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未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――  作者: 勇者ヨシ君
第7章「地図の外の子どもたち」

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第99話「敗者を拾う虎」


 信用できない相手と、同じ道を歩かなければならない時があります。

 その最初の一歩は、信用ではなく、本人へ選択を返すことから始まります。

 転移から二十二日目。

 ――その音の正体は、谷道をこちらへ進んでくる二台の荷車だった。


 六本脚の岩駆獣(ロック・トロッター)が、岩だらけの坂道を懸命に駆けている。一台目は荷台の布が裂け、二台目は左の車輪が大きく傾いていた。車輪が石へ乗り上げるたび、乾いた軸から耳障りな音が響く。


 ただ急いでいるのではない。


 荷車の背後を、閉じた白い環を頭部へ浮かべた二体の白環回収獣ホワイト・リトリーバーが追っていた。


「白いの。人、追ってる」


 ミュラの顔から、朝食後まで残っていた幼い笑みが消えた。


「知っている隊商か?」

「灰橋の人。怪我した人、運ぶ」


 セレネが眼鏡の位置を直し、揺れる荷車と回収獣の距離を見比べた。朝日に照らされた淡い金髪が風へ流れ、青紫色の瞳だけが鋭く細められる。


「接触まで、どれくらいですか」

『二十一秒。後方荷車ニ負傷者三名。左車輪、あと二回大きく跳ねたら外れます』


 少女姿のニアから、先ほどまでの軽い調子が消えていた。黒銀色の猫耳が真っすぐ前を向き、半透明の指先が荷車までの距離を示す。


「セレネ。車輪を支えられるか?」

「十秒程度なら。ただし、レイルの杖は一度しか使えません」

「先頭の一体を道から外す。もう一体は――」

「右」


 ミュラが谷道の脇を指さした。


「細い岩。下、空っぽ。重いの乗ると落ちる」

「そこまで誘導する。セレネは荷車を止めないでくれ。走らせたまま支えてほしい」

「簡単に言いますね」

「できないか?」

「できます。ですが、失敗した時は一緒に怒られてください」

「分かった」

「迷わず返事をしないでください。成功させるつもりで言っています」


 荷車の御者が、こちらに気づいた。


「☆△□○! ◇◇、白環!」


 四本ある腕のうち二本で手綱を握り、残る二本で必死に身振りを送っている。


『翻訳候補。危険、退避、白環接近。たぶん「逃げろ」って言ってます』

「助けを求めているんじゃないのか?」

『現時点では、ニアちゃんたちを巻き込まないよう警告してる可能性が高いです』

「なら、なおさら放っておけない」


 レイルは、セレネが包帯と銀糸でつないだ【七環導杖(セプテム・ロッド)】を構えた。


 握っただけで、修理箇所がかすかに軋む。


(使えるのは一度だけだ。倒そうとするな。道を変えるだけでいい)


