奈落へのダイブ
「本当にやるつもりか、リナ。一度チェーンの外へ出れば、お前のハッシュ値は誰にも保証されん。万が一戻れなくなれば、お前も『存在しないエラー』として処理される」
カジムの警告は、静かに、しかし確実に彼女の帰路を断ち切っていた。
ダイブポッドの内部。無機質な壁に囲まれた狭い空間で、リナは目を閉じる。指先が、わずかに震えていた。
「……怖いよ」
「それでも、行く」
彼女は息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「数式がサクを否定したのなら——私は、その外側を探す」
沈黙の向こうで、カジムが何か言いかけて、やめた。
「……戻ってこいよ、リナ」
その言葉に、返事はしない。
できなかったのかもしれない。
リナは接続を切る。
次の瞬間、世界から“支え”が消えた。
光ファイバーの網——意識を固定していたはずの座標系が、音もなくほどけていく。
重力がない。
方向もない。
ただ、自分という境界だけが、曖昧に溶けていく。
白い光が視界を満たす。
——いや、違う。
それは光ではない。
意味を失った情報の残滓が、無理やり“白”として知覚されているだけだ。
次の瞬間、リナは“落ちていた”。
底がない。
終わりもない。
それでも、確かに落ちていると分かる。
身体はないはずなのに、内臓だけが引きずり下ろされるような感覚。
思考が遅れる。輪郭が崩れる。
「——っ、ぁ……」
声にならないノイズが、意識の奥で弾けた。
やがて、光が途切れる。
代わりに現れたのは、完全な“闇”だった。
それは単なる無ではない。
捨てられた情報。
消去された記録。
誰にも参照されなかった痕跡。
あらゆる“意味になれなかったもの”が、沈殿している場所。
——『位相の澱』
お読みいただきありがとうございました!
面白いと思っていただけたら、評価やブクマで応援いただけると嬉しいです。
感想などもお気軽にどうぞ。




