第180話「同じ報告書の続き」
同じ事件を別の場所から見た記録は、内容が食い違うことがあります。
違いを消すより、二冊を並べた時にだけ見える道を残す方が、後から来た誰かを助けます。
満潮異常が解けた翌朝、港町には七日ぶりの競り声が戻っていた。
東の漁港では小舟が網を積み、中央港では荷役人が濡れた木箱を数え直している。西の深港に留め置かれていた大型交易船は、船底の点検を終えるまで出航できないものの、傾いた船体はすでに正位置へ戻されていた。
レイルは組合会館二階の記録室で、潮流柱の改修帳を読み返していた。
右手には薄い痺れが残っている。ミレアからは午前中の魔法使用を禁じられ、七環導杖も壁際へ預けさせられた。代わりに持たされたのは、白湯と塩気の薄い魚粥だった。
(四件目へ入った瞬間、三件目までの境界が消えた。解除順が決まっていなければ、どの柱を返したかも分からなかった。成功と呼ぶには、仲間の手を借りすぎている)
そう考えたところで、自分の中に古い癖が戻っていると気づく。
仲間の手が多いことを、成功ではない理由へ使おうとしている。
「また、自分一人でできなかった点を減点していますねあなたは」
向かいでセレネが言った。
淡金色の髪を片側へ流し、細い眼鏡の奥からレイルの記録紙を見ている。机の上には潮流柱の図面と、彼女が書いた四件保持の観測値が並んでいた。
「声に出していないが」
「書き方で分かります。『セレネの代替入力がなければ不成立』『フィアの番号指示がなければ解除不能』『ニアの色分けがなければ識別不能』。それは失敗理由ではなく、成立条件です」
「条件が多すぎる技術は、旅先で再現できないだろう?」
「減らすために記録しています。最初から一人で再現できる形だけを成功と呼ぶなら、調査隊で訓練する意味がありませんよ」
セレネは一枚の紙を裏返し、昨日の時系列を指でたどった。
「貴方が四件目を保持した時間は五・二秒。私は東柱へ一・一秒、北柱へ一・三秒、中央柱へ一・二秒、西柱へ一・六秒で代替条件を入れました。次は入力時間を縮めます。フィアは解除番号を色と位置の両方へ割り振る。ニアは潮音と鐘音が重ならない表示へ変える。貴方だけが改善対象ではありません」
「セレネも、昨日は途中で止めると言えたはずだ」
「言いました。貴方が条件を説明し、私が実行可能と判断しました」
「判断が俺に近すぎないか」
「近いから止められないと言いたいのですか?」
青紫色の瞳が、眼鏡越しに真っ直ぐ向く。
「私は貴方の意見を肯定するために隣へいるのではありません。貴方と同じ情報を見て、違う結論を出せる場所へいたいのです。昨日は実行を選びました。次に同じ条件が来ても同じように選ぶとは限りません」
声は静かだが、一文ごとに感情があった。
レイルは魚粥の匙を置く。
「分かった。成立条件として書き直す」
「まだ、もう一つ」
「まだあるのか?」
「リィナに運ばれたことを、一行も書いていません」
「術式の成立条件ではない」
「終了後の安全条件です」
「……追記する」
「具体的には?」
「保持終了後、歩行感覚に混線がある場合、独りでの歩行禁止。同行者の肩を借りる」
「誰の肩でも?」
問い方が少しだけ変わった。
レイルが顔を上げると、セレネは図面へ視線を落としている。
「その時に近い者の肩だ」
「合理的ですね」
「何か不満があるように聞こえる」
「記録上はありませんよ」
彼女は筆を取ったが、耳元の淡金色の髪が僅かに揺れた。
そこへ、階下からフィアの声が届いた。
「レイル、セレネ。過去記録に一致候補があります」
記録室の中央机へ、二冊の古い報告書が置かれていた。
一冊は大陸継路組合の灰色表紙。もう一冊は旧勇者調査局の藍色表紙。作成年は五年前で、同じ日付が記されている。