「レイル。出力は基礎級の範囲で」

「分かっている」

「その顔――分かっている顔ではありません」

「今は信じてくれ」

「……今回だけですよ?」


 セレネの返事と同時に、荷車が目の前の岩へ乗り上げた。


 左の車輪が大きく浮く。


「【硬土(ハード・ソイル)】!」


 セレネが地面へ両手を向ける。薄い土の支柱が車軸の下へ滑り込み、外れかけた車輪を押し戻した。


 だが、支柱にはすぐ亀裂が走る。


「十秒です!」

「十分だ!」


 レイルは杖先へ風を集めた。


 包帯の下で銀糸が青白く光り、無理に接続された導魔路(どうまろ)が震え始める。


「【風弾(エア・ショット)】!」


 放たれた風の塊が、先頭の回収獣の前脚を横から打った。

 脅威を倒すほどの威力はない。


 それでも、高速で駆けていた巨体の進路を半歩ずらすには足りた。

 回収獣は谷道の端へ爪を立て、岩壁へ激突する。


『杖内部、逆流開始! レイル、今すぐ魔力を切って!』

「停止だ!」


 レイルが魔力を断つと同時に、銀糸が一本だけパチンと弾けた。

 杖先から白い煙が立つ。


「一回分、本当に終わったな」

「感想は後です! もう一体が来ます!」


 ミュラが道端の石を拾い、二体目の回収獣へ投げつけた。

 小さな石は頭部の白環へ当たり、甲高い音を鳴らす。


「こっち!」

「ミュラ、前に出るな!」


 レイルが腕を伸ばすより先に、ミュラは地面の亀裂を跳び越えた。

 回収獣は目の前の小角族へ向きを変え、そのまま細い岩棚へ踏み込む。


 一歩。

 二歩。

 三歩目で、岩棚全体が崩れた。


 白環回収獣の金属脚が宙を掻き、砕けた石と一緒に谷底へ落ちていく。鈍い衝突音が、何度か岩壁へ反響して遠ざかった。


「ミュラ!」


 レイルが駆け寄ると、ミュラは崩れた岩棚の手前で尻餅をついていた。


「平気。ここ、落ちない場所」

「知っていても、先に言ってから動け。心配するだろ」

「言った。右、空っぽ」

「説明が短すぎてわからん!」


『レイル、それミュラに言えます?』

「今だけは言わせてくれ、伝わらなくてもな」


 傾いていた荷車は、谷道の広い場所でようやく止まった。

 セレネの【硬土】も役目を終え、細かな土へ戻る。


 四腕の御者たちは、すぐには武器を下ろさなかった。荷車を守るように並び、レイルたちを警戒している。

 セレネも杖を構え直そうとしたが、ミュラが二組の間へ立った。


「私、ミュラ。灰橋、行く。この人たち、白いの倒した。敵、違う」


 たどたどしい現地語を、身振りを交えながら伝える。

 御者たちは顔を見合わせた。


 やがて、荷台から白髪の老女が降りてきた。濃い灰色の肌を持つ四腕族で、上の二本の腕には薬箱を抱え、下の一本には短い杖、残る一本には開いた環を縫い取った布片を持っている。


 老女はミュラの包帯を確認し、次にレイルの焦げた杖と、セレネの擦り傷だらけの指を見た。


「☆○、ミュラ。◇△□、灰橋」


『ミュラの無事を喜んでます。あと、灰橋宿まで同行するか聞いてる……たぶん』

「たぶん?」

『翻訳精度五十九%です。語尾が長いと、同行と結婚の区別が怪しいです』

「今、その誤訳候補は必要か?」

『危険回避のためです。恋愛事故も事故なので』

「黙っていてください、ニア」


 セレネの声が一段低くなった。


 老女はそんな三人を眺め、何かを察したように笑った。

 水袋と乾燥果実を差し出し、さらに灰色の布片をミュラへ渡す。


 布には、環の一部を閉じずに残した印と、灰橋宿までの簡単な道順が縫い込まれていた。


「これ、灰橋のしるし。困った人、泊まれる。あとで働く」


 ミュラが説明する。


「無料なのか?」

「最初だけ。次、返す」

「食事も?」

「最初の椀。二杯目、仕事」


 レイルは布片を受け取り、縫い込まれた開いた環を見つめた。


(何も聞かずに助けるわけじゃない。でも、返す方法を後から選ばせてくれる)


 閉じた白環とは、まるで逆だった。

 隊商は壊れた車輪を応急固定する間、谷道の脇で休むことになった。


 レイルたちは水を分けてもらう代わりに、負傷者の包帯を交換し、荷台から落ちた薬箱を拾い、回収獣の残した白い破片を道から取り除いた。


 出発する頃には、最初に武器を向けていた御者も、レイルへ短く頭を下げた。

 老女が灰橋宿の方角を示し、四本の指を順番に折る。


『道、四つ先。白環の跡を避けろ。日が落ちる前に岩陰へ入れ……だと思います』

「最後だけ急に曖昧だな」

『たぶん「美人に気をつけろ」も混ざってます』

「そんな注意が道案内に入るわけないでしょう?」


 セレネが冷たく言うと、老女はレイルたちのやり取りを見て愉快そうに声を上げて笑った。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 隊商と別れて半刻ほど進んだ頃、ミュラが突然足を止めた。


