第八章 エピローグ・聖域の日常 37話 【日常への回帰】
かつて天使族が傲慢を競い合った要塞は今や地図から消え、代わりに残されたのは、二人が愛した古城の穏やかな空気だった。窓の外に広がる空は以前と変わらず青く、城内にはどこまでも静かな時間が流れている。
いつものテラス。結界越しに吹き抜ける風を受けながら、二人は以前と変わらぬティータイムを過ごしていた。戦火を潜り抜け、世界を根底から揺るがした張本人たちとは到底思えないほど、その表情は穏やかに溶け合っている。
「やっと、本当の日常が戻ってきたわね」
アリシアが柔らかく微笑んだ瞬間、シンは言葉を返さず、彼女の腰を抱き寄せると、そのまま自身の膝の上へと乗せた。
「……もう、あんなことは懲り懲りだ」
シンの声には、先ほどまでの破壊神のような威圧感はなく、ただ最愛のものを失いかけた者の悲痛な切なさが滲んでいた。アリシアは彼の胸に顔を預け、「ごめんなさい」と小さく謝罪するしかなかった。
「謝罪だけじゃ済まさない。たっぷり埋め合わせはしてもらうぜ」
シンはテーブルにワイングラスを置くと、アリシアを軽々と片腕で抱き上げた。
空中に浮かぶような浮遊感に、アリシアは身を硬くする。
「シン……まだ、傷が……」
これからの夜の更けゆく時間を思い、彼女は歩みを止めようと声を上げるが、シンは甘い誘惑を一切許さなかった。
「今日は一睡もできないと思え。俺がどれほどまでにお前を愛しているか、その身に深く刻んでやる」
向かう先は、二人だけの聖域である寝室だ。
アリシアは諦めたように肩の力を抜きつつ、甘く抗う。
「……あなたの愛の深さなんて、十分わかっているってば」
「いや、分かっていない。……否、足りていないというのが正しいな」
歩みは止まらない。寝室のドアノブに手をかけたその瞬間、現状報告に訪れたエルサと鉢合わせた。事態を察したエルサが一歩引く。
「エルサ、報告は明日だ。誰一人としてこの先には近づけるな」
「……承知いたしました、陛下」
エルサが深く頭を垂れて去ろうとする背中を見て、アリシアは穏やかに微笑む。
「エルサも、これまでのことをねぎらってあげてよね」
その言葉に、シンはふっと目を細めた。
「今日は俺以外の男の――いや、誰の名前も聞きたくない。ただ俺だけを見てろ」
寝室へと足を踏み入れ、天蓋付きのベッドに彼女を優しく下ろす。シンは逃がさないと言わんばかりに、まっすぐ彼女の瞳を射抜くように見つめた。
「俺だけを……俺だけを見ていろ」
その渇望に応えるように、アリシアは身を乗り出し、彼の唇に己を重ねた。
「貴方も、ね」
重なった二人の影は、やがて夜の闇の中に溶け合い、一つの影となって消えていった。聖域の夜は、誰にも邪魔されることなく、ただ愛と情熱だけが満たされていく。