灰色の報告書には、エルデ旧坑道地下で発生した【術喰穿孔虫】の討伐と、誘導術式の修復が書かれていた。提出者は幼いレイルとリィナ、監督者エルシア。
藍色の報告書には、同日同刻、坑道上部の街道へ追い出された【灰狼】の群れを分断し、旅人を避難させた記録がある。提出者欄には、ユノ・アステルとカイン・ヴェルド。
「本当に同じ事件だったんだ」
リィナが椅子へ身を寄せる。朝練後の赤栗色の髪はまだ完全に乾いておらず、首筋へ細い毛先が貼りついていた。
「地上の灰狼がいなくなったから、地下の術喰穿孔虫へ集中できた。俺たちは地上が誰かに処理されたとしか知らなかった」
レイルは灰色の報告書を開く。
「ユノたちは、灰狼が地下異常で移動したと書いている。根本原因を追う期限がなく、組合へ報告を残して王都方面へ移動した」
「五年前に会えてたら、何か変わったかな?」
「少なくとも、坑道出口で互いを探す時間は減った」
「そういう話じゃなくて」
リィナは肘で軽くレイルを押した。
「勇者候補と、帰れない勇者の記録を追う二人が、私たちのすぐ上にいたんだよ。あの頃のレイルなら、会っても全部警戒して逃げたかもしれないけど」
「否定できない。灰色の外套と喉の傷を見た時点で、追跡者の可能性を考える」
「今も考えるでしょ」
「今は話を聞く」
「少しは変わったね」
扉の外から、だるそうな声が割り込んだ。
「褒めるハードル、地面すれすれじゃん、だる......」
藍色の髪を低い位置で束ねたユノが、旅鞄を肩へ掛けたまま立っていた。濃紺の旅装へ短い白外套を重ね、片方の靴にはまだ街道の泥が付いている。隣にはカインがいて、長身を少し屈めて戸口をくぐる。暗褐色の短髪、喉を横切る古傷、使い込んだ長剣。腰の石板は、以前より角が丸くなっていた。
「あなた方、別任務へ行ったはずでは?」
セレネが問う。
「行ったよ。そしたら、追ってた白環杭の反応がこの港へ戻ってきた。マジうざ。道が一本なら迷わないと思ったのに、海沿いで三回折れてる」
カインが石板へ書く。
【二回】
「一回は寄り道」
【迷った】
「港の焼き菓子屋へ寄っただけじゃん、もう」
【反対方向】
「細かい男はモテないよ~」
カインは少し考え、石板を裏返した。
【困らない】
「はいはい、私が困る。で、その報告書、やっと同じ棚に入ったんだ」
ユノは藍色の表紙を持ち上げ、懐かしそうに紙の端を撫でた。
「当時、下に誰かいるって分かってた?」
リィナが尋ねる。
「人が入った痕跡はあった。でも救助結びを残して、私たちは別の残響を追った。時間がなかったって書けば聞こえはいいけど、正直、他の誰かが処理すると思ったんだよね。地上の人は助けたし、報告も出した。それで自分の仕事は終わりって」
「俺たちも、地上の救助者を探さなかった。坑道の修理と報告で終わった」
レイルが答える。
「だから同点?」
「勝負ではない。双方の報告を綴じた組合職員が、同一事件だと確認するまで五年かかった。記録番号も別だった」
「そういう真面目な返し、嫌いじゃないけどさ」
ユノは椅子へ逆向きに座り、背もたれへ腕を乗せた。
「私たち、同じ場所を何回もすれ違ってた。旧勇者塔、坑道、転送記録、学院地下。で、やっと会ったら、そっちは本を十万部も売って、剣豪になって、聖級まで片足入れてる。成長速度が陽キャの予定表なんよ。こっちは帰還ゲートのハズレを引き続けてるっていうのにさ。マヂ、死にたぃ......」
現代日本を思わせる言い回しへ、レイルの胸がわずかに固くなる。
学校の卒業門でも、ユノはレイルが変な言葉へ反応すると指摘していた。
「ユノ。陽キャ、という言葉はどこで覚えた」