「重い人、来る」

「人数は?」

「一人。速い」


 ニアが少女型の猫耳を前へ向ける。


『大型生体反応、一。武器あり。魔力、かなり高め。ニアちゃん的には、油断ナシ案件です』

「軽い口調で危険度を下げるな」

『危険度は下げてません。場の空気だけ、ちょいアゲ?みたいな』


 セレネが杖を持つレイルの前へ半歩出た。


「戦闘になった場合、その杖はもう使えません」

「分かっている。手で基礎魔法を使うか」

「前へ出てという意味ではありません」

「まだ言ってないだろ?」

「顔が言ってるんですよ、レイルの場合」


 岩壁の上から影が落ちた。


 ――それは、黄褐色と黒の縞毛に覆われた、二メートル近い虎の顔を持つ巨体。片耳には古い裂傷が走り、肩や腕にも消えきらない傷跡が何本も残っている。腰には厚い片刃の長刀と鉤縄(かぎなわ)。荒々しい外見に反して、重心は低く、爪先から尾の先まで無駄な力がなかった。


 赤銅(しゃくどう)色の瞳は鋭い。だが、そこにあるのは獲物を値踏みする冷たさではなく、見失った子供をようやく見つけた者の焦りだった。


 その虎獣人は砂をほとんど跳ね上げずに着地すると、レイルたちには目もくれず、最初からミュラだけを見た。


「☆□◇、ミュラ。△○……(きず)、◇?」


 彼の低く太い声が、谷間へ響いた。

 ほとんどは聞き取れない。それでも、最後に混じった単語だけは、昨夜ミュラから教わった言葉に近かった。


(今、傷があるかって聞いたのか?)


「ラガン」


 ミュラの指が、反射的にレイルの外套をつかむ。


「○。足、少し。もう歩ける」


 ミュラも最初は現地語で返した。途中から、レイルたちにも伝わるように覚えたばかりの共通語を混ぜている。


 ラガン・ティグリスは片膝をつき、ミュラの顔、腕、包帯を巻いた脚へ視線を走らせた。


「◇△□? こいつら、☆○◇?」

「違う。助けた人」

「◇◇、水? 食べ物?」

「取られてない。レイル、自分の水くれた。セレネ、怪我見た」


 短いやり取りだったが、問いかけの順序から何を確認しているのかは分かった。


 怪我をさせられていないか。

 無理に連れてこられていないか。

 水や食料を奪われていないか。


 レイルが説明へ割って入ろうとした時、セレネが小さく首を横へ振った。


「今は、ミュラ本人へ聞いているようですね」

「ああ」


(俺が先に弁明したら、それだけで疑われるか)


 ラガンは最後までミュラの返事を聞くと、ゆっくり立ち上がった。

 そして初めて、レイルとセレネへ正面から向き直る。


「――両手を見えるところに出せ。妙な術式も止めろ」


 今度の言葉は、訛りこそわずかに残っていたものの、明瞭な共通語だった。

 レイルは驚きながらも、杖を握っていない左手を胸の高さまで上げた。


「お前、共通語が話せるのか」

「必要な時にはな」


 ラガンは素っ気なく答えた。


 レイルは、ラガンの外套を留めている金具へ目を止めた。

 そこにも、隊商の布片と同じ、閉じ切らない灰色の環が刻まれている。


「その印は、灰橋宿のものなのか?」

「宿だけの印ではない」


 ラガンは金具へ一度触れた。


「【灰環(かいかん)】だ。白環に追われる者や、国を失った者が使い始めた印だと言われている」

「白環の反対ということか?」

「それほど単純ではない」


 ラガンは谷道に残る白い焼け跡を顎で示した。


「白環は、先に正しい形を決める。人も道具も国も、決められた形へ戻せば争いはなくなる。それが白環の考え方だ」

「学院地下の設備と同じですね」


 セレネが言った。

「停止した炉を不完全と判断し、稼働状態へ戻そうとしました」

「古い白環の装置は、今も同じことをする。命令へ合わない者を間違いと決め、直すか、分けるか、消す」


 レイルは、自分たちを五方向へ引き裂いた白い環を思い出した。


(俺たちが離れたかったかどうかは、最初から条件へ入っていなかった)


