第16話「薬草三本に必要な荷物」
師匠の最初の授業は、魔法を撃つことではなく、持っていく物を減らすことから始まります。
夜明け前のアルヴァート家で、グシャと何かが潰れるような音がした。
台所で朝食の支度をしていたエナが振り返ると、玄関の床に巨大な荷袋が転がっていた。正確には、荷袋の下から二本の細い脚と、灰褐色の髪だけが見えている。
「……レイル?」
「だ、大丈夫だよ。転倒を想定した受け身は取れたから」
「荷物に潰されることも想定していたの?」
「可能性としては......」
荷袋がもぞもぞと動いた。だが、背負い紐が肩へ食い込んでいるらしく、レイルの身体は床から指一本ぶんも持ち上がらない。
そこへ、腰に木剣を差したリィナが勢いよく扉を開けた。
「おはよ――なにしてるの?」
「薬草採取の準備だ」
「薬草採取じゃなくて、もう家出少年でしょ、それ」
荷袋の口からは、水筒が二本、丸めた雨具、保存パン、干し肉、傷薬、解毒薬、縄、方位磁針、火打ち石、油布、予備の靴紐、替えの靴下、羽根ペンが三本、予備インクの小瓶まで顔を出していた。胸元には、自作小説を納めた革鞄がいつもどおり固く結ばれている。
「グラウ森林の境まで行く。天候の急変、転倒、道迷い、野生動物、毒虫、予定外の宿泊、記録具の破損を考えれば――」
「予定外の宿泊になる前に、荷物が重くて村を出られないよ!......昨日も言ったでしょ」
「出発前に問題が判明したのは成果だ」
「昨日の時点で問題だらけだったでしょうが!」
リィナが荷袋を引っ張り、エナが背負い紐を外す。ようやく解放されたレイルは、床へ座り込んだまま真剣な顔で息を整えた。
「脈拍が上がっている。出発前の運動としては過負荷だったな」
「自分で背負ったんでしょ!」
そのとき、玄関の外から杖の石突きが二度鳴った。
「朝から元気だねえ。薬草三本に、どうして鍋が二ついるんだい」
広いつばの魔女帽を傾け、エルシアが玄関先に立っていた。昨日の神殿で課題を言い渡した本人は、指定した四品が巨大な荷袋の奥へ埋没している光景を、半分閉じた目で眺めていた。
「片方が破損した場合の予備です」
「鍋が壊れる薬草採取なら、その時点で帰りな」
「帰還判断用の地図もあります」
「はぁ。やっぱあんたは病気だね」
エルシアは遠慮なく荷袋をひっくり返した。床へ散らばった道具を杖先で選り分け、昨日指定した四品だけを残す。
水筒。羽根ペンと薄い記録板。採取した草を包む布袋。そして、昼までの保存パン。
「これだけ」
「傷薬は?」
「私が持つ」
「縄は?」
「街道脇の草地で何を縛る気だい」
「予備の羽根ペンは?」
「折れたら、今日見たことを頭へ残して帰りな。記録具が壊れただけで観察まで消えるようじゃ、道具に使われてるのと同じだよ」
レイルは不満そうに四つを見下ろした。革鞄だけは胸へ抱えたままだ。原稿は【未完】の保持枠を占め、周囲の完成を守るための安全装置でもある。エルシアも、それを外せとは言わなかった。
「荷物を減らしたことで、別の危険が増えています」
「増えた危険を、頭と目で減らすのが今日の授業だよ」
空が白み始めるころ、三人はエルデ村北側の薬草畑を抜けた。乾いた土の匂いが朝露に混じり、遠くにはハルツ街道が灰色の帯のように伸びている。その先、グラウ森林の暗い樹冠と街道のあいだに、低い草地が広がっていた。
エルシアは草地の手前で足を止めた。
「この中から、薬になる草を三本探すんだ。名前は教えない」
「薬効もですか?」
「教えない」
「毒草との誤認例は?」
「教えない」
「過去の死亡例は?」
「食べさせる課題じゃないよ。まずよく見な」
レイルはしゃがみ込み、草へ顔を寄せた。緑の葉が重なり、似た形のものが何十種類も生えている。前世の図鑑のように、名前と写真が並んでいるわけではない。
最初に見つけたのは、細長い葉へ赤い筋が走る草だった。だが、すぐには摘まない。葉の表を見て、裏返し、茎の硬さを指で確かめ、匂いを嗅ぐ。
「葉裏の筋が二股。似ている毒草は三股です。虫食いが少ないのは苦味が強いから。ただし日陰のものは赤筋が薄い。これは日当たりが十分で、茎の根元に白い毛がある」
「で?」
「薬草の可能性が高いです」
「摘むの?」
「周囲の同種と比較してから」
次に、丸い葉の草を五株調べた。さらに小さな白花をつけた草を、匂いが消えるまで何度も揉んだ。リィナは最初こそ一緒に覗き込んでいたが、やがて草の上へ寝転がった。
「ねえ、まだ一本目?」
「最初の判断が間違っていれば、残り二本も基準が崩れる」
「太陽、もうあそこまできてるよ」
リィナが指した太陽は、いつの間にか森の梢より高く上がっていた。
それでもレイルは止まらなかった。葉裏、匂い、茎、虫食い、湿り気、日当たり。知識として覚えた特徴を一つずつ、自分の目と指で確かめる。
やがて採取袋には、赤筋の葉、白い鈴形の花、苦い匂いの蔓草が一本ずつ入った。
エルシアは三本を並べ、順に指した。
「紅脈草。止血。白鈴草。熱冷まし。苦蔓草。弱い毒抜き。......全部正解だ」
レイルの肩から、ようやく力が抜けた。
「では、課題は完了ですね」
「もう昼だけどね」
リィナの腹が、返事の代わりに大きく鳴った。
エルシアは杖でレイルの額を軽く小突いた。
「だが、ね。間違えないことだけ考えて、正しいものを選ぶ時間を失ってる」
「毒草を選ぶよりは――」
「誰も毒草を選べとは言ってない。慎重さには決断期限が要る。時間が無限にあると思ってる慎重さは、ただの停止だよ」
レイルは採取した三本を見下ろした。すべて正しい。だが、もし怪我人が待っていたなら、昼まで確認を続けた正解に意味があっただろうか。
「次から、一株につき五分」
「特徴が不足していた場合は?」
「保留して次を見る」
「保留数の上限は?」
「三つ」
「三つとも判断不能なら?」
「その時は戻って報告する。分からないまま摘まないことと、分かるまで永遠に立ち尽くすことは違うのさ」
レイルは小さく頷き、採取袋の口を結んだ。
帰り道、レイルは指定どおり残された保存パンを取り出した。過剰装備の底で押し潰されていたらしく、丸かったはずのパンは薄い板のようになっている。
それを見たリィナが、自分の保存パンを半分に割って差し出した。
「交換」
「僕の分はあります」
「そっちはもう建材でしょ」
「形状が変わっただけで、可食性は――」
「お腹鳴ってる。早く決める!」
レイルは自分の潰れたパンを半分渡し、リィナのパンを受け取った。決断期限は、薬草だけに必要なものではないらしい。
正しいものを選ぶには、知識だけでは足りない。
いつ決めるかも、自分で決めなければならない。 それも、素早くにだ。
今回の課題:慎重さへ決断期限を設ける。
今回の成果:三種の薬草を、自分の目と手で正しく判別。
次回、レイルは魔力経路の設計責任を人体へ問い始めます。




