第15話 五十歳の魔女 ――呪いより面倒なもの――
中央から派遣された専門家は、厳格な老神官でも鎧姿の封印官でもありませんでした。
見た目は二十代後半、自称五十歳。年齢の申告は話すたびに変わります。
彼女はレイルの力を、初めて「呪いではない」と言い切ります。
専門調査員は、予定日の書かれていない封書が届いた翌朝に来た。
村の入口へ着いた荷馬車から、最初に降りたのは大きなつばの魔女帽をかぶった魔女だった。
帽子だけがふわりと地面へ落ち、その後から灰紫色の髪が現れる。毛先だけ銀色へ変わる長髪。身体を包むというより、身体の方が中へ埋もれている黒灰色の大外套。編み上げのロングブーツ。右目には複数の薄い硝子板を重ねた魔導単眼鏡があり、琥珀色の左目は寝起きのように半分閉じていた。
身長はリィナの母よりずっと低い。バルドの胸にも届かない。外見だけなら二十代後半の小柄な成人女性だが、荷台から降りる時に腰へ手を当て、堂々と「よっこいしょ」と言った。
「誰が荷馬車へ段差をつけたんだい。膝に悪いじゃないかい」
御者が呆れた声を返す。
「荷台は最初からその高さですよ、先生」
「なら設計が悪いんだね」
「帰りも同じ馬車ですが......」
「帰る頃までに直しな」
「馬車をですか?」
「まず踏み台からでいい」
女は落ちた帽子を拾い、手で埃を二度払った。笑うと片方の八重歯が見える。年若く見える顔立ちと、立ち上がる時の掛け声がまったく噛み合っていなかった。
レイルは神殿の前で、革鞄を抱えたまま観察した。
「見た目は二十六歳から三十歳。腰と膝の反応、言葉遣い、御者の態度から、実年齢は四十代以上の可能性があります。魔力による外見固定か、長命種との混血、生命系統の術式事故――」
こつん、と杖の先が頭へ落ちた。
「こら。人の年齢を初対面で解析してるんじゃないよ、第一レディーに失礼だろう」
「まだ結論は出してません」
「結論まで出したら、もう一発こつんとやるよ」
「では、正確な年齢を教えてください」
「二十九歳」
「今の身体年齢ですか」
「”戸籍上”だよ」
「中央神殿の派遣記録には、元学院講師とあります。二十九歳で『元』になるには経歴が――」
「四十九歳」
「一秒で二十歳増えたんですけど」
「今朝の気分だ」
「年齢は気分で変動しません」
「ちっ。五十歳だよ」
「さらに増えた」
「切りがいいだろう?」
「公的記録の信頼性が――」
「もう一発ほしいのかい?」
女が杖を持ち上げると、リィナがレイルの頭へ両手を載せた。
「この子、考えたこと全部言うから、先に押さえときますね」
「助かるよ。アンタは話が早そうだ」
「リィナ・アルセイルです。レイルの幼なじみで、小説の最初の読者で、監督役です!」
「最後の二つは自分で名乗る肩書きかい?」
「家族会議で決まりました」
「六歳児へ監督をつける家族会議。報告書より面倒そうだね」
女は大外套の内側から、一枚の羊皮紙を引き出した。何度も折り畳まれ、端には薬草茶の染みがある。アウレリオが中央へ送った詳細な記録だった。
アウレリオは、羊皮紙の末尾へ記された派遣者情報を確認し、居住まいを正した。
「エルシア・ヴァント。【大陸継路組合・Aランク特任術師】。元王立結着学院実技講師、元術式研究員。高位術式封鎖、迷宮異常解析、魔法事故調査を専門とする――」
そこで、アウレリオの声がわずかに止まった。
「二つ名は、【空廊の魔女】」
「そこまで読まなくていいよ」
エルシアは嫌そうに杖を振った。
「肩書きが長い。辺境で薬草酒を飲んでる、口の悪い魔女。それで十分さ」
「Aランクって、強いんですか?」
レイルが尋ねると、アウレリオではなく、入口まで案内してきた御者が顔を引きつらせた。
「坊主。普通のAランクは、中央から辺境の村一つを調べるためだけには来ない」
「私は普通じゃないって言いたいのかい?」
「先生を普通だと思ったことはありません」
「帰りの馬車代を倍にしてやろうか」
エルシアは大外套の襟を直し、改めてレイルへ向き直った。
「あたしゃエルシア・ヴァント。専門調査員、元王立結着学院実技講師、元術式研究員、現辺境魔女。今は五十歳ということで通しておくれな」
「年齢、明日は変わりますか」とレイルが尋ねる。
「聞いたら六十にしとくよ」
「増える一方なんですね......」
杖がまた上がり、リィナがレイルを一歩後ろへ引いた。
アウレリオは深い息を吐いてから、エルシアを神殿へ案内した。