「では、灰環は正しい形を決めないのか?」

「決める者もいる。縛ろうとする者も、利用しようとする者もいる。灰色だから善人というわけではない」


 ラガンの答えは、慰めになるものではなかった。


「ただ一つ、環を閉じる前に出口を残せ。それだけは共通している」

「出口……」


「契約を断る言葉。途中で帰る道。期限が切れた後に選び直す権利だ。灰環が開いているのは、そのためだ」


 少女型ニアが、自分の指で空中へ円を描いた。

 最後の一箇所だけを、わざとつながない。


『白環は、答えを先に閉じちゃう。灰環は、あとで「やっぱナシ」が言える隙間を残す……って感じ?』

「言葉は軽いが、大体合っている」

『ラガン様から高評価ゲット。ニアちゃん、理解度アゲです!』


 レイルは、開いた環を見つめた。

 完成していないから安全なのではない。


 **閉じる前に、誰かが拒める場所を残している。**


 それが灰環の意味だった。


「人間、名前は?」

「レイル・アルヴァート。こっちはセレネ・グランツ。今しゃべっているのがニアだ」

「ミュラを連れて、どこへ行くつもりだった」

「俺たちの仲間を捜しながら、灰橋宿へ向かうつもりだった。ミュラが道を知っていると言ったので」


 ラガンの目が険しくなる。


「道を知っているから助けたのか」

「いや、違う」


 レイルはすぐに否定したが、それだけでは足りないと思い直した。


「倒れていた時は、道案内ができることなんて知らなかった。ただ、置いていけなかった」

「その言葉を信じろと?」

「信じなくていい。それはミュラに聞いてくれ」


 レイルはミュラの手を外套からそっと外し、自分から二歩後ろへ下がった。

 セレネも意図を察し、レイルの隣へ並ぶ。


(俺がここに立ったままじゃ、ミュラが俺に気を遣って答えるかもしれない)


 ラガンは、その動きを無言で見ていた。

 少なくとも、共通語を話せるだけではない。知性はとても高い。

 言葉の選び方も、相手の仕草も、誰が誰へ遠慮しているのかまで見ている。


 ラガンは再びミュラの前へ片膝をついた。今度は、レイルたちにも聞こえるよう共通語を選ぶ。


「ミュラ。こいつらに脅されていないか」

「ない」

「帰りたいと言ったのに、連れてこられたか」

「違う」

「水や食べ物を取られたか」


 ミュラは首を横へ振った。


「レイル、自分の水くれた。魚もくれた。セレネ、怪我見る。ニアは――」

『ニアちゃんは場を明るくする担当でーす!』

「おい、ニア」

『はい。翻訳と警戒も担当です』


 ラガンは少女型ニアを一度見たが、分からないものを無理に分類しようとはしなかった。


「今は、どうしたい」


 ミュラはすぐには答えなかった。

 レイルを見て、セレネを見てから、北西へ続く谷道へ目を向ける。


「仲間、探す。この人たちと灰橋宿へ行く」


「なぜだ」

「レイル、私を置かなかった。だから私も、レイルの仲間、見つける」


 ラガンはしばらく黙っていた。

 その間、レイルは説明を差し込まなかった。


(助けた理由を俺が語れば、ミュラの選択まで俺の功績に見える)


