第19話「万能なのに何もしてくれない腕輪が猫っぽい」
エルシアの未完成品【万式魔導環】と、
黒銀の猫型案内役ニアが登場します。
基礎修行を続けた数日後、エルシアは作業小屋の机へ細長い木箱を置いた。
箱には錠前が三つ、封印紐が二重、蓋の中央には見慣れない環状文字が刻まれている。レイルが距離を取って観察していると、エルシアは鍵も呪文も使わず、箱の横を拳で軽く叩いた。
かちり、と全部の錠が外れた。
「今の解除方法は安全なんですか?」
「製作者しか知らない場所を叩いた」
「第三者が偶然叩く可能性は?」
「お前は道具を見る前から面倒に考えるねえ」
エルシアが蓋を開ける。
内側には銀黒色の腕輪と、何枚かの薄い術式紙が収められていた。
金属とも石ともつかない腕輪の表面には、七つの環が刻まれている。どの環も最後の一線だけが欠け、閉じ切っていない。光を当てる角度によって、欠けた箇所がゆっくり移動しているように見えた。
「それで先生。これ、なんなんです?」
「正式名は【万式魔導環】。既知の魔法体系へ接続し、術式の構造、魔力配分、失敗箇所を表示する演算器だ」
「万式――」
「バカ弟子。顔が期待で膨らんで気持ち悪いよ」
「これを着ければ、全部の魔法が使えるんですか?」
「使えるわけないじゃろ」
即答だった。
「万能では?」
「万能なのは入口の数だ。お前の頭と腕まで万能になるわけじゃない」
エルシアは腕輪を持ち上げ、レイルの右腕へ近づけた。
「解析用の貸与だ。所有権は私。分解禁止、改造禁止、勝手な契約禁止、【未完】を使った実験は当然禁止じゃ」
「構造確認のための外観観察は?」
「許可」
「重量測定は?」
「許可」
「水濡れ試験は?」
「却下」
「耐火――」
「却下」
二人が話している横で、リィナは退屈そうに頬杖をついていた。
机に置かれた術式紙の一枚を引き寄せ、そばにあった炭筆を手に取る。紙の中央には、円と線だけで作られた人型らしき記号が描かれていた。
【外部案内形態・仮入力枠】
当然、リィナには読めない。
「触るんじゃないよ」
エルシアが言った時には、すでに遅かった。
リィナは円へ三角形の耳を二つ足し、左右に髭を引き、身体から長い尻尾を伸ばしていた。尻尾の先はオムニアの刻印を真似たのか、一周する直前で閉じずに途切れている。
「猫」
「見れば分かるよ。なんで私の術式紙へ描いた」
「何も書いてないところだったから」
「書いてある。お前に読めないだけだ」
「じゃあ消す?」
「待ちな。下手に擦るんじゃない。入力層が――」
その瞬間、腕輪がレイルの手首へ触れた。
冷たい感触の直後、七つの刻印が淡く光る。銀黒の輪が手首から数センチ浮かび、薄い文字列が空中へ展開した。
【仮観測対象:レイル・アルヴァート】
【使用者登録:未実行】
【術式領域:閲覧制限】
【外部案内形態:未設定】
【近傍簡易図形ヲ検出】
【暫定参照ヲ開始】
「文字が浮いてる……」
リィナが横から覗き込んだ。
腕輪の環の一つがほどけるように光へ変わり、細い光線が術式紙の落書きをなぞった。
「……おい」
エルシアの片眉が上がる。
【簡易図形参照:完了】
【観測補助形態ヲ暫定生成】
光は机の上へ落ち、四本の脚と丸い胴体を作った。三角形の耳が立ち、長い尾が閉じ切らない環を描く。
黒銀色の猫だった。
ただし、完全にリィナの絵と同じではない。
身体は半透明で、毛並みの代わりに細い術式線が流れている。左右で少し大きさの違った耳は均等に整えられ、曲がっていた髭も対称になっていた。尾の先だけは、落書きの形を残したまま閉じていない。
