第20話「七つの環、六つの入口」
閉じない六つの環は、六つの才能を保証するものではありません。
見える入口と、今くぐれる入口は別物です。
新しい相棒の猫らしさを否定する声とともに、最初の基礎課題が始まります。
レイルの左手首で、【万式魔導環】が低く震えた。
銀黒色の腕輪から細い光がほどけ、作業小屋の中央へ六つの術式環が浮かび上がる。
赤橙の【熱】。
青の【流動】。
淡緑の【風圧】。
黄褐色の【地質】。
白金の【光】。
薄翠の【生命】。
ただし、腕輪に刻まれた環は本来七つある。
残る一つだけは光となって離れず、色を持たない輪郭のまま腕輪の中央へ残っていた。六つの術式環を内側から束ねるように、ゆっくりと明滅している。
「一つ、残っています」
レイルが腕輪を持ち上げると、ニアの尾に新しい表示が灯った。
『第七環ハ中枢環デスにゃ。属性術式デハアリマセン』
「何のための環なんだ?」
『使用者認証、術式照合、記録管理ヲ担当シマスにゃ』
六つの入口を開くための鍵であり、それらを混線させないための仕切りでもあるらしい。だが、その環自体に対応する魔法名は表示されなかった。
どの環も最後の一部だけが閉じていない。
環の内側では、細い術式文字が川のように流れていた。だが、レイルが読み取れるのは最初の数行だけだ。その先は黒い欠落へ沈み、閉じない部分へ吸い込まれて消えていく。
『第一階梯候補。六基礎現象ヲ表示シマシタにゃ』
机の端に座った黒銀の猫が、環状の尾をぴんと立てた。
昨日、リィナが仮入力用の術式紙へ描いた猫の落書きを元に現れた、オムニアの疑似案内人格――ニアである。
「やっぱり猫だよね」
リィナが言うと、ニアは前脚を揃えたまま顔だけを向けた。
『猫デハアリマセン。操作補助形態デスにゃ』
「尻尾まであるのに?」
『術式状態ノ可視化機構デスにゃ』
「耳も動いたよ」
『周辺音声ノ取得部位デスにゃ』
「私の絵、上手だったからね!ふふん」
『――形態決定ニ対スル寄与率ハ、否定シマセンにゃ』
わずかな間を置いて認めたあたり、完全な無感情でもないらしい。
六つの環の下へ、小さな表示が並ぶ。
【熱――種火】
【流動――水滴】
【風圧――微風】
【地質――硬土】
【光――灯光】
【生命――活性】
さらに奥には、無数の術名らしき影が折り重なっていた。レイルが目を凝らすと、文字は形を結ぶ前に崩れ、黒い欠落へ戻っていく。
『未解放領域。閲覧権限ナシデスにゃ』
「権限を上げる条件は?」
『習得、理解、使用者認証、適合判定ガ必要デスにゃ』
「必要な順番は?」
『現時点デハ指定不能デスにゃ』
「指定不能なら、効率の良い学習順序を判断できません」
『判断ハ使用者ノ担当デスにゃ』
「案内役なのに?」
『選択肢ヲ表示スルダケデス。決定ハ代行シマセンにゃ』
エルシアが椅子の背にもたれ、面白そうに鼻を鳴らした。
「良かったねえ。道具にまで長話を切られてるよ、バカ弟子」
「質問へ回答を求めているだけです」
「回答は出てる。自分で決めろ、だ」
レイルは六つの環を見上げた。
「これは、僕に六属性すべての適性があるという意味ですか?」
「違う」
エルシアの返答は、火花より早かった。
「ですが、オムニアは僕を観測して表示しています」
「オムニアが知っている六つの入口を見せただけだよ。入口が見えること、鍵を持っていること、扉を開けられること、その先で迷わず歩けること――全部別だ」
ニアの尾に文字が灯る。
『習得判定:未成立』
『適合判定:保留』
『使用可能術式:【種火】』
『安定性:低』
「最後の表示は、一度の失敗を過大評価しています」
『前髪ノ焦損ヲ確認済ミデスにゃ』
リィナが口元を押さえた。
もう片方の手には、エナから渡された丸パンがある。朝の剣術訓練を終えたばかりなのに、それは二個目だった。
「低いで合ってるよ。右じゃなくて自分の前髪へ火をつけたんだから」
「対象指定の誤差は認める。ただし、次回も同じとは――」
『同一条件デノ再現確認ヲ推奨シマスにゃ』
「君はどちらの補助役なんだ」
『事実ノ補助役デスにゃ』
エルシアは笑いながら、淡緑の環へ指を差し入れた。
閉じ切らない環が一瞬だけ明るくなり、小屋の空気が静かに流れ始める。床の埃だけが細い渦へ巻き上がり、机上の紙へ一枚も触れず、開いた窓から外へ抜けていった。
「私の得意は風と空間だ。風なら、目を閉じてもこのくらいはできる」