「分かった」


 ラガンは立ち上がった。


「だが、お前たちを信用したわけではない。白環に追われる人間を、ミュラと一緒に放ってもおけない。灰橋宿まで俺も行く」

「案内してくれるのか?」

「見張るついでだ。宿へ着いたら、何があったか最初から話せ」

「それでも助かる。俺たちだけでは、水場一つ探すにも時間がかかる」

「この先の谷で水を間違えれば、腹の中から苔が生えるからな」

「そういう情報は、もう少し早く言ってくれるか?」

「まだ一緒に行くと決めていなかったんでな」


 理屈としては正しい。

 しかも、共通語を使えることを最初からひけらかさず、必要になるまで黙って状況を見ていた。


(見た目より、ずっと頭が切れる。下手な誤魔化しは通じそうにないな)


 ニアがレイルの肩へ肘を置こうとして、半実体の腕をすり抜けさせた。


『論破されてるレイル、ちょいレアでウケ――』

「今のは使わなくていい語彙だ」

『はーい。封印しまーす』


 セレネは眼鏡の奥で青紫色の瞳を細める。ラガンは現地語から共通語へ切り替えた瞬間にも、語順の乱れや言葉を探す間がほとんどなかった。


「ミュラへは現地語で話し、私たちには共通語。相手に合わせて使い分けているのですね」

「子供へ、慣れない言葉で事情を聞いてどうする。言い間違い一つで答えが変わる」


 荒々しい外見からは想像しにくい、慎重な答えだった。


(ただ腕が立つだけじゃない。言葉の違いが、証言を変えることまで分かっている)