猫は琥珀色の光点を目として開き、レイルを見上げた。
『観測補助形態、起動』
「しゃべった!」
リィナが目を輝かせる。猫は彼女へ顔を向けた。
『外形参照元ヲ確認。登録外接触者デス』
「私の猫ちゃんだ!」
『猫デハアリマセン。操作補助形態デス』
「でも私が描いた猫でしょ?」
『参照比率、六十三パーセント。形態分類名ハ未登録デス』
「じゃあ猫でいいでしょ」
『分類名、暫定登録――猫』
エルシアが頭を抱えた。
「勝手に登録するんじゃないよ」
『近傍音声命令ヲ参照シマシタ』
「今のは命令じゃない」
『訂正。近傍音声提案ヲ採用シマシタ』
「これ、元に戻せるんですか?」
レイルが尋ねる。
「戻せる。ただし今は仮観測の最中だ。案内形態の初期化までやると、測定記録も巻き込むかもしれない」
「記録破損率は?」
『現段階デハ算出不能デス』
「なら触らない方が安全ですね」
「お前はこういう時だけ判断が速いねえ」
猫型の案内表示が、自分の前脚を見下ろした。
『現在形態ノ運用ニ、重大ナ支障ハ確認サレマセン』
「ほら。猫でいいって」
リィナがない胸を張る。
「こら、お前が言うことじゃないよ」
猫の喉のあたりから、かすかな振動音が鳴った。
リィナが顔を近づける。
「喉、鳴ってる!かわいい」
『内部演算音デス』
「撫でてもいい?」
『接触判定ハ存在シマセン』
「いいってこと?」
『推奨モ禁止モシマセン』
リィナの手は半透明の頭をすり抜けた。
それでも猫は、撫でられた軌道に合わせるように僅かに目を細めた。
「今、気持ちよさそうな顔した。やっぱ猫だ」
『表示誤差デス』
エルシアが八重歯を見せて笑った。
「呼び名はニア。オムニアの表示と診断を、使用者へ伝えるための疑似精霊型案内だ。本来は光球か簡易人型にする予定だったんだが――誰かさんの落書きを拾っちまったね。まったく――」
「猫の方がかわいいよ」
「術式は可愛さで選ぶもんじゃない」
『視認性ノ向上ハ、運用効率ニ寄与シマス』
「もう庇うのかい まったく」
『事実ヲ報告シマシタ』
レイルは猫型のニアを見つめた。
「魂があるんですか?」
「そこまでは言ってない。蓄積した記録から、理解しやすい言葉と動きを選んでいるだけだ。勝手に魔法を使ったり、持ち主の代わりに決断したりもしないし、できない」
「何ができます?」
『術式構造表示。魔力配分計算。失敗箇所診断。危険照合』
「僕の代わりに術式を組めますか?」
『理解ト判断ノ代行ハ不可能デス』
「詠唱補助は?」
『既知ノ誤差ヲ指摘可能。未知ノ知識ハ生成不能デス』
レイルは少し考えた。
「役には立つが、僕の仕事を奪ってはくれない」
『概ネ正確デス』
「では試しに、火を」
指先へ魔力を集める。詠唱も形成もせず、腕輪へ意識を向ければ何かが出るのではないか――ほんの少しだけ、そう期待した。
空中へ冷たい文字が浮かぶ。
【術式構造なし】
【属性指定なし】
【対象指定なし】
【発動不能】
ニアが無感情に告げた。
『理解度不足。発動不能デス』
エルシアは呆れたように杖を振り、蝋燭を一本立てた。
「道具が何を見てるか、今度は正しい手順で確かめる。いつもの【種火】をやりな」
レイルが始動句を唱えると、赤い細線が胸元から腕へ表示された。形成句では線が指先へ集まり、蝋燭の芯の横へ小さな円が浮かぶ。
【魔力配分:許容範囲】
【形成中心:対象ヨリ右ヘ二指幅】
【結着前警告:対象指定誤差】