「昔いた場所。たぶんね。記憶が穴だらけだから、言葉だけ先に出ることがある!」
ユノは軽く答えたが、藍色の瞳から笑いが薄れた。
「レイルも知ってるの?」
リィナの視線が隣から向く。
逃げるなら、今までどおり偶然で押し通せる。だが、彼女はすでに何度も、レイルの前世らしい反応を見ている。
(ここで全部話せば、ユノの帰還記録へ自分の前世まで混ざる。まだ確証がない。だが、知らないふりを続けるのも、リィナへまた待たせる形になる)
「知っている。前世で使われていた言葉だ」
部屋の空気が変わった。
ユノが椅子から背を離す。セレネの筆が止まり、フィアは新しい頁を開いたが、勝手には書き始めなかった。
リィナだけは、驚きながらもレイルから目を逸らさなかった。
「前世って、前に話してくれた、別の世界の記憶?」
「ああ。ユノの故郷と同じ場所かは分からない。俺の記憶にある国では、その言葉を使っていた」
「国の名前は?」
ユノの問いが早い。
「日本......だ」
彼女の指が背もたれを強く掴んだ。
「……東京、知ってる?」
「知識としては。俺が暮らしていた場所とは別だ」
「電車。コンビニ。スマホ」
「分かる」
「夏のアスファルトが、げろげろに暑いのも?」
「分かるぞ」
ユノは笑おうとして失敗した。口元は上がったのに、目の縁へ水が浮く。
「うわ。マジか。帰れる証拠じゃないのに、単語が通じるだけでこんな来るもんかな?」
カインが石板を差し出す。
【座れ】
「座ってるし」
【息】
「してる」
返事の直後、呼吸が浅くなっていることへ本人も気づいたらしい。ユノは鼻から息を吸い、長く吐いた。
「今すぐ全部聞きたい。でも、聞いたら自分の記憶と混ぜる。レイルの日本を、私の故郷だと思いたくなる」
「俺も同じだ。共通する言葉だけで、同じ世界だと断定できない。帰還門が記憶を材料に偽物を作るなら、互いの話を先に共有しすぎるのも危険になる」
「はぁ……その慎重さ、今だけ助かる。普段はだるいけど」
「評価が極端だな」
「じゃあ、帰る道の調査をする時に、条件を決めて話そう。記憶を誘導しない順番で。フィアに質問表を作ってもらって、互いに先に答えを書いてから照合する」
「それがいい」
レイルはフィアを見る。
「記録を頼めるか」
「本人二名の同意を確認してから、質問項目を作成します。共通語彙、地名、生活用品、災害、季節、個人記憶を分離します。照合前は互いの回答を開示しません」
「助かる」
「今の会話は記録しますか」
フィアがユノへ尋ねる。
「日本って言ったところから。泣いた回数は書かないで」
「泣いたとは記録していません」
「目が潤んだもナシ」
「呼吸が乱れた事実は安全記録へ残します」
「容赦ない」
カインの石板に一語が出る。
【必要】
「カインまでそっち側?」
【最初から】
ユノが額を背もたれへ預ける。
「知ってた」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
午後、二組は港の白環杭を一緒に調べた。
ユノとカインが追ってきた反応は、潮流柱へ混入した共通化命令と一致した。杭そのものは湾底へ埋まり、引き抜けば潮流柱の基礎まで崩れる。今は封鎖印だけを追加し、炉都で必要な工具と材料を得た後に正式撤去することとなった。
作業を終えた帰り道、カインがレイルへ古い紙を差し出した。
五年前、旧坑道入口へ残した避難図の写しだった。折り目は白くなり、角には何度も自分で書き直した線がある。
「更新版を作る」
レイルが言うと、カインは首を振った。
【自分で直す】
「卒業門でも同じことを言ったな」
【道が増えた】
「間違えた線は消さないのか」
カインは一度、石板を拭いた。