 ラガンは二人の反応を観察しながら、さらに言葉を続けた。


「お前たちの共通語も聞こえていた。話の半分ほどは分かる」

『え、最初から聞かれてた系です? ニアちゃんの盛り上げトークも?』

「騒がしい小精霊がいることは分かったがな」

『小精霊じゃなくて、次世代型・超高性能ナビ少女なんですけどー』


「ニア、今は黙ってろ、ややこしくなる」

『レイルまで冷たいしー!』


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 ラガンは歩き出しかけ、セレネの修理した杖を見た。


「おい、その杖は使えるのか」

「一度使って、もう限界だ」

「なら捨てるな。谷底の深さを測る棒にはなるからな」


 セレネの眉がわずかに動いた。


「私の修理は、一度だけですが成功しました」

「成功したから壊れずに残ったのだろう。悪く言ったつもりはない」

「……そうですか」


 褒められたのか判断できず、セレネは少しだけ困った顔をした。


 道中、ラガンはレイルの歩き方を二度止めた。


「足裏へ風を集めるな。お前は進む力より、止まる力が足りない」

「急停止なら学院で訓練しているんだが」

「膝で止まっている。次は壊すぞ?」


 ラガンは息を長く吐きながら踏み込み、足裏から逆向きへ魔力を逃がした。腰が沈み、巨体が砂の上でぴたりと止まる。


「【裂息制動(ブレス・ブレーキ)】だ。速さを上げる前に、止まりたい場所で止まれ」


 エルシアと学院教官からも、似たことを言われた。


 だがラガンの技は、風圧だけではなく呼吸と重心、地面の硬さまで一つにつながっていた。

 レイルが真似ると、一度目は前へつんのめった。

 ミュラが腕をつかみ、セレネが背中を支える。


『転倒回避、成功! 三人連携、マジでアゲです!』

「失敗したのは俺だ」

『膝を壊さなかった部分は成功でよくないです?』


 ラガンが僅かに頷く。


「そいつの言う通りだ。全部を失敗へまとめるな」


 日が傾く前に、谷風を避けられる岩棚へ着いた。

 夕食は隊商からもらった灰麦の平焼きと、ミュラが見つけた酸味の強い赤果。四人で分ければ量は少ない。


 セレネは平焼きを四等分した後、レイルの一切れだけが僅かに小さいことへ気づいた。


「交換してください」

「誤差だ」

「意図的な誤差です」

「ミュラの方が身体が小さくても成長期だ。セレネは昨日まで食べていない」

「だからといって、レイルが毎回最小になる理由にはなりません」


 セレネは自分の一切れと交換した。


「俺の方が大きくなった」

「今日は私が決めました。明日は同じ大きさにします」


 ラガンは二人のやり取りを見て、ミュラへ尋ねた。


「いつもこうなのか」

「レイル、減らす。セレネ、見つける。ニア、騒ぐ」

『ニアちゃんだけ役割が雑じゃない?』

「でも、明るい」

『それならオッケー!』


 夜の見張りは、レイルとセレネが最初の組になった。

 ミュラとラガンが眠り、ニアが猫型へ縮んだ後、焚き火の音だけが残る。


「わたし、リィナの代わりになろうとしているわけではありません」


 セレネが不意に言った。


「そう思ったことはない」

「貴方は無意識に、前を守る人がいないことを何度も確認しています。私は前衛にはなれない」

「セレネはセレネだ。条件を分けて、俺が抱え込む前に止める。それはリィナにはできない役割だ」


 口にしてから、レイルは自分が無意識に、誰かへリィナと同じ動きを求めていたことに気づいた。前へ出る剣がいない不安を、セレネへ背負わせかけていたのだ。


 (違う役割だから、一緒に歩ける。代わりを作る必要なんてなかった)

「それは、評価ですか」

「感謝でもある」


 焚き火の向こうで、セレネの表情が少し柔らかくなる。火の粉が舞うたび、淡い金髪の周囲へ小さな光球が二つ、三つと生まれては消えた。感情が計算からこぼれた時だけ現れる、彼女自身も隠しきれない光だった。


 眼鏡を外した青紫色の瞳が、真っすぐレイルを見ている。その美しさに気づいた瞬間、レイルは焚き火へ視線を戻した。


 (感謝を伝えただけだ。変に黙ったら、そっちの方がおかしい)

「では、受け取っておきます」


 肩の猫型ニアが、目を閉じたまま呟いた。


『いい雰囲気案件……』

「寝ていないのか」

『省魔力で聞いてるだけでーす』

「今すぐ完全休眠してください!」


『はーい。お二人、ごゆっくりー』


 セレネは猫型ニアへ布をかぶせた。

 レイルは、なぜ自分まで叱られたような気分になるのか分からなかった。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 翌朝、尾根を越えた先に、谷を埋める灰色の灯りが見えた。


「【灰橋宿(はいばしやど)】だ」


 ラガンが言う。

 人間圏の地図では空白だった場所に、井戸と鍋と寝床の灯りが、確かに存在していた。




【今回の登場人物】


・レイル・アルヴァート

 ミュラ本人の選択をラガンへ返し、裂息制動では転倒を全部の失敗へまとめないことを学んだ少年。


・セレネ・グランツ

 リィナの代わりではなく、自分にしかできない条件分離と見張り役でレイルの隣を選んだ少女。


・ミュラ・ノクテ

 ラガンの保護へ戻る道を与えられたうえで、レイルたちとの仲間捜しを自分から選んだ案内人見習い。


・ラガン・ティグリス

 レイルたちを信用しないまま、ミュラの選択を守るため灰橋宿まで同行した虎獣人。ちなみに野営中はほぼ寝ていません。


・ニア

 明るい少女口調で場を和らげながら、危機と休息では役割を切り替えた疑似精霊。


【今回の能力・設定メモ】


・【裂息制動】は呼吸、重心、足裏の排圧を合わせ、膝や腰を壊さずに止まる王核式の基礎戦技です。

・ラガンの同行は無条件の保護ではなく、ミュラの安全を確かめるための見張りを兼ねています。


【次回】


 人間史で未開とされた大陸に、共同井戸と仕事帳と最初の一椀が待っています。屋根の下へ着いた夜、白環の警報鐘が鳴り響きます。


 転びかけた身体を三人で支えたように、レビュー、ブックマーク、フォローが物語の膝を守ってくれます。

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