レイルは表示に従って指先を僅かに戻し、火を灯した。今度は芯の中央だった。
「すごい。間違える前に教えてくれる」
「教えたのは位置のずれだ。なぜずれたか、どう直すか、火を出すか止めるかはお前が決めた」
ニアが前脚で自分の顔を洗うような動きをした。
『判断代行ハ実行シテイマセン』
「……万能では?」
「何でも使える道具じゃない。”何でも学べる入口”だと言っただろ」
エルシアは腕を組んだ。
「地図を持っただけで、行ったことのない山を歩けると思うかい?」
「地図に危険地点が正確に記載されていれば――」
「まず山の入口に立ちな」
リィナが興味深そうに腕輪へ指を伸ばした。触れた瞬間、表示が切り替わる。
【登録外使用者】
【観測権限なし】
「私には使えないんだ」
レイルは七つの環を見つめ、少しだけ胸を張った。
「僕だけを選んだ可能性が――」
「私が今、仮の観測対象へ設定しただけ」
エルシアが即座に夢を壊した。
「選定理由は?」
「お前を調べるため」
「適合の兆候は?」
「まだ測ってない」
「特別な反応では?」
「貸与品だよ」
ニアが尾の環を揺らした。
『所有者:エルシア・ヴァント。仮観測対象:レイル・アルヴァート。外形参照元:リィナ・アルセイル』
【旧所有者情報:照合完了】
【所有者:エルシア・ヴァント】
【公的資格:大陸継路組合・Aランク特任術師】
【風圧魔法:聖級】
【空間魔法:聖級】
【生命魔法:上級】
【無詠唱認定:完全】
「完全……?」
レイルが表示を読み上げる。
「昔の記録だよ。今は腰と膝が聖級に痛い」
「魔法の等級と関節痛を同列にしないでください」
リィナがにやりと笑う。
「選ばれし魔法使いじゃなくて、調べられし魔法使いだね」
「意味は大きく違わない」
「全然違うよ」
エルシアは箱を閉じ、空になった場所を指で叩いた。
「今日から訓練中だけ着ける。終わったら私へ返す。壊した場合は――」
「弁償額を先に確認したいです」
「王都に家を三軒建てても足りないね」
レイルの顔から血の気が引いた。
「今すぐ返します」
「使いな」
「破損危険が――」
「使用しない道具は飾りだ。飾るために作ったんじゃない」
黒銀の猫が机の上へ座り、前脚を揃えた。
『訓練開始ヲ推奨シマス』
「ニアもそう言ってるよ」
リィナが嬉しそうに笑う。
「君の落書きが原因だろう」
「かわいくなったんだから、感謝してよ」
「耳の左右差が修正されている」
「そこを指摘する必要ある!?」
訓練の終了と同時に、猫の輪郭は細かな光へほどけ始めた。
「消えちゃうの?」
リィナが手を伸ばす。
『暫定投影ノ維持限界デス』
尾の先が最後まで残り、閉じ切らない環を一度だけ揺らした。
『次回起動時、同一形態ノ再現ヲ試行シマス』
光が消える。机の上には、リィナが描いた不格好な猫だけが残っていた。
万能なのに、魔法一つ代わりに出してくれない。
壊せば家三軒では足りず、使わなければ師匠に叩かれる。
そのうえ案内役の姿は、幼なじみの落書きで決まった。
レイルはその日、自分の人生で二番目に厄介な未完成品と出会った。
一番目は、おそらく自分自身だった。
【万式魔導環】は、この段階では解析用の貸与品です。
ニアの黒銀猫型は、リィナが仮入力用の術式紙へ描いた落書きを、オムニアが案内形態として暫定参照した結果です。
まだ長時間の投影はできず、術式の表示と診断だけで、理解や発動を代行しません。
次回、閉じない六つの入口が表示されます。