次に赤橙の環へ触れる。 机の上の石が、ゆっくり温まった。
けれど、右半分は湯気が立ちそうなほど熱く、左半分は冷たいままだった。
「熱は基礎なら扱える。専門の火術師には及ばない。生命は魔力経路の炎症を診る程度。治療師へ張り合えば、患者が迷惑する」
レイルは、温度の分かれた石を見つめた。
詠唱せず火を灯し、風を操り、空間さえ縫えるエルシアは、幼い彼から見れば何でもできる大魔法使いだった。
その本人が、自分にはできないことが山ほどあると言う。
リィナは最後の丸パンを飲み込み、六つの環を見比べた。
「私は風がいいなあ。走る時、背中を押してくれそう」
「向かい風になれば転倒する。横風なら軸がずれる。足場が濡れていた場合、加速で――」
「使えるようになってから考えようよ」
「使えるようになった瞬間に事故が起きる可能性があるだろ」
「じゃあ、その時は私が転ばないように走るし」
「解決になっていない」
「前へ進めば、転び方も分かるってことだよ!」
リィナは空になった布袋を畳み、勝手に人の分へ手を伸ばすことなく自分の鞄へしまった。
勢い任せに見えて、彼女は自分の身体と剣の届く範囲をよく知っている。
レイルは六つの環へ視線を戻した。
「――ところで、先生にも、覚えられない魔法があるんですか?」
「覚えられないものも、覚える価値が薄いものも、覚える時間がないものもある」
「時間をかければ、人並みには――」
「一生は有限だ。得意を深く掘る時間と、苦手を人並みにする時間は、同じ財布から出ちまうからね」
エルシアは温まった石を指先で転がした。
「その顔――、全部できなきゃ失敗だと思ってる顔だね」
レイルは否定しかけ、口を閉じた。
前世では、小説を書くなら設定、文章、構成、宣伝、読者の反応まで、全部そろわなければならないと思っていた。足りないものを見つけるたび新しい資料を開き、新しい設定を足し、今書いている一話を終わらせなかった。
「一つ選ぶなら、どれが最適ですか?」
「お前が決めな」
「安全性では地質か流動。退路確保には風圧。照明を考えれば光。負傷へ備えるなら生命。ただし生命魔法へ素人が手を出した場合――」
「今、使えるのは?」
「【種火】だけです」
「なら、まずは【種火】を安定させな」
答えは簡単だった。
簡単すぎるから、レイルは別の課題を増やしたくなる。
「分かりました。まず【種火】を十回、同じ位置へ安定して灯します」
「よし」
「その前に、六系統すべての安全対策表を作ります」
「なぜだい」
「一つ目の習得中に、別系統の事故が発生しない保証はありません」
「使わない系統の事故は起きないよ」
「オムニアの誤作動で――」
『未知術式ノ自動発動機能ハ存在シマセンにゃ』
「外部魔力の干渉で――」
「ここは村外れの小屋だよ」
「落雷が術式環へ接触した場合――」
エルシアの杖が伸び、レイルの手から紙束を器用に奪った。
すでに六枚すべてへ表題がある。
【熱系統・延焼事故対策】
【流動系統・溺水事故対策】
【風圧系統・飛散物事故対策】
【地質系統・崩落事故対策】
【光系統・視覚障害対策】
【生命系統・誤治療事故対策】
「一つ目を終わらせる前に、六つ目の事故まで心配してんじゃないよ」
エルシアは紙束を机の引き出しへ押し込み、鍵をかけた。
「没収ですか?」
「封印だよ」
「保管期限は?」
「【種火】を十回、同じ位置へ灯せるまで」
「湿気で紙が劣化する可能性は?」
「その時は燃やす」
レイルは黙った。
ニアが鍵のかかった引き出しを見つめ、尾を一度揺らす。
『第一課題ヘノ集中ヲ推奨シマスにゃ』
「君まで先生側ですか」
『製作者権限ヲ優先シマスにゃ』
「そこは事実の補助役では?」
『両立可能デスにゃ』
リィナが蝋燭を立て直し、木剣の切っ先で床へ一本の線を引いた。
「ここから動かない。狙うのは芯だけ。十回終わったら、今日は終わり。途中で別の練習を足さない。これでいい?」
レイルは床の線を見つめた。六つの入口は消えていない。
今は開けられないだけで、いつか学べる可能性は残っている。
だが、可能性を全部抱え込むことと、一つ目へ足を踏み入れることは違う。
「……始める」
右手を上げる。六つの未来ではなく、目の前にある一本の蝋燭へ向けて。
今回の課題:見えている可能性を、一度に全部背負わない。
ニアは猫ではなく「操作補助形態」だと主張しています。
次回、前世では三日で止まった習慣を、一日ずつ積み上げます。