【残す】
それだけ書き、避難図を外套へ戻す。
リィナは二人のやり取りを横で見ていた。港の夕風が赤栗色の髪を揺らし、彼女は剣帯へ手を置いたままレイルへ近づく。
「前世の話、今までより少しだけ近くなった?」
「ああ。ユノの記憶を守るためにも、順番を決めて話す」
「私には?」
問いは短かったが、その後ろに長い時間がある。
「隠したいわけじゃない。何を話せば、今の俺と前の俺を混ぜずに伝えられるか考えている」
「また準備?」
「そう聞こえるのは分かってる。前世を理由にして、今の返事を遅らせるつもりもない。ただ、全部を一度に渡して、リィナに整理させるのは違うと思う」
「私が決めることまで、先に難しいって決めないで」
「決めない。だから、今夜から少しずつ話す。最初は、俺が前世で何を終わらせなかったか。格好のいい話ではない」
リィナは目を伏せ、少し考えてから頷いた。
「聞く。途中で嫌になったら怒るし、分からなかったら何回でも聞く。前の誰かを好きになるためじゃなくて、今のレイルがどうして逃げるのか知りたいから」
「分かった」
「それと、返事は別だからね」
「分かっている」
「本当に分かってる顔じゃない」
「顔の判定基準を教えてくれ」
「ほら。そういうところ」
リィナは呆れながらも、歩幅をレイルへ合わせた。
少し前では、ユノがカインの石板を奪って何か書き足し、無言の剣士が取り返そうとしている。セレネとフィアは港の報告書を二冊一組で綴じ直し、アルドは炉都へ向かう街道を真剣な顔で反対方向に確認してノアから肩を引かれていた。
二つの報告書が同じ事件の続きだったように、別々に歩いていた道は、ようやく一冊へ収まり始めていた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
五年前の地下報告とユノたちの地上報告を照合し、前世の日本を知ると認めたうえで、リィナへ格好の悪い過去から少しずつ話す約束をした魔導士。
・リィナ・アルセイル
同じ事件を別の場所で解決していた記録へ驚き、前世の誰かではなく今のレイルが逃げる理由を知りたいと自分の言葉で求めた剣豪。
・ユノ・アステル
日本、東京、電車という言葉が通じた衝撃に呼吸を乱しながら、記憶を互いに誘導しない照合手順を自分から選んだ勇者候補。
・カイン・ヴェルド
五年前の避難図へ間違えた線を残したまま自分で道を増やし、呼吸を乱すユノへ石板で必要な指示だけを渡した無言の剣士。
・セレネ・グランツ
四件保持を一人でできなかった失敗ではなく調査隊全員の成立条件として書き直し、終了後の安全条件までレイルへ追記させた術式設計者。
・フィア・レコード
二冊の報告書を同一事件として照合し、前世記憶を誘導しない質問表と回答分離の手順を引き受けた目録官。
・アルド・クロイツ/ノア・エルグラム
炉都への正しい街道を確認する場面でも逆方向へ向き、研究者に肩を引かれながら次の同行任務へ加わった前衛と研究者。
【今回の能力・設定メモ】
・前世記憶の照合
共通語彙だけで同一世界と断定せず、互いの回答を先に記録してから照合する。白環帰還門が他者の記憶を材料に偽物を作る危険も考慮する。
・表裏の報告書
旧坑道事件では、ユノとカインが地上の灰狼と旅人避難、レイルとリィナが地下の術喰穿孔虫と誘導術式を処理していた。
【次回】
炉都バルガルドで、鍛冶師たちは武器の値段より先に、使い手が隠していた遅れと傷を見抜きます。
地上と地下へ分かれていた五年前の報告書が一冊へ綴じられ、言葉だけ残った故郷も慎重に照合され始めました。レビュー、ブックマーク、フォローで、次に炉火へ持ち込まれる二本の愛用品を見届けていただければ幸いです。