調査は祈祷室ではなく、普段は子どもへ文字を教える小部屋で行われた。窓際の机に原稿、鑑定記録、祭礼布の糸、椅子から削り取った膠、焦げた保存パンが並ぶ。
エルシアは椅子へ座らず、最初に床を杖で叩いた。次に窓枠、机、壁、天井を順に見る。
「何を調べてるんですか」
「安全な逃げ道さ」
「実験事故を想定して?」
「アンタが怖がるものは、完成直前へ寄るんだろう。なら、私が何かを完成させようとした時に、部屋ごと巻き込まれない配置が必要だ」
「神殿が派遣した専門家なのに、事前に部屋の安全確認をしていないんですか」
「できるわけないだろ。報告書で分かるのは、報告した人間が気づいた範囲だけだ。現場へ来て自分の目で確かめるのが、専門家だよ」
「まともなことを言ってる」とリィナが小声で言った。
「年齢以外はね」
「おい、聞こえてるよ」
エルシアは机の中央へ、短い白蝋燭を立てた。火はつけない。その横へ原稿を置き、レイルの右手を机へ乗せる。
「まず、今止まっているものを言いな」
「僕の小説の最後の言葉です。勇者が故郷へ帰って、『ただいま』と言う最後の『ま』が書けません」
「書けないのか、書いても残らないのか」
「書く動作はできます。インクも紙へ触れる。でも、最後の一画だけが定着しません」
「本人は完成させたい?」
「はい」
「本当に?」
エルシアの琥珀色の瞳が、単眼鏡の向こうからレイルを射抜いた。
「完成させたら評価される。失敗作と決まる。次の話へ進まなければならない。待っている相手へ答えを返さなければならない。それでも終わらせたい?」
レイルはすぐに答えられなかった。
エルシアは急かさない。杖の石突きを床へ置き、返事が完成するまで待った。
「怖いです」
「聞いたのは怖いかどうかじゃない」
「怖い。それでも、終わらせたい。前みたいに、途中の可能性へ逃げたままにはしたくない」
「なら、今は原稿が待っているわけだね」
エルシアは原稿へ指を近づけたが、触れなかった。
「次。パン屋で起きた時、何が変わった?」
「一頁を書いたつもりでいました。ただいたずらに文字だけ増やして、話を進めなかった。僕自身が、本当は完成へ向かっていないと分かっていた」
「原稿が壊れたわけじゃない。アンタが『これは続けている』という関係を壊したんだね」
「原稿との契約ですか」
「契約ほど綺麗なものじゃない。執着、恐れ、目的、自己認識。それらが絡んだ魂の癖、とでもいうべきものだ」
アウレリオが尋ねる。
「では、呪いではないと?」
エルシアは焦げたパンを持ち上げ、匂いを嗅いだ。少しだけ齧り、顔をしかめる。
「ああ。呪いじゃないね」
レイルの肩から力が抜けかけた。
「はぁ。よかった......」
「よくはないさ。 ある意味、呪いより面倒だ」
「ええ。よくなかったの!」
エルシアは焦げた欠片を皿へ戻した。
「呪いなら術者がいる。術式がある。目的と解除条件がある。切る、解く、返す、上書きする。難しくても道具箱の中に方法はある。でも、これはアンタ自身だ。誰かが外から植えつけたんじゃない。魂の性質が、世界の法則へ触れている」
「先生、それは、息子から取れないんですか」とエナが尋ねた。
母の声には、期待と恐れが混じっていた。
エルシアは誤魔化さなかった。
「今の段階で、取る方法は知らない。仮に見つけても、それがこの子の魂を削ることになるなら、私は勧められないね」
「でも、このままでは他人の仕事を――」
「だから使い方を探せ。外せないなら、仕組みを知る。知った上で管理する。可哀想だから何もしないのが、一番危険だからさ」
バルドが腕を組む。
「息子へ何をさせる気だ、先生」
「まず魔法を覚えさせる」
「なぜだ。こいつの力は小説や椅子を止めた」
「魔法は、完成の工程を意図的に分けて観察できるからだよ。パンや刺繍は、職人の感覚へ頼る部分が多い。魔法なら始まり、形、最後の確定を術式として見られる」
「危険では?」とアウレリオが言う。
「危険だね」
「即答しないでください」とレイルが言った。
「安全だと嘘をつく専門家よりましだろう」
「比較対象が悪すぎます」
エルシアは白蝋燭へ視線を向けた。
詠唱はなかった。
指も動かしていない。
だが――次の瞬間、蝋燭の芯へ小さな火が灯った。
熱が生まれ、橙色の光が揺れる。何の前触れもなく見えたが、レイルには違和感があった。火が出る直前、空気の中で何かが三度、ごく短く形を変えた気がする。
「今、三つあった」
レイルが呟く。
エルシアの八重歯が見えた。
「何がだい?」
「最初に魔力が動いた。次に、芯の周りへ熱の形ができた。最後に、それが火として――世界へ認められた」
