世なら、町の歴史、住民の職業、貨幣制度、建築様式を調べるため、別の紙を広げていただろう。
今夜は、一頁だけ書く。
勇者が橋へ足を乗せ、向こう岸へ辿り着くまで。
橋の構造を調べ直した方がよいかもしれない。
もっと印象的な台詞を思いつくかもしれない。
けれど、今日終えると決めた一頁を、今日終える。
最後の行を書き、インクを乾かす。
翌朝、作業小屋の記録帳には二十日ぶんの印が並んでいた。
火球を撃てるようになったわけではない。
魔力量が目に見えて増えたわけでもない。
それでもエナは、夕食の皿を運ぶレイルの手が以前より震えなくなったことに気づいた。
バルドは、訓練後にも道具を片づける余力を残していることを見ていた。
リィナは、失敗した翌日に別の課題へ逃げず、同じ蝋燭の前へ戻ることを知っていた。
成長は、本人より先に、毎日そばにいる者たちの目へ映っていた。
「この継続回数は、同年代の平均より多いですか?」
レイルが尋ねると、エルシアは甘い焼き菓子を齧りながら肩をすくめた。
「他人の平均で、敵が手加減してくれるのかい?」
「比較指標として必要です」
「昨日のお前より一回だけ多い。それで十分だ。人と比べなくていい」
ニアの尾へ、本日の予定が表示される。
『本日ノ予定:昨日ヨリ一回デスにゃ』
レイルは右手を上げた。
昨日までの二十日を、一度に取り戻す魔法はない。
だから今日も、一回だけ増やした。
今回の成果:七日、十日、二十日と、同じ基礎へ戻り続けた。
リィナの食事量は多いですが、動いた分をきちんと補給しています。
次回、火を出した後の責任まで含めて「一回」と数えます。