「見えたのかい」
「見えたというより、最後だけが強く感じた。僕の力の――完成する直前の圧力に似てる」
エルシアは蝋燭の火を指でつまむように消した。
「魔法は大きく三つに分かれるんだ。始動、形成、結着。魔力を起こし、現象を組み、最後に世界へ結果として確定させる」
「その最後を、僕が止めている?」
「まだ断定はしないし、できない。だが、アンタの魂は結着へ異常に敏感らしいね」
「なら、魔法を結着直前まで作って、最後だけ僕の原稿へ――」
「考えるのが早い」
「できますか」
「今のアンタには無理だ」
「理由を聞いても?」
「対象を選べない。返すこともできない。火を止めたつもりで原稿が完成したら、待たせている少女が突然『おかえり』を言わされるかもしれない。逆に火を返した時、触媒も標的もなくなっていれば、どこへ飛ぶか分からない」
「じゃあ、練習すれば」
「練習するための基礎がない。アンタは文字を読めるだけで、魔力を自分で起こしたことも、形にしたこともないだろ?」
エルシアは杖の先でレイルの額を軽く押した。
「私は魔法を教えられる。お前の固有律の使い方は、お前が見つけろ」
「弟子にしてくれるんですか?」
「まだ決めてないけどね。面倒すぎたら、中央へ送り返す」
「僕は中央へ行ってないので、送り返す先として不適切では?」
「そういう返しをする弟子候補は、かなり面倒だね」
リィナが手を挙げる。
「私も習える?」
「魔法を?」
「レイルが危ないことするなら、隣で止める方法を知りたい」
「いい理由だ。ただし、剣を振り回して原稿へ当てる癖は直しな」
「一回も当ててない!」
「当たりそうな距離で振ってる時点で管理失格」
「レイルより先に私が怒られた!?」
「管理役を名乗ったんだろう。責任は肩書きの後から来るんじゃない。名乗った瞬間からついてくる」
リィナは口を尖らせたが、木剣を机から遠い壁へ立てかけた。
エルシアはその素直さに満足したらしく、外套の内側から小さな紙片を二枚出した。
「明日の夜明け、村外れの薬草畑へ来な。持ち物は水、筆記具、布、昼までの食料。課題は薬草を三本見分けること」
「雨天時は?」とレイルが尋ねる。
「それでも来な」
「雷の場合は?」
「関係ない。おいで」
「魔物の目撃情報があった場合は?」
「私が先に見つける」
「退路は何本確保しますか」
「一本で十分だろ」
「一本が塞がれたら?」
「別の道を作るだけ」
「事前に作らないんですか」
「作らない」
「危険では?」
「危険だね」
「さっきから、それを免罪符にしてませんか」
エルシアは笑い、八重歯を見せた。
「アンタは心配しすぎだ。その慎重さ、病気だね」
「確認しているだけです」
「その病気のおかげで生きて帰るなら、治すに治せない。だから明日、本当に役立つ心配と、自分を動けなくするだけの心配を分ける」
レイルは紙片を受け取った。
家へ戻るなり、持ち物一覧を書き始めた。水筒、予備水筒、雨具、替え布、紐、傷薬、解毒用薬草、方位確認用の磁針、緊急時の合図――一枚では足りず、二枚目へ進む。
隣で見ていたリィナが、十四項目目で顔をしかめた。
「薬草三本取りに行くだけだよね?」
「薬草畑へ行くまでに何が起きるか分からない」
「引っ越しじゃないんだよ?」
「予定どおり帰れない場合の準備だ」
「荷物が重くて予定どおり歩けなくなる!」
窓の外から、まだ神殿にいるはずのエルシアの声が風に乗って届いた。
『おいバカ弟子、二枚目へ行ったら全部没収しちまうよ』
レイルは羽根ペンを止めた。
「遠距離で聞こえてる......」
「魔女――いや、魔法って便利だね」
「監視される側には不便しかない!」
原稿を止めるだけだった力の前へ、初めて魔法という道が現れた。
それが救いになるのか、さらに大きな事故を作るのかは、まだ分からない。
けれどレイルは、もう「もう少し準備してから」と言って明日を先延ばしにはしなかった。
準備表を一枚へ無理やり収め、夜明けに起きるため寝床へ入る。
鞄の中では、勇者がまだ扉の前に立っている。
そしてその外では、未完の少年の最初の魔法修行が始まろうとしていた。
妙齢の魔女、エルシア・ヴァントが登場しました。外見は二十代後半ですが、自称年齢は安定しません。
彼女は【未完】を外部から与えられた呪いではなく、レイル自身の魂が世界法則へ触れる固有律と見ています。
次回から通常魔法の基礎と、慎重すぎる弟子の師弟コメディが本格的に始まります。